あなたに、傘を
横丁の天井で照らしているようなぼんやりとした灯りから、くっきりと眩しい光が見えてきた。明るくなってくると共に、老人の表情も呆然としていたものから、徐々に意識をはっきりと持ったものに変わり始めた。
旧泉の広場の展示が目に入ると、人間の世界に戻ったのだと、感じた。
「ごめんなぁ、迷惑かけてしもうて」
「いえ……」
横丁の出口から、地上への出口階段までを歩く間、老人はひたすら初名に詫びていた。
壊れた人形のように、何度も何度も頭を下げていた。だが、歩く足取りは、横丁に向かっていた時よりもよほどしっかりとしていた。
地上への階段を上る際には、老人は初名の介助は必要ないとまで言った。
片方の腕で杖をつき、1段ずつしっかりと踏みしめる老人は、もはや神社で見かけた時のか弱い老人の姿ではなかった。
だがそれでも、地上に続く階段の前に立つと、ほんの少し躊躇した。外は、雨が降っていた。降りしきる雨を見つめるその姿は、初名が初めて見た時よりもいっそう小さく見えた。
「ほな、これで……もう、ここへは来ませんよって」
「ち、ちょっと待ってください。ちょっとだけ、ここで待っててくれませんか」
初名の言葉に、老人は戸惑いながら頷いた。
それを見て、初名は地下街の店に向けて走った。旧泉の広場を抜け、イーストモールを走り抜け、案内板の少し先にあるドラッグストアに駆け込み、大急ぎで戻った。
元の場所に、老人は所在なさげに立っていた。そんな老人に、初名は手にしたものを差し出した。
「傘……濡れちゃうので」
「ああ……ありがとうなぁ」
初名が差し出したビニール傘を手に、老人はぺこりと頭を下げた。顔を上げた老人は、ほんの少しだけ考え込んだ。
そして、唇をかみしめると、初名に向き合った。
「一言だけ。あのお二人に、『ごちそうさん』て伝えてもらえまへんやろか?」
「……はい」
初名が戸惑いながらも頷くと、老人は今度こそにっこりと笑って、手を振った。
「おおきに。ほな」
老人は、そう告げてくるりと向きを変えた。そして土砂降りの街の中へ、ゆっくりゆっくり歩いて行った。
初名は、その後姿をずっと見守っていた。老人の小さな姿が見えなくなるまで、いつまでも。
大粒の雨が、視界を遮る。
いつもなら華やかで賑やかなこの街を、薄暗がりと雨音が塗り替えている。
老人の姿も、そんな雨の向こうへと消えていった。まるで、一時だけ降る激しい夕立が、すべてを洗い流したかのように。
(これだけ激しい雨でも、犯した罪は消え去りはしないんだ)
初名は老人と風見の言葉を思い返して、そう感じていた。
ふと、一歩踏み出していた。
一年中快適に調整された空間から踏み出すと、そこは梅雨の雨と、じっとりと湿気を帯びた空気と、夏に近い暑さが同時に纏わりついて来た。
琴子と礼司は、こんな雨の中死んだ。あの子も、こんな雨の日に苦しんでいた。
きゅっと目を瞑ると、瞼にまで冷たい雨が落ちてきた。だが次の瞬間、雨の感触がふわりと消えた。
目を開けると、目の前には見慣れた傘があった。差しているのは、自分よりも小さな少年だった。
「濡れてまうよ」
その少年……清友は、先日初名が差し出した傘を、同じように差してくれていた。
「ありがとう……でも、いいよ。持っていて。ここから神社まで、また濡れちゃうよ」
「……僕があの神社に帰るって、何でわかったん?」
「……何となく」
濡れた頬や額を拭いながら、初名は答えた。こみ上げてきていた思いを、ぐっと抑え込むことができて、内心はほっとしていた。
「私は地下で傘を買えるから、持って行って。また今度、返してもらいに行くから」
何とか笑顔を作ってそう言うと、清友はじっと初名の顔を見上げたまま黙り込んだ。気のせいか、その瞳が、ほんの少し悲しそうに見えた。
「君は、いつも傘を差してくれるなぁ」
「え?」
清友の瞳が、瞬き一つせず。まっすぐに初名の瞳を覗き込んでいる。初名は、清友の瞳を介して、今の自分の姿を見た。ほんのわずかな間に、情けないほどにずぶ濡れになっている自分を。
「必要としている人に、君は必ず傘をくれる。僕にも、あの老人にも、弥次郎にも、辰三にも。きっと……風見にも」
「ど、どういうこと……ですか?」
清友は、その問いには答えず、ただにこりと笑った。
「覚えといて。君に傘を差してあげられる者も、必ずいる。その時は、迷わずにその手をとってな」
そう、囁くように言うと、清友はふわりと初名に傘を手渡した。
もう一度清友に渡そうと前を向いたその時ーー雨は、止んでいた。いつの間にか、空は晴れていた。
どんな雨も、止まないはずがない。そう伝えているようだった。
あの老人の雨は、いつか、止むだろうか。
初名はそう考えたものの、すぐに振り返り、地下街へと戻っていった。




