撫子と、タンポポ
「な、何ですやろ?」
礼司の様子に、琴子までが首をかしげて、その言動を見守った。
そして、礼司は一瞬の間を置いて、尋ねた。
「もしかして、僕や家内と知り合いやったんやないですか?」
老人が身を固くし、箸を取り落とした。慌てて拾おうとするも、震えてもたつく。その様子を見て、礼司は「やっぱり」と呟いた。
琴子がそっと箸をもう一度握らせると、老人は落ち着いたような、しかしかえって動揺した様子で琴子から視線を知らせた。
だが琴子は、もう一度老人の顔を覗き込んだ。
「お客さん、そうやったんですか?」
「は、はぁ……」
「いややわ、ごめんなさい!『初めて』なんて言うてしもて……」
「僕も気付かずにおって、大変失礼しました」
「いや、そんな……ええんや」
二人に揃って恐縮されて、老人は居心地悪そうに肩をすくめた。
だが二人の方は、何だか様子が違った。
「でも嬉しいわぁ。ウチらここに来る前のこと、全然覚えてへんのですよ。そやからお知り合いに会えるやなんて思ってもみんかったわぁ」
「覚えてない……ですか」
「恥ずかしながら。夫婦で店を持とうとしとったことは、何とか覚えとるんですけど、それ以外のことは、とんと……」
老人は、唖然としたように二人の話を聞いていた。
「お客さんとウチらって、どんなお知り合いやったんですか? 仲良くさせてもらってたんですか?」
琴子は、無邪気に尋ねた。老人は困ったように俯き、言葉を失っていた。
「琴子、お客さんにそんな……」
「あぁ、いや、申し訳ない。その……お二人があんまり変わってへんもんやから、びっくりしててなぁ……」
老人は俯き加減のまま、カウンターの方に視線をずらした。
「ああ、撫子の花……飾ってはるんですなぁ」
「そうなんです。この人がくれたんやと思ってたんですけど……」
「俺やない」
「ずっとこう言うんですよ」
琴子が唇を尖らせて拗ねると、老人はようやく視線を上げた。そして、琴子の髪の花飾りに目を止めて、言った。
「何を言うてるんや。礼司さんがいつも琴子さんにあげるんは撫子やない。その、タンポポやろ?」
老人が髪に挿したタンポポを指さした。
「よう覚えてます。戦時中、コーヒー豆なんか手に入らんかったから、あんた……礼司さんはタンポポで代用しとった。使うのは根っこやから言うて、花は琴子さんに……」
老人が語ると、礼司は少し恥ずかしそうに俯いた。対照的に、琴子は嬉しそうにはにかんだ。
「ええ、ええ、そうなんです。いや、そんなこと知っててくれはるんやね」
「……そやから、撫子の花は俺やないって言うたやろ」
「ええ? ほな、いったい誰が……」
首をかしげる琴子の顔を見上げて微笑みながら、老人は、まだ湯気の昇っている味噌汁をすすった。
「ああ、美味しい……」
「ほんまですか? いや、良かったぁ」
そう、コロコロ笑う琴子と、それを誇らしそうに見守る礼司の顔を見て、老人はもう一度味噌汁をすすった。今の、自分の顔を見られまいとするように。
そして、ほんの少し震えた声で、言った。
「ああ、ほんまに、美味しいなぁ……」




