胸に抱えたもの
「か、風見さん……なんで?」
初名は全速力でここまで走ってきた。独走していたはずなのにいつの間に追い抜かれていたのか。驚きを通り越して戦慄が走った。
「何でって……俺の本気をなめとったらアカンぞ」
不適な笑みが、天井の明かりを受けてギラリと光って見えた。普段ならその美貌にドキリとするところだが、今は、鋭い刃に見えてしまった。
「なんで、逃げた?」
「逃げては……」
「逃げたやろ。あの場所で、俺に嘘つけると思うな」
まるで、くいを打ち付けられたかのように感じた。初名は飲み込んでいた息を吐き出して、静かに頭を下げた。
「ごめんなさい、逃げました」
「よろしい。何で逃げたか、聞いてもええか?」
風見の視線が、ふわりと和らいだ。その表情に、初名もふわりと肩の力を抜きかけた。だが、問われたことを話すのは、難しかった。
何か言わねば、と思うほど、初名の両手のひらに力が籠もっていった。
風見は何も言わず、ただ待っていた。
「……言いたくないか?」
初名は、おそるおそる頷いた。言ってしまえば、風見の明るく優しい視線が、軽蔑の色に染まってしまうのではないかと、思った。
だが風見は、強ばった初名の頭にぽんと手を置いた。
「俺は、人間の仕組みの中で生きとるわけやない。そやから、お前が思てるようなことを言うたりせん」
「……え」
「俺は……俺らは、人間とはまったく違うんやから、気にすんなや。お前がずーっと心に抱えてる重たいもんを、ほんの一瞬下ろすぐらい手伝うたる。どうせ、俺らには関係のないことや。何でも吐きだしてまえ」
風見は笑った。いつものように、にこやかに。初名が抱いていた不安ごとすべて照らす光のように。
初名は、顔を上げた。眩さに目を細めながら、おそるおそる風見の顔を見上げ、そして口を開こうとした。その時だった。別の姿が、目に映った。
「あ……」
初名は風見の背後に見えるその姿を凝視していた。初名の視線が別の者に止まったことに、風見も気がついた。
風見が振り返ると、柔らかかったその面持ちが強ばっていくのが、初名には見えた。
「あいつは……」
その視線の先には、老人がいた。昨日、初名と露天神社で出会った……琴子と礼司を殺したと言われた、あの老人が。
「琴子さん……琴子さん……ああ、どこにいるんや……」
老人は、周囲の人は目に入っていないようだった。彼の目に入るのは、ただ一人、琴子なのだ。前後も左右も不覚の様子で、ただひたすらに琴子の名を呼び、老人はさまよっていた。
何かを求めて歩く地下街の人の波の中にあって、老人の歩く姿は異様だった。
風見は、じっとその姿を見据えていた。
「あいつなんやな? その腕の痣作った奴は」
初名はとっさに手首を押さえた。反射的に隠したのだが、今は、それが風見の問いを肯定する行いになった。
風見の声には、逃れられない気迫が籠もっていた。それがあの老人に向けられた時、いったいどうなるのか、想像もつかなかった。
「風見さんは、あの人を罰するんですか?」
「まさかな。あの男を罰するのは、俺やない」
そう言うと、風見は静かに老人に近づいていった。不思議なことに、人波はするすると風見を避けていった。まるで、道を譲るように。
遮るもののない道を歩き、風見は老人の前に立った。その存在に、老人はようやく視線を向けた。初めて、琴子以外のものが見えたようだった。
「あんさんは……」
老人は目を瞬かせて風見を見つめていた。普通の人には、風見は見えないはずであったのに。
初名は感じ取った。この老人が、風見を見ることができるのではない。今、風見がこの老人に姿を見せたのだ。
「あんさん……どこかで会うたことがありましたかいなぁ?」
「……ああ、会うたで。ずぅっと前に、ここ、梅田で」
「はぁ……ずっと前……」
老人には、まだ理解できないようだった。だが風見は、ただ一点を見つめていた。老人の顔を。もしかすると、あの日の老人の顔を、かもしれない。
風見は遙かな高みから老人を見下ろし、静かに告げた。
「琴子に、会いたいか?」
その言葉に、驚いたように、そして喜んだように、老人は飛びついた。
「琴子さんに会えるんですか? ホンマに!?」
「ああ、ホンマや。ただし……」
老人に向けて、風見は再び冷徹な視線を向けた。
「あの店で下手なことしようもんなら、今度こそ容赦せんぞ。琴子がどんな様子か……お前の想像とどれほどかけ離れていようと、取り乱すな。あの二人を傷つけるようなことをすれば、俺が容赦せん」
老人は、息をのみながらも、迷わずに頷いた。その頷きに、風見も今度こそ頷きを返した。
そしてくるりと向きを変え、横丁へ通じる下り階段へと向かっていった。
その後姿に、先ほど見た憤りが少しも見えず、初名は少し戸惑った。
風見たちに一歩遅れて、おずおずと下り階段を降りて行ったのだった。




