もう届かない言葉
鳥居をくぐり、境内末社の隣を抜け、社務所の前まで来て、初名と老人は参道に立った。本来は参道の中央に立つべきではないとされていたが、老人を支えながらだと難しかったので、今回だけ見逃してもらえまいかと祈りながら歩いた。
お参りをして、境内に設置されたベンチに老人を座らせ、初名も女性も一息つくことが出来た。老人はいつまた叫び出すかと案じていたが、意外にも、境内では穏やかな様子だった。それどころか一言も話そうとしない。
ベンチに座り、老人を挟んで初名と女性が、にこやかに話をしていた。
「ごめんねぇ、付き合わせてもうて」
「いえ、自分から言い出したことなので」
「許してくれるか」
老人は、静かにそう言って、初名を見上げた。その瞳は、やはり初名を映しているようで、別のものを見つめているように見えた。
「……いいですよ。これぐらい、お安い御用です」
そう、初名が答えると、老人の目にうっすらと涙が浮かんだ。そして、初名の手をとり、両手でぎゅっと握りしめた。先ほどのように、信じられない膂力で握られて、振り払うことが出来なかった。
「ほんなら、あの男はやめて、わしと一緒になってくれるな?」
「……は?」
老人は涙を浮かべながら、笑っていた。その背後では義理の娘という女性が目を見開いて立ち上がっていた。
「お父さん、何言うてるの! こんなところで、こんな若い子に……!」
「ま、待ってください!」
無理矢理引き剥がしてしまおうとする女性を、初名は止めた。そして握りしめた手のひらごしに、老人の瞳をまっすぐに見つめた。
「ごめんなさい、久しぶりに会ったからわからないんです。私、どんなお約束をしていたんですか?」
老人は、一瞬悲しそうな顔をしたが、再び語り始めた。
「わしは……あんたのご両親に言うたんや。あんたと結婚させてください、て。店も継ぐ、て。そやけど、わしに赤紙が来て戦争に行ってる間に、あんたは……!」
老人の手に、さらに力がこもった。初名の手が、握りつぶされそうに圧迫されている。その片手が離れて、初名の髪に伸びた。
「こんな……タンポポなんか、はずしたらええ。わしが、もっと似合う花を……そうや、あんたの好きな撫子の花を挿したるさかい」
「いや、この花は……」
初名は咄嗟に片手を引き抜き、髪にかざったままだったタンポポを押さえた。それを見た老人は、急にわなわなと震えだした。拒絶されたと、受け取ったように。
「なんでや……あんた、撫子の方が好きやったやろ。なんでそんな、雑草みたいな花を……」
「そうじゃなくて、これは人から貰ったものなので」
「わしがいくらでも、綺麗な花挿したるて……何回も何回も、言うたのに。あんたはいつも……何でや……!」
「お父さん、ええ加減にして!」
女性が、老人の腕を掴んで強引に引っ張った。今度こそ引き剥がそうと。だが、老人は微動だにしない。体格で見れば明らかに女性の方が力は強そうなのに、だ。
「なんでや……なんで……!」
女性の制止になど見向きもしない。老人の声も視線も、ただ初名に向かっていた。いや、初名を通した、|誰か≪・・≫に。
「い、痛……!」
初名の手が、いよいよ痛みで悲鳴を上げた。その時、何かが、老人を止めようとする女性の手に覆い被さった。そして、老人の手が驚くほど軽く引き離されたのだった。
驚き呆然としている初名の耳元に、静かな声が聞こえてきた。
「大丈夫? 痛くない?」
声とともに、何かが初名の手を優しく包み込んだ。人の手だった。だが不思議と手のひらの温もりとは少し違う。こたつや布団の中のように、初名の手のひらをじんわりと温めてくれている。そんな感じがしていた。
見ると、目の前には男の子が立っていた。先ほど、地下街で会った、あの男の子……清友が。
「い、痛くない……です」
「良かった」
清友はにっこり笑うと、ふわりと視線を老人に移した。初名に向けたものとは真逆の視線を。
「この子は、きみの探す人とは違う」
清友の視線と声を、老人は呆然としながらも受け止めていた。
「きみの探す人は、もうこの世にはいない。きみが、殺したんやから」
初名は、息をのんだ。それと同時に、老人はまるでナイフで刺されたかのような悲痛な面持ちに変わった。
驚いているのではない。重い事実を突きつけられた。そう、見て取れる顔だ。
その言葉の意味を問おうと清友を振り返ると、清友は再び微笑んだ。
「その花を贈った人らに、お礼を言ってくれへんかな」
「これですか? あれ……?」
指さされ、髪に挿した花にそっと触れると、なんだかカサカサした感触にあたった。先ほどまで黄色く鮮やかに咲いていたタンポポは、枯れてしまっていたのだ。
「力を貸して貰ったから。でも、そのせいで枯らしてしもた。ありがとうと、ごめんて、そう伝えて貰てええかな」
「伝えるって……」
清友は、答えず微笑みで返した。
「困ったことがあったら、またおいで」
そう言って、清友は手を振った。そしてその数秒後には、溶けるように姿が消えていった。
(そうか、助けてくれたんだ)
理屈も何もわからないが、初名は漠然と、そう感じたのだった。もう見えなくなった少年に向かい、頭を下げると、別の声が響いてきた。
「お父さん、どないしたん? 大丈夫?」
女性の、必死に老人を呼ぶ声が初名の意識をも呼び戻した。女性は、目の前で男の子が消えたことなど何も気にせず、老人の身を案じていた。
(この人には、あの子……清友さんが見えてないんだ)
だが、おそらく老人ははっきりと見ていた。声も、聞いたのだろう。
清友が語った言葉に、怯え、恐れ、震えているのだから。




