雨上がりの露天神社
早めの夕飯を頂いてしまった初名は、少し時間が空いた。その足は、家に続く電車の駅ではなく、地上に向いた。
先ほど男の子を見送った階段から地上に上がると、雨は止んでいた。昼過ぎからずっと空を覆っていた雲も、今は夕闇に塗りつぶされようとしている。
地上に並ぶビルや店もちらほらと明かりを点灯し始めている。だんだんと、夜景が形作られようとしていた。
初名の足は、吸い寄せられるように明かりが多く点灯しているアーケードの方に向かった。そのアーケードの入り口は特徴的で、天井近くに大きな人形が飾られている。人形浄瑠璃『曽根崎心中』の主人公・お初の顔だ。ここは、お初天神通りと呼ばれる場所。文字通り、お初天神に通じる商店街だ。
そこは昼でも夜でも賑やかで、一歩足を踏み入れるだけでその喧噪に飲み込まれそうになる。様々な店が軒を連ね、道行く人に声をかけてくる。どの店も美味しそうだ。先ほど琴子の定食を食べて満腹になっていなければ、初名もふらふらとどこかの店に引き寄せられていたかもしれない。
だが今は、また今度、と思えた。
今行きたいのは、別の場所だ。このアーケードの中心にある、この界隈の千三百年来の総鎮守、露天神社……通称お初天神だ。
以前は「天神の森」があったそうなのだが、今は周囲をビルが囲んでいる。ある意味で、森の中にひっそりと建っている。
「露天神社」と書かれた大きな石柱の横には、玉垣が並んでいる。普通の神社ではよくある造りだが、この神社の場合、鳥居をくぐるとすぐにビルの入り口がある。なんとも不可思議だと、初名はいつも思う。だが今日は、もう一つ不思議だと思える光景に出くわした。
社号が記された石柱の傍で、老人が一人、花束を持って立っていたのだ。
ちらりと見た感じだと齢は八十、いや九十を超えていそうな高齢だ。手足は枯れ枝のように細く、足元もふらついている。それなのに、視線は一点を見据えて動かない。
恋愛成就の祈願や曽根崎心中の舞台としても知られているため、参拝客は後を絶たない。だが、鳥居をくぐらず、石柱の前で佇む者は珍しい。初名は物珍しさから、その老人の行動を思わず見つめてしまった。
老人は何も言わないまま、じっと石柱のあたりを見つめていたかと思うと、そっと手にしていた花束を捧げた。まるで、そこにいる誰かに贈ろうとしているかのような、丁寧な仕草だった。
花束は、決して華美ではなかった。一つ一つは小さな花で、それらが白、淡いピンク、紫などの色で揃えられていた。淡く、可憐な花束という印象だった。
老人は花を供えると、神妙に手を合わせていた。口元ではおそらく何か念仏のようなものを唱えており、汗が額から頬にかけて流れ落ちるのも気付いていない。まして周囲の人間など、まるで目に入っていないようだった。
「……許してくれ」
老人は、確かにそう言った。
空気に溶けそうな声でそう呟くと、老人は踵を返した。だが次の瞬間、その体がぐらりと揺れた。
暑さのせいか、ずっと下を向いていたからか、持病か何か、かーーいずれにしても、考えるより先に初名は一歩踏み出していた。
そして、老人の腕と肩を支えると、老人もまたぐっと足をこらえることができた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……あんた……あんたは……!」
老人の瞳が急に大きく見開かれた。そこに映っているのは初名のはずだが、まるで別のものを見ているような顔だった。まるで、死んだ人間を見つけたような……。
老人の腕が、初名の腕を両側からがっしりと掴んだ。
「わしが憎いか?」




