うっかりさんの落とし物
淡い桜色の花びらが、はらりはらりと空に舞う。その向こうに真っ青な空と、その色を映す高層ビルの壁面がまばらに見える。
露天神社……通称・お初天神である。この地を千三百年もの間、総鎮守として見守って来た伝統ある神社は、全国でも有数の繁華街のど真ん中に存在する。都会の喧騒の中でも静かに鎮座する様は荘厳であり、守られているとふと感じる温かみがあった。
大きな鳥居をくぐると、初名は手水舎で手と口をそそぎ、鳥居をくぐる人々を見守るように存在する社殿に向かう。お賽銭をそっと投げ入れ、二礼二拍手一礼……お賽銭箱の向こうに、そう案内板が掲げられている。
案内に従ってお辞儀をし、脇にどくと、初名は境内末社の方へと向かった。
長い時を経て、露天神社の中には近在各地に祀られていた社が合祀されていた。その一つ、開運稲荷社にも人は多く集まっている。
初名はその波を避けて、脇道に入った。すると、すぐに会いたかった姿が見えてくる。
大きなしめ縄のはった屋根の下。立派な角をはやして、優しい瞳で参拝者を見守る大きくて黒い牛……神牛舎の『撫で牛』だ。
初名は、神牛舎の前に立ち、深く頭を下げた。
「無事に、戻ってきました」
それを、第一に伝えなければならないとずっと思っていた。掌には、あの日からずっと大事にしてきた御守りが握られている。プラスチックで作られた竹刀のストラップが下がる御守りだ。
「あの時、お願いを叶えてくれてありがとうございます。おかげで、皆との思い出ができました。それに、去年まで……」
初名の声は、そこで途切れた。その先を言おうかどうか、迷っている素振りだった。迷った挙句、初名は何も言わず、そっと撫で牛像に触れた。こちらを振り返っているように見えるつぶらな瞳を、静かに撫でていた。
「あ、そうか。ここもお願いするならお賽銭がいるんだった」
お賽銭は鳥居をくぐる前から準備していたはずなのだが、社殿の他にお初・徳兵衛像にもなんとなくお賽銭を投げたら、うっかり撫で牛像の賽銭がなくなってしまっていた。初名は慌てて鞄に手を突っ込んだ。財布については手ごたえがあった。が、何かおかしい。
初名は鞄を大きく開いて中をよーく見回してみた。
「あ!」
その大きな声に、境内にいた人たちが一斉に振り返った。だが初名はそれに狼狽えている場合ではなかった。
「テキストが、ない……!」
先日、大学生協で買ったばかりの新品の、必須授業で使うメイン教材が、姿を消していたのだった。




