黒い靄の正体
「そやけど、悪い方には行かんのとちゃうか」
「どうして、そう思うんですか?」
「そこのアホが何も考えんと黒いもん喰うたからな」
煙を吐き出しながら、弥次郎は煙管で辰三をくいっと指した。辰三はひょいと肩をすくめるだけだった。
「ええやん。ああいう黒いもんは喰うてええて、風見さんもやじさんも言うてたやん。結果的に良かったみたいやし」
「良かったけどもやな……」
「あの、すみません、どういうことなんでしょうか」
話についていけない初名の肩を風見がぽんと叩いた。
「さっきのおもちゃの指輪……何や黒いもやが出とった。見えとったやろ?」
初名は唇を引き結んで、小さく頷いた。
「人間が長いこと大事にしとるとな、良いことばっかりでもないねん。中には恨みや妬み、憎しみをぎょうさん吸い込んでまうこともある。あの子みたいにな」
「あの人の、旦那さんへの……恨みってことですか?」
「そうや。旦那が買った方の指輪は、旦那のあの子へのいい感情が長年籠っとったから幸い綺麗なもんやったけど、あのおもちゃの方は違う。嫁いでから今までの分全部が詰まって、もう真っ黒やった。あのままあの指輪を選んどったら、間違いなく悪いもんに引きずられたやろな」
「引きずられるって……地獄ってことですか?」
「下手するともっと悪い。あの世にも行けず、この世の暗い寒いところで、ずーっと囚われたままやったかもな」
「そんな……」
初名の想像を超える言葉ばかり、風見は言う。彼女の求める通り、あのおもちゃの指輪をすすめていたらと思うと、初名は背筋が凍る思いがした。
「ほら、僕が喰うて良かったんやん。何でしばいたん?」
重くなりそうだった空気を裂くように、辰三の呑気な声が響いた。
「お前は突拍子なさすぎるからや」
「何で? 僕があの黒いのん喰うたから、あの子も綺麗な方取る気になったんやろ。こっちやのうて」
辰三はそう言うと、ポケットから指輪を取り出した。プラスチック製の、花のモチーフがついた、おもちゃの指輪だ。
「あ、これ! 食べちゃったんじゃ……?」
「プラスチックなんか食べるアホおらんやろ」
「そ……ソウデスネ……」
もっともすぎるが、何だか釈然としない。
「えーと、こいつは『辰三』いうてな。さっきみたいな真っ黒いもん餌にしとる鬼や」
「鬼!?」
「声も反応もいちいち大きいなぁ」
「すみません……」
「まぁええけど……結局、ヤジさんはあれで良かったん?」
辰三がそう言うと、弥次郎はちょうど二度目の煙草の灰を落とすところだった。返事の代わりに、カンと大きな乾いた音が店内に響いた。燃え尽きた黒い灰が、灰落としの器にぽとりと落ちる。
静まり返った空間に、弥次郎の深い呼吸が一つ、聞こえた。
「……まぁ、しゃあないやろ」
弥次郎は手元で、殻になった煙管をくるくる弄んでいる。
「俺は、あの子と一緒には行ってやれん。一緒に行くなら、俺があげたチンケなもんより、純粋な気持ち貯め込んだ綺麗なもんの方がええやろ」
「一緒に行けないって……どうしてですか?」
初名のその問いに、弥次郎は視線を逸らせた。辰三も、同様に答える気がないようだった。答えたのは、風見だった。
「ここにおる者はな、皆、迷ってるんや」




