食べられた黒い靄
「!!」
「お前か、辰三」
飄々とした様子で戸口に立っていたのは、顔中包帯を巻いた、あのミイラ男だった。細身でありながら、和子が通り抜けようとするのをしっかりと止めている。
「もう一回言うけど、今は気絶せんといてくれや」
「……わかってます」
釘をさす風見に、初名はそっけなく返した。言われなくても、倒れずに何とか踏みとどまっているのだ。あのミイラ男相手に、だ。
「タツ、何しに来てん」
「何しにて……この前修理頼まれてた子を連れてきたんと……あ、あったあった」
辰三と呼ばれたミイラ男は、手に持っていた箱を傍にあった棚の一角に置いた。それから何やらキョロキョロと店内を見回したかと思うと、おもむろに机に向かってぐんぐん歩み寄って来た。
視線は一直線に指輪に向いており、他の何も目に入っていない。
「おい、タツーー」
弥次郎の声よりも早く、辰三の腕は伸びていた。机に並ぶ二つの指輪の片方……プラスチックのモノ言わぬ指輪の方に。そして、次の瞬間ーー
パクッ
という音が聞こえるかと思うほど、あっさりとその口に収まっていた。
「……へ?」
「ごちそうさん」
初名の間の抜けた声のすぐ後に、辰三の呑気な声が響いた。さらに次の瞬間、もっと重い音が響いた。気付けば、風見と弥次郎の両方が、辰三の頭を思いっきりはたいていたのだった。
「お前……何喰うとんねん!」
「痛いなぁ。僕悪いことしたん?」
「したわ、どアホ!」
「いや、悪いかどうかはこの際ええやろ。問題は指輪をどうやって戻すか、や」
激高する風見に対し、弥次郎は落ち着いていた。が、よく見ると手が震えていた。予想だにしない行動に、各々が各々の性格によって狼狽えているらしい。
まさか、指輪を、食べる……なんてことが起こると誰が想像しようか。
そしてよりによって、あのプラスチック製の指輪の方を食べられてしまった。ただでさえ取り乱していた和子はいったいどうなってしまうのか、想像もできなかった。
初名はちらりと戸口の方に視線を向けた。和子が、呆然としてこちらを見ている。どれほど見つめても、机の上にあるのは先程聞きたくない言葉ばかりを並べた喋るプラチナの指輪だけ。その喪失感が、瞳にありありと浮かんでいる。
そう、思えた次の瞬間ーー
「は……あ、はははは! 食べられてしもたわ」
和子は、笑っていた。腹を抱えて、可笑しそうに。目尻に涙まで浮かべて。
「あーあ……ホンマになくなってしもた。これはもう、諦めるしかないなぁ、ふふふ」
和子がそっと涙をぬぐうと、そこには先ほどの怒りや恐怖はもう微塵も見えなかった。代わりに浮かべているのは、陽だまりのような穏やかな笑みだ。
「ごりょんさま……」
指輪は、何かを言おうとした。だが和子は指輪をそっと拾い上げて、それを止めた。
「しゃあないから、こっちの人と一緒に行くわ」
そう告げた瞬間、和子の姿はふわふわ変わり、元の老人の姿へと戻っていたのだった。




