指輪と靄
和子は、頑なだった。もはや店の中の誰とも目を合わせようとせず、じっと床を睨みつけていた。怒りなのか、それとも心の迷いが生じているからなのか、小さく震えていた。
地下街で会った時は、あれほど穏やかで優しく笑っていたのに。それほどまでに、夫の思いを認めるというのが苦痛なのだと思うと、はたで見ているだけの初名までが、胸を締め付けられる思いがした。
(だから、弥次郎さんの指輪に救いを求めたんだ)
机の上には、意志を持って動くプラチナの指輪と、物を言わないプラスチック製のおもちゃの指輪が並んでいる。プラチナの指輪は主の思いを伝えようとあれこれ言葉を紡ぎだすが、おもちゃの指輪の方は、黙して語らない。贈り主の弥次郎のように。
だがその姿は冷淡なのではなく、ただ彼女のことを見守ろうとしているように見えた。その瞬間までは。
「……ん?」
初名の声に気付いた者はいなかった。初名もまた、声を出してすぐに口をつぐんだ。和子の大事にしているものにケチをつけるようなことは憚られた。だがそれでも気になって、もう一度、目を凝らしてプラスチック製の指輪をよく見た。
するとぼんやりとだが、指輪の周りに何やら黒い靄のようなものが見えた。何度も見直したので、間違いではないと思われた。
和子を長年見守って来たプラスチック製の指輪の周囲は、黒く重い空気に、包まれていたのだった。
「もうこれ以上はやめて。私は……やっと解放されたんやから」
和子が声を上げる度、黒いもやが大きくなる。くすぶっている火種のように、和子の声に煽られて大きくなろうとしている。
「まずいな」
隣で、風見がそう呟いた。和子と指輪の様子に気づいていたらしい。
「よくわからないですけど、このままだと何か危ないんじゃ……」
「危ないな。あの子、地獄にいってまうかもしれへん」
「地獄!?」
「声でかい」
風見に口をふさがれたが、飛び出してしまった言葉は防げなかった。
初名の言葉にぴくりと反応した和子は、俯いたまま、聞こえるかどうか曖昧な声で呟いた。
「地獄……そうや、あれは地獄やった。六十年近くもいたけど誰も助けてくれへんかった。両親も、息子も、誰も……それを、たかが指輪一つで……」
指輪は、傷ついたように身を震わせた。だがその様子は、もはや和子の目には入っていないようだった。
「嫌や……もう、あの人なんて顔も見たくない……あの人の影なんて、もう……!」
和子は恐怖の面もちを浮かべて駆けだした。指輪から、そこに感じる夫の影から逃げ出した。先ほどの様子から想像するよりもずっと素早い。
そう思っていると、想像よりも早く店の戸が開いた。
「おっと」
戸を開けた人物は、そのまま飛び出そうとした和子とぶつかった。だが何事か驚く様子もなく、飄々とした声で、中にいる弥次郎たちに言ったのだ。
「なに? 皆揃って、どないしたん?」




