がっくしゅん3
「……雨?」
そんな馬鹿なと、陽が落ちた方と反対側の空を見上げる。
微かに見え始めた星々にカーテンを閉めるように、黒い雨雲が物凄い勢いで迫ってきていたのだ。
同じ光景を見ていた尚春が言葉を漏らす。
「島の天気は変わりやすいって聞きますけど……」
「嘘でしょ。屋根ないんですけど。まだ柱しかないんですけど」
砂浜に突き刺さった流木が4本。
危機的状況にも関わらず、他のアイテムはラップ一本と手ぶらのガシダムである。
これでどうしろと。
「兄貴、通り雨かもしれません。一旦避難しましょう!」
避難たって何処へ……。
考えもまとまらぬまま、走りだした尚春の背中を追う。
「誰か! ガシダム運ぶの手伝ってくだサイ!」
後方でピー子の甲高い声が小さく児玉した。
何やってんだあいつは。
「おいピー子! 雨強くなってきてるぞ! 早くしろ!」
「そんなもの誰も取らないわよ! そこに置いときなさい!」
「駄目デスヨ! 宝物なんデス!」
俺とバケ子が呼びかけるも、声量からしてピー子が近づいて来ている気配はない。
ポツポツと背中に当たる雨が焦燥感を駆り立てる。
「チッ……もう、しょうがないわね!」
「あ、おい!」
バケ子が踵を返した音を聞いて、二人が見失わないように俺も立ち止まる。
こんなことなら本体も燃やしておくべきだったか。
バケ子の足音が聞こえなくなってからほんの数秒、雨音だけの気味の悪い暗闇が生まれた。
なんとも不気味な空間で、この世に一人取り残されたような気分になる。
そこに迫りくるのは、ザッザッザと砂を踏み鳴らす巨大な影。
恐らくはバケ子がガシダムを担いで走っているのだろうが……
怖い。
分かっていても怖い。
「あ、兄貴! ここは少しだけ濡れませんよ!」
先を行っていた尚春の位置を朧げに確認し、遅れてきた2人に声をかける。
「分かった! おーい、ここらしいぞ!」
3人合流してなんとか尚春の元へ行くと、そこは枝葉の乏しいヤシの木の下だった。
「え、ここで雨宿り?」
「これ以上、森の中に入っていくと蛇とか出そうですし……それこそ遭難しかねません」
確かに、確かにそうなのだが。
こんな荒い屋根に総勢4人と1体。
おしくらまんじゅうなどせずとも、すでに野ざらしである。
「他のグループとか見当たりませんか?」
パラパラと葉を叩く音が、尚春の声をかき消す。
言われた通り辺りを見渡すも、人気はまるで感じない。
夕方頃は薪集めをしていた生徒も見えたが、こんな雨では目印となる火が灯るはずもない。
「少なくとも生徒は見えんな」
「……生徒は、ですか?」
語尾に疑問符を付けた尚春に答えてやる。
「あぁ。いくらサバイバルといっても、こんな非常事態だ。先生が来てもおかしくない筈だが」
「言われてみればそうですね……。拡声器を持っていたので、近くに来れば分かりそうですが」
雨雲のせいか、ほんの数分前より暗闇が増している。
すぐ隣で喋る尚春の顔も、輪郭しか捉えられない程だ。
「もう……ここで耐えきるしかないわね……」
と、弱気な態度をみせたのは意外にもバケ子だった。
それにつられるようにピー子も弱音を吐露する。
「ミーサン……」
「……どうしたの」
「靴下がべしゃべしゃデス……」
「……えぇ、私もよ」
降水量に比例して、重たい空気が伝染していくかのようだ。
「それに寒さのせいか……眠たくなってキマシタ……」
「……そうね。ここまでよく頑張ったわ。……もう安心して寝なさい」
「ちょっと二人ともぉおお! 縁起が悪いこと言わないで下さいよ!」
ピー子を永眠させようとするバケ子に、尚春がすかさずツッコミを入れた。
「……私たち、頑張ったわよね? もう、解放されてもいいのよね?」
「何言ってるんですか海唯様!」
「……尚春……最後に一つだけ、お願いをしていいかしら?」
「お願い……ですか?」
「ええ。…………かーさんに伝言を」
「嫌です! 僕は聞きません! 僕は絶対聞きませんよ! 自分の口で伝えて下さい!」
こいつらこの状況でよくふざけられるな。
にしてもおかしい。いつもなら、こんな悪ノリを率先して継続してくるピー子の声が途絶えている。
「え、ちょ、ピー子さん? 返事して下さい! まだ起きてますよね!?」
……。
「兄貴! ピー子さんが! ピー子さんが!」
…………。
「え? 兄貴? 兄貴! う、嘘ですよね? 兄貴の声も聞こえませんよ海唯様!」
尚春の声が右耳にキンキンと響く。左耳からはボソボソと喋るバケ子の声。
「風邪引いちゃうわね。もうどうしようもないわよね。もういっそのこと海で泳ぐ? 三途の川がゴールよね?」
おいおい、こいつ本当に熱でもあるんじゃないのか。
まさかお昼に摂取した塩化水素が原因では……?
いやいや、それなら俺も発熱しているはずだ。
「さ、寒い……少し冷えてきたわ……」
そうバケ子が呟いた瞬間、コマ送りのように視界が照らし出された。
――。――。――――ゴォオオオオオオン。
尚春の叫び声とは比較にならない轟音が耳を劈く。
凄まじい雷鳴は、自分が雷に打たれたような気さえするほどだ。
「これ嵐とか来たら洒落になりませんよ……」
不吉なことを口走る尚春に対し、俺は全く別の要因から心配をしていた。
雷が光り輝く時に見えたのだ。
寒い寒いと言いながら、ジャージの上着を脱ぐバケ子を。
これは冗談抜きに高熱で朦朧としているのかもしれない。
最終手段にでるか……。
「……俺に秘策がある。雨も寒さも多少は凌げると思う」
「そんな秘策が!? って兄貴起きてるじゃないっすか!」
今も顔に着弾する雨粒が多くなってきている。四の五の言ってる場合ではない。
「松サン! もう何でもいいんでお願いシマス!」
「そうですよ兄貴! 頼みま……ってピー子さんも起きてるじゃないですか!」
俺は二人の了解を得て、秘策を実行するのであった。
3時間は経っただろうか。
先程まで鳴っていたスノーノイズのような雨音はピタリと止み、波音と土の湿った臭いだけが島を包んでいた。
空を点滅させていた雷雲は何処へやら。
目を開けると、薄く光る星々が雲の隙間から少しだけ顔を覗かせている。
あの後、尚春の予想していた通り嵐はきたのだ。
都会ではただの豪雨と観測されるだろうが、猛烈な雨と吹きすさぶ風。走る稲妻に響く海鳴り。
肌でそれを感じた俺にとっては、間違いなく嵐といえるものだった。
今も時折吹く潮風が、顔を冷たくしていくが、体温はそこまで奪われてはいない。
しかし、この緊急事態に先生一人駆けつけてこないとは……。
俺は進学先を間違ったのかもしれない。
思い出すのはあの校長のニヤケ顔だ。
次あったら絶対ぶん殴ってやる。
「……ミーサン……それワタシのスープカレーデス……」
何事もなかったかのように眠りについているピー子が、寝言を零した。
興奮気味に喋っていた尚春も今は寝息を立てている。
四肢を動かせないうえ、硬い木の根を枕にしているというのに。
器用な奴らだ。
さて。
何故、俺たちが四肢を動かせない状態にあるのか。
それは当然、ラップでぐるぐる巻きにされているからだ。
顔と足先だけを除き、ある限りのラップを身体中に巻き付けた姿は、さながら芋虫といったところか。
防水と保温の為に施したのだが、身体はむしろ熱い。半端に濡れたせいか蒸し状態になっている。
一度外したい気持ちもあるが、また雨が降ったら今度はラップの在庫がない。
このまま朝を迎えた方が得策なのだろう。
もうバケ子も眠っただろうか。
ラップで包もうとした時はあーだこーだ言っていたが、今はもう黙りこくっている。
みんな順応性が高いというか、野蛮というか……。
それに対して、潔癖かつ繊細な俺は全く眠気がこなかった。
決してお昼寝をしすぎたせいではない。
いや、俺も眠らねばなるまい。
寝坊してこの醜態を他の生徒に見られては、友達作りがいよいよ夢物語になるだろう。
(ちょっと、起きなさいよ)
少し瞼が重くなったか、というところで聞こえてきたのは小鳥のような囀りだ。
(あんたまだ起きているんでしょ)
いや、凶暴な鷹だった。
鷹はどうやら俺に喋りかけているらしい。
俺、バケ子、ピー子、尚春、俺……という順で木を囲んで寝転がっているため、声の大きさで何処を向いて喋っているのかが分かるのだ。
(ねぇって……)
ガサガサと砂が擦れる音が聞こえた後、また波音だけの静寂な時間が流れる。
……ようやく寝たか?
と油断していた直後、俺の顔面に強い衝撃が走った。正しく被雷したような衝撃だ。
「ねぇってば!」
……恐らく俺の鼻は取れたのだろう。
冷たさを感じさせていた潮風が、今は嘘みたいに何も感じない。
むしろ熱くなってきた。
顔にパラパラと降りかかった砂と重さで、それが靴の踵だと分かる。
「いってぇな!」
「何よ。起きてるんじゃない」
「寝てても起きるわ!」
身体をくねらせてバケ子の足をはらう。
こいつは寝かす技術と起こす技術が反比例してやがる。
あれ、なんか頬を暖かいものが伝っていく。
え、血出てね?
本当に鼻取れたんじゃね?
「これ、取りなさいよ」
「何も見えねぇよ」
詫びもなしに頼み事とはいい度胸である。
しかし本当に何も見えないのだから、甘受しようもない。
「このラップよラップ! 身動きが取れないの!」
「お前の馬鹿力で取れない物なんかねーよ。富も名声もお前のものだ。
それよりその辺に鼻落ちてない? まず俺の鼻を取ってくれない?」
「冗談言ってないで、本当に早くして!」
バケ子は切羽詰まったように声を荒げた。
2度目の蹴りを喰らったら、今度は顔面に新しい口が出来そうである。
「いや、俺自身取りたくても取れないから。お前が羽化した後に出る予定だったんだからな」
「嘘でしょ!?」
「嘘じゃねーよ。大体今取って、また雨降ってきたらどうすんだよ。大人しく朝まで丸まっておこうぜ」
バケ子に背を向けるように、俺は入眠を再度試みる。
「……たいの」
「はぁ?」
小さなボリュームを更に下げて、バケ子は言った。
「……コいきたいの」
「何言ってるか聞こえねぇよ」
「だから!」
ドップラー効果をご存じだろうか。
救急車が通り過ぎる前と後で、音に違いが生じる現象だ。
そのドップラー効果を彷彿とさせる声で、バケ子は続きを口にした。
「…………オシッコ……行きたいんだってば……」
「……」
緊急事態緊急事態。
俺としたことが、現状を対処するのに夢中ですっかり忘れていた。
この無人島にトイレはないのだ。
気軽に用を足せる仮設トイレは疎か、簡易トイレなどのアイテムもない。
俺と尚春は穴掘り作業の途中で適当に済ましたが、女子共のことなんぞ考えてもいなかった。
……なるほど。恐らく尿意を我慢しているから、力を出せずに抜け出せないのか。
「ピ、ピー子に言えよ……」
「ピー子をガシダムと一緒に包んだのはアンタでしょ! 揺らしてもガシダムが邪魔で、全く起きないのよ」
そうだった……。
あの非常時の最中、『寝る時も死ぬ時も、ガシダムと一緒デス!』と話を聞かないピー子を、仕方なしにガシダムと一緒に包んだのだ。
「それにアンタのはまだ緩いでしょ!」
バケ子が言う通り、皆よりラップの締め付けは緩いのだろう。
3人を芋虫状態にした後、俺はガシダムの角にラップの芯を差し、巻き取るように包まった為、羽化できる可能性を秘めている。
……しかし、先ほどから背中が痒く藻掻いていたが、一向に取れる気配はしなかった。
「……今、10段階で言うとどれくらいヤバいの?」
策を講じる時間さえ確保できればと、バケ子に問いかけてみる。
「……11」
「もう出てんじゃねぇか!」
「ま、まだ堪えてるわよ! そのくらいやばいの! 大体アンタが水飲んどけって言うからでしょ!」
いやそりゃ言ったけどよ。オネショする子供じゃあるまいし。
「こうなる前に済ませとけよ!」
「まさかラップで巻かれるなんて思わないじゃない!」
いや、こいつに怒鳴っても仕方ないのだが……。
ラップに包まることを拒んでいた理由はこれだったのか。
そういえばこいつ、海に入ろうとか言ってたな。
寒いと言いながらジャージを腰に巻いていたし……。
「もしかしてお前……ズブ濡れになった勢いで誤魔化そ……」
「それ以上喋ったら……あんたも血でズブ濡れにするわ」
「……」
ま、まぁ未遂であるなら言及する必要もない。
それより今はこの拘束を解く方法を考えねば。
試しに、木の根の突起した部分で背中を擦ってみる。
だめだ。
雨で滑るせいか破れる気がしない。
何か代わりにラップを破れそうなものは……。
……ん? 代わり?
「あ、そうだよ。そういや俺が替えのパンツ持ってきたじゃねぇか。それにお前も持参してただろ」
「……だから?」
「寝たふりしといてやるから。ほら、気にせずやっちまえよ」
こりゃ名案だ。まさか悪ふざけで持ってきたパンツが役に立つとは。
『いらぬ者も一晩立てば用に役立つ』ってか?
はっはっは。
「い、嫌よ! それじゃあんたを起こした意味がないじゃない! それにズボンはどうするのよ!」
名案だというのに却下されてしまった。
まぁそうだよな……。
パンツだけ変えても、ズボンが濡れていては意味がない。
「でもなぁ。取れないんだからしょうがねーだろ」
「……あ、そーよ! ガシダムの角で切れば良いのよ! ほら、ピー子の隣で寝てるわ!」
「だから何も見えないって」
「いいから! それで切りなさい! 早く!」
「分かった分かった……」
結構大きい声を出しているというのに、ピー子と尚春は目を覚さない。
まぁ、このまま穏便に済ませられるのであれば、バケ子の名誉のためにも起こさない方がいいだろう。
まずは状況把握から。
今は一本の木を全員が頭を向けて囲んでいる状態だ。
ピー子が寝ている位置は木を挟んで向こう側、つまり俺の対極に位置する。
そして『揺らしてもガシダムが邪魔で』という言葉から、ピー子とバケ子を隔てるようにガシダムは横になっているのだ……。
前も陸に見えないというのに、立ち上がることは疎か、手探りで探すこともままならない。
つまるところ転がり体にぶつかった感触だけで、ガシダムの座標、そして頭部に刺さった角まで特定する必要がある。
なんて難易度の高さだ。
「……早く」
バケ子に急かされるまま、勢いよく身体を回転させてみる。
おぉ、意外と転がれるぞ。
バケ子から一度離れるように、つま先を軸として時計の針のように回っていく。
髪の毛は砂まみれになるが仕方はあるまい。
バケ子は、間に合わなければ俺を血まみれにすると宣言しているのだ。
急がねば。
「おい、声を出しててく、れ。ピー子の位置を予測できない」
「早く早く……」
方向感覚がおかしくなる。
頭蓋骨の中を脳みそが遅れて回っているような、そんな感覚が気持ち悪い。
それに、回る度に身体の下敷きになる腕が痛い。
……今はバケ子の下を通り過ぎたあたりか。
微かに波の音が近くなっている気がする。
間違いない。
海側に寝ていたピー子に近づいているのだ。
「まだ……なの……」
「見えねぇからなっ、と……流石に目が回ってきた」
「もう本当に、早く、して ヤバ、いの」
……こうなりゃヤケだ。
勢いそのままに、何回転かしてガシダムを探すしかあるまい。
到達できたとしても、間に合わなければ意味がないのだ。
「せーのっ!」
――キッ。
3回転目にして顔に何かがぶつかり、ラップ同士が擦れる高い音がした。
意外と近くまできていたのだ。
「おい。あとはガシダムの角を探すだけだ! もう少し耐えろ!」
「……」
もうバケ子の返事はない。声すらも発せられない程、放流が近いのかもしれない。
急いで頭部らしき場所を頬に伝わる感触だけで探す。
当然ラップに包まれているから、今触れている部分が頭部なのか腕なのか見当もつかない。
ん……? 柔らかい……?
まさかピー子とガシダムの位置が逆なのか?
更に強く頬を当ててみる。
……温かい。
『燃え上れガシダム』とは言うが、プラスチック製のプラモデルに体温などあるはずがない。
通り過ぎてピー子にぶつかったのか?
「……ア、アア、アアアアアンタ……ア、ア」
おかしい。
頭上から傷ついたCDのような音声が聞こえる。
このガシダムはボイス機能も搭載されているのか。
「……な、何してんの……よ……」
振り絞るように出された声を、俺は聞き間違えることが出来なかった。
これはバケ子のである。
それを理解した直後、今度は俺の声が震えはじめる。
「アア、ア、アレ……オレ、オマエノトコ、キテタ……?」
数秒してから、バケ子は肉声で静かに言った。
「……終わった」
「エ、ナニガ、デショウカ……?」
「……わたしの人生が、終わった」
「…………」
言葉の意味を悟り、俺はすぐさま高速回転をしてバケ子から距離をとる。
砂まみれになる顔もシェイクされる脳みそも知ったことか。
ガシダムにたどり着く予定が、バケ子に体当たりしてしまったのだ。
そして、その衝撃でダムが決壊したのだ。
そう、あの温かさは……。
「あんた、今私が何考えているか分かる?」
「お、落ち着け! お前の人生も終わらしてやろう的な考えだろう! そうなんだろう!?」
暗闇の中、もう波音なんて聞こえやしなかった。
バケ子の声だけがハッキリと耳に残る。
「あんたが水を飲めっていった」
「あんたがラップで私を巻いた」
「あんたがぶつかって、人生が、終わった」
怪談を話すときのような喋り口調に背筋が凍る。
「違う! 違うんだ! 悪気があってしたわけじゃ」
「へぇ。悪気が無かったら、何しても良いんだ。人の尊厳も傷つけていいんだ。人も傷つけていいんだ」
「おいいい! 最後のは別の意味に聞こえる!」
俺は情けなく叫び声を上げ、ひたすらに転がった。
このまま海に沈んだほうが幸せだろうと。
「ねぇ、教えてくれる? 入学して早々、ズボンを濡らして朝を迎える女子高生に、皆はなんて言うのかしら」
「大丈夫だよ大丈夫! 誰も見てないし聞いてない! 俺のズボン貸してやるよ! パンツも持ってきてるだろ! むしろ温かくなって良かったじゃねぇか!」
――パンッ!
……ラップを引きちぎる音にしては、五月蝿すぎや、しませんか?
スッキリして力を込められるようになったのだろう。
頭上に北斗七星が見えた気がした。
「あ、温かく……? あんたまさか……私のビシャビシャパンツに触れたの……?」
鬼気迫るバケ子の声がした後、パキパキッと何かが折れた音がする。
……関節を鳴らす音にしては、五月蠅すぎや、しませんか?
「いやラップ越しに頬が当たっただけだから! ビシャビシャパンツは直に触れてないから!」
「ラップ越しに触れたのね? 私のビシャビシャパンツに」
一歩、また一歩と、砂を踏む足音が大きくなってきている。
こんな暗闇だというのに、俺の居場所を正確に捉えているようだ。
「いやいや、よく考えたらノービシャビシャパンツだったかも。いやあれは確かにノービシャビシャパンツだった!」
「ビシャビシャパンツ言うなぁあああ!」
「いやお前が言い始めたんだろーが!」
俺は叫びながらも転がり続けた。
身体とともに、頭の中で『逃げなければ』という言葉がぐるぐる回る。
「……うっ」
そして、波打ち際まで到達しようかというところで、俺の身体はピクリとも動かなくなった。
太ももに確かな重さを感じる。
まるで巨大な杭でも打ち込まれたようだ。
「つかまえた」
胸倉をつかまれ、伸びるラップをそのままに上半身を引き上げられる。
「逃すと思ってんの?」
息もかかるほど目と鼻の先に、バケ子の顔はあった。
「ヒィィ!
私を海に返して!
海が私の故郷なの!
私は巻き貝なの!
私は貝になりたい」
「……サイ?
犀にならしてあげられるわよ。
ほらここに丁度角が二本」
バケ子はそう言うと歯を見せて笑った。
直後、俺は頭部に強い衝撃を受け、そのまま気を失った。
翌朝。
生徒たちは皆、満身創痍になりながらも集合場所に集まっていた。
俺達4人と1体も生傷がちらほらと見受けられるが、無事生還したといえよう。
「生徒諸君。何かを会得できたかのう? 持つべきものは思いやりじゃ。追い込まれた時に人の本性はでる。野外学習とは、それを……」
巨岩の上で教えを説くハゲの話など、誰も聞いてはいなかった。
習得すべき教訓なんかより『お前が校長の自覚を持て』と言ってやりたかったからだ。
それもそのはずで、1時間ほど前に複数の船で迎えにきた教師陣は、本当に島から出ていたと知ったのだ。有事の際はどう対処するつもりだったのか……。
まぁ、全員の点呼は取れているらしいが。
「兄貴、しかし面白かったっすね!」
「全然」
十分に睡眠をとったであろう尚春は、ニヤケながら俺をはやし立てる。
「スープカレーといい、ラップといい、流石兄貴は機転が回る! よっ日本一の策士! これでクラスの人気者は間違いなしですね!」
「俺がそんな策士なら、策にも海にも溺れていないはずだ」
「またまたご謙遜を。現に周りからもちらほら視線を集めてますよ。これが脚光を浴びるってことなんですね」
脚光……ね。
そりゃ一人だけパンツ一丁で素足を晒していたら、好奇の目で見られるってもんだ。
「チッ……煩わしいわね」
目の前に並ぶバケ子が、ズボンの裾を捲りながら呟いた。
明らかにサイズの合っていないそれは、もちろん俺が昨夜まで身に着けていたものだ。
あの後、追剥をしてから新しいパンツとズボンに着替え、事なきを得たのだろう。
だが、履いていたビシャビシャパンツはどうしたのだろうか。
「あの、松サン?」
バケ子のお尻を凝視していた俺は、ピー子の呼びかけでハッと我に返る。
「どうした?」
気を逸らすように返事をすると、彼女は隣に立つガシダムを冷ややかな目で見て言った。
「私のガシダムの角がないんデスケド。ザキュみたいな頭になってるんデスケド」
「……あん? 寝てる時にでも折れちまったんじゃねぇか?」
「いや、松サンの頭に何か刺さっ」
「……あん? 寝てる時にでも折れちまったんじゃねぇか?」
ピー子がそれ以上追及してくることはなかった。
その後、ハゲを1年生全員で袋叩きにして島に置いていき、俺たちの野外学習は幕を閉じた。