プロローグ
「はぁ、はぁ」
セミが涼しい土中で夏を待ちわびている頃。
俺は太陽からの凄まじい攻撃を受けていた。
盾の役目を担ったバス停看板も触れたが最後、この身を焦がす凶器へと変わり果てるだろう。
「暑い……暑すぎる……」
徐々に小さくなる影に身を潜めながら、一人愚痴を零す。
3月とは思えない猛暑だ。
いくら赤道に近づいたといえど、国内でこれほど気温差が生まれるものなのか。
幾度となく乗り継ぎを繰り返し、たどり着いた停留所。
周りは山に囲まれ、自販機はおろか建造物一つ見当たらない。
人よりもその辺に住まう熊の方が多そうだ。
もしも襲ってきたら、この看板の錆びにしてやろう。
「にしても遅いな……」
待ち合わせの時刻は10時だってのに。
時折網膜を焼こうとしてくる腕時計は、既に12時を指している。
『田舎の人は時間にルーズ』そんな噂を聞くけど、ここまでの遅刻は時差を疑う。
指定された場所も間違っていないはず。
真っ白な時刻表の上には、確かに『仲居村前』と記されていた。
しわくちゃになったメモと同じ表記だ。
「じゃぁ何で来ねぇんだよ」
向かう途中でタイヤがパンクでもしたのだろうか。
心配だ。俺の体が。
頭が徐々に揺れていく。
虫達の声が薄れていく。
秒針が歩みを止める。
……アレ、これ日射病なんじゃ?
毎日家の中で浴び続けたブルーライトで耐性はつかなかったのだ。
もっと外でゲームするんだった。
どんどん瞼も重くなっていき、足の関節が消えたように力が入らない。
いや力は入れてるのだろう。
でなければ立っていられないじゃないか。
けど足ってどうやって動かすんだっけ?
……やば意識が。
…………そういえば、何でこんな辺境にいるんだ。
………………走馬灯は日射病でも見れるらしい。
――バン!
「みんなどうやって進路を決めてんだよっ」
放課後。バスケ部の掛け声が遠くに響く教室。
机に八つ当たりしても答えは返ってこない。
目の前に置かれた進路希望調査書には、氏名『松下松』と丁寧な文字で書かれている。惚れ惚れする達筆さに対し、この紙の8割を余白にした『理由』は自分の将来を見ているようで腹が立つ。
とりあえず家から一番近い高校を書いてみたものの、第二志望ときたもんだ。
黒色のシャーペンはただでさえ恥ずかしがり屋なのに、お手上げとばかりに芯を隠した。
「大丈夫?」
慌てて声のした方へ目を向ける。
扉の隙間から気まずそうに顔を覗かせていたのは久根美津波だった。
いつからそこにいたんだろうか。
「だ、大丈夫大丈夫。将来以外は。久根さんは忘れ物?」
「うん。リコーダー忘れちゃって」
少し切りすぎたであろう前髪を押さえながら教室へ入ると、その後に小さなポニーテールが続く。
照れながら笑う彼女に、俺もバリカンで切り揃えられた髪を少し整えてみる。
「そっか」
「う、うん」
…………。
普段から喋らない異性との会話が続くはずもない。
俺が視線を逸らすと、彼女はローファーを8ビートで鳴らした。
相変わらず久根さんは可愛いな。
才色兼備に加えて文武両道。それを鼻にかけずお淑やかで、誰に対しても優しい。ロッカー一つとっても心の清らかさが滲み出ている。
不要なプリントでミルフィーユを再現した俺のとは比べようもない。
にしても、中学生になってまで私物を全て持ち帰っているのか。
『好きな子のリコーダーを咥える』そんな伝承を耳にするが、被害者の気持ちにもなってあげてほしい。
音を奏でようとした瞬間、時間の経った唾液が口一杯に広がるのだ。
まずは鼻の穴から押さえないと演奏なんか出来たものではない。
なるほど。アルトリコーダーは家にあると利口だ、ということか。何考えてんだ俺。
「じゃぁお先に帰るね」
「お、おう。気を付けて」
いつの間にか教室を出ていた彼女に生返事で返す。
「ありがとう。……松下君もボーっとしてちゃ駄目だよ? 帰り道には気を付けてね」
小さく手を振り、扉を静かに閉める久根さん。
夕日が反射してか、彼女の横顔は少し赤く見えた。
もしかしたら俺の事を……
リコーダーを咥えた犯人だと思っているのかも。
そうそれで間接キスに気づいて照れているのかも!
そんな訳ないんだけど!
しかし82・3とは!
……いやいや、落ち着け。
俺にはやるべきことがある。早く調査書を仕上げるんだ。
この紙が配られた時、大半が友達同士で何処に行くかを決めていた。
ここからも近く、偏差値が平均より少し高い某高校だろう。実にけしからん。
友達がいるから、
恋人がいるから、
好きな人がいるから、
可愛い人がいるから。
そんな理由で進路を決める奴は人生を棒に振るだけだ。
そら美人がいるに越したことはないがな。
大体、何でこんな急に進路を迫られにゃいかんのだ。
つい最近までの担任といえば、
『若き冒険者達よ。突き進む航路は最後の最後まで悩みなさい。指針なんて最初は揺れるもの……そのうち定まってくる』とかほざいていたくせに。
次の日にゃ『はい。進路希望調査書は一週間以内に提出ね』である。
……いや、現段階での希望を知りたいだけなのは分かっている。
だがほんの数か月で志望校が変わる学生が何名いるだろうか?
結局この紙に書いた『なんとなく行きたい学校』が、受験への努力と緊張のせいで『行きたい学校』へと変わっていくのではないか。
進路希望調査書とは、もはや脅迫である。
……。
つまらない思考を加速させている間に、時計の針は6時を回っていた。
もういいや。とりあえず担任に相談しに行こう。
職員室の前まで行くと、明かり窓からお目当ての先生が見えた。
書類に囲まれた机に向かい、真剣な眼差しで読書をしている。
「失礼します」
職員室ならではの紙とコーヒーが混じり合った臭い。
この臭いが好きになれないのは、叱られる前触れと脳に刷り込まれてるからなのか。
「先生」
「ん? ぁ、お、おぉ! ど、どうした?」
慌てふためき、読書を中断する先生。
「進路希望調査書のことなんですが」
「つ、次は松下か。……ちゃんと書けたか?」
そんなに急いで隠さなくても、貴方が大秘宝を探していたのは知っています。航路だの指針だの、生徒はクルーではありません。
「いえ、少し決めかねてて相談しにきました」
「そうか……。まぁ、ここに座れ」
生徒の将来よりも漫画の続きを気にする担任。
今週号は俺もチェック済みなので、適当にあしらわれたら遠慮なくネタバレしよう。
「……ん?」
ふと青年雑誌の上に積まれた書類の一番上に目が行く。
進路希望調査書…………やはりこいつも例の高校か。つまらんやつだな。
名前は……久根……。
「とりあえず今、松下のしてみたいことはあるのか?」
「船長。見つけました」
「えっ」
船長は焦りながら、雑誌を隠すよう不自然に手を置く。
いや、そっちじゃない。
「自分の進むべき道、やるべきことが分かったんです」
「落ち着け松下。先生だって、船長だって人間だ。漫画くらい読むさ! これが私にとっての航海図なんだ!」
俺は船長の言葉を無視し、折り畳まれた調査書を広げる。
内気なシャーペンがここまでのスピードを叩き出したのは、夏休みの最終日以来だ。
学校を後にし、家に着く頃にはすっかり暗くなっていた。
「おかえりなさーい」
ドアを開けると母の声と夕食の臭いが玄関まで届く。
今日の献立は……魚の煮付けだろうか。頭を使い過ぎたせいでお腹はペコペコだ。
鞄も下ろさずそのままリビングへ向かうと、椅子に登る父が目に入った。1メートル四方の額縁を両手に持ち、壁に取り付けようとしている。
「……また猫?」
「そうよ? 松も好きでしょう?」
シンクに視線を落としながら答えたのは母だ。
別に嫌いではないが、毎回毎回猫から猫へと切り替わる写真に呪いじみたものを感じるのだ。
今回のやつは真っ白な両手を額に乗せ、目尻を上げた子猫。
まぁ確かに。そいつと同じ毛並みの父と比べれば、間違いなく可愛い。
くだらない感想と鞄をソファーに放り投げた後、冷蔵庫を開けコップに麦茶を注ぐ。
おお! やっぱり煮付けだったか! ブリ大根だ! バンザイ!
「息子よ。ハーレム計画はどこまで進んだ?」
「ぶっ……す、進んでねぇわ! つかそんな計画たてた覚えもない」
父のおかえりは『女の子にお父さんと呼ばれたいの』とか『そろそろ孫の顔がみたいんじゃ』がデフォルトである。
いつもなら無視して終わるのだが、久根さんが頭によぎったのだ。
「む、怪しいぞ。お前と私の仲だろう? 母さんには内緒で教えてくれ」
肩に手を回し、ニヤリと笑う父。
白い髭を撫でる姿は毎度のこと若返って見える。
「……あなた、何を仰っているんですか? 松はお母さん一筋なんですよ?」
すかさず割って入ってきた鬼が、三徳包丁を父の首筋に突き付ける。
母は笑っている顔をあまり崩さない。ゆえに怖い。
「肉料理が食べたいならそう言って下さいよ。ねぇ?」
「落ち着いて母さん。と、とりあえず包丁を下して」
「分かりました少し目を瞑っていて下さいすぐ終わりますから」
「いや『包丁で下して』なんて言ってないから! 包丁『を』だから!」
父が組んでいた肩から手をどけると、母は長い黒髪を揺らめかせ料理を再開した。
今日の夫婦漫才は何時にもまして迫力があるなぁ。やれやれ。
少なくなった麦茶をテーブルに置き腰掛けると、父も向かいの椅子に座った。
「母さんは普段優しいんだが、松のこととなるとなぁ」
「父さんも少しは自重しろよ」
「『可愛い子には罵声を浴びせろ』って昔から言うだろ?」
「『旅をさせよ』な。昔の人はそんなサディストじゃない」
それに母の過保護ぶりを今更言っても仕方がない。
数百とお守りが括られたランドセルは、登下校するだけでも一苦労であった。
軽くしようと教科書を持ち歩かなくなったのが、現在の成績不振に繋がっているのではないか。
それではただのまぬけ。おまもりではなく、おもりだ。
麦茶で溜飲を下げようとした時、父が再び質問してきた。
「そうそう旅だよ旅。ところで松、お前進路は決まったのか?」
「ぶっ」
なんという偶然……でもないか。この時期ならそんな話題もあがるだろう。
「と、とりあえず近くの高校に行こうかなと」
「故にやりたいことは見つかってないと?」
「……」
パイプたばこを咥え、頬杖をついて笑う父。
「女の尻を追うのもいいけどなぁ松。女に追われる男にならにゃいかんだろう?」
なるほど。親子なら考えることは一緒か。
後ろに見えた猫に苛立ちを感じたのは、見透かされたのが少し悔しかったからだろう。
「お前の名の通り『男は松、女は藤』と言ってだな、どっしりと根を張ればモテモテにな」
「あなた、冗談が上手くなりましたね」
さも当然、浮ついた話をすれば鬼が出る。今回手に握られていたのはおたまだ。
安堵する父の傍ら、母は湯気のたった煮汁をパイプたばこの溝へ注ぐ。
「熱っ! こ、このパイプ高かったってのに!」
「松はそんな軽薄な子じゃありません。小さい頃から大好き大好きって、一途に想いを寄せ続ける許嫁もいるんですよ?」
「……ちなみにそれは誰?」
「私です」
「もう何処から否定すればいいのやら……」
油まみれのパイプを見ながら頭を抱える父。俺を見つめながら悶える母。
『お母さん大好き』『お母さんみたいな人と結婚する!』って幼少期ならありふれた台詞だろうに。そう言えばお菓子を買ってくれるのだから猶更だ。
しかし、ここで強く否定すると母は本気で寝込む。
「鍋沸騰してるよ母さん」
「あら、教えてくれてありがとう」
自然に話題を変えると、母は優しく微笑みながら台所に戻った。
「……ヴ、ヴン。まぁその、何だ。お前の進路についてだったな」
「俺は夫婦の将来の方が心配だよ」
「……それは同感だ」
父はもう一度喉を鳴らすと、仕切り直すように言った。
「この話は前にも聞かせたが、父さんはカメラマンじゃなかったんだ」
父は現在カメラマンをしている。
飄々としている今の姿からは想像できないが、高学歴で一流企業に勤めるサラリーマンだったという。
当時、女癖の悪い上司から面倒事を押し付けられ息苦しい思いをしてた、っていうのは昔話をするとかなりの確率で喋る。
「ま、その上司は暴行事件がきっかけでクビになったらしいけどな。南無」
それを機にカメラマンになる事を決意。丁度俺が5歳になる頃だ。
進路を考えるここ最近は、これからお金がかかる時期に転職した父を凄いと思うようになっていた。
「……カメラマンになりたいと告げた時、母さんは笑顔で『ここからね』と言ってくれたんだ。あの時にもう一度誓ったんだよ。この人を一生幸せにするとね」
母の後ろ姿を横目に呟くと、包丁のトントンと鳴る音が少しゆっくりになった。
こうやって定期的に水を注いでいるんだなぁ。これで俺も安心できる。
……うん。
「いや待て。結局何が言いたいんだ」
「つ、つまりだな……歳を食ってから夢を追うと、周りに苦労をかけるって話だ。親が責任を負ってる若いうちに、何でも挑戦しておけ」
拭き終わったパイプをポケットにしまうと、父は俺の言葉を待った。
「んー……やりたいことがまだ見つかってないんだ。進路も適当」
俺は正直に悩みをぶつけた。
見つかってない以上、可愛い子がいるかどうかで判断するしかないじゃないか。
「はーっはっはっは! 恥じることはないぞ息子よ! 人より悩んでるからこそ迷うんだ。適当に女の子の尻を追っかけて分かるのは、パンツの柄くらいだ。何も知らないところに飛び込んでこい。少年よ大志を抱け!」
そう言って台所に立つ背中に視線を投げれば、母はガックリと肩を落とす。
「…………はぁ。松のため。松のため。一人で行かせるのは心配だけど、男の子だもんね。少年よ母を抱け、だもんね」
ムスコンにもほどがあるだろ。
涙ぐむ母に恐怖していたのも束の間、父が椅子を鳴らし立ち上がる。
「よし、松よ…………
田舎に行ってこい」
は?
……そこまでの記憶を1秒で脳内再生した俺は、自分の体が倒れ掛けているのに気づいて、咄嗟に看板を掴んだ。
「あ、いああああああんんん!」
雪山なら雪崩が起きそうな絶叫を放ち、鳥たちが一斉に羽ばたく。
悲鳴を聞きつけたのか、その後すぐにお迎えは来た。
読んで頂きありがとうございます。
全話通して修正や文章の書き直し等を行う可能性もございますが、あらすじに手を加えることはありません。よって読み返す必要はございません。
2話以降も安心してお楽しみ下さい。