6.ブラコン妹に追い詰められて行ったフリードリヒ・ニーチェさん
六歳の頃からの兄の文章を保存しておくくらいの執着心を持った妹に支配される人生を過ごしました。
1844年10月15日は火曜日。プロイセン王国領の小村でニーチェさんは生まれます。
お父さんはルター派の牧師で元教師でした。ニーチェさんはプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(当時49歳)と誕生日が一緒なので、王様の名前をもらって「フリードリヒ・ヴィルヘルム」と名付けられました。しかし、後に「ヴィルヘルム」の部分は名乗らなくなります。
二歳年下の妹にエリーザベト、四歳年下に弟のヨーゼフが居ます。
ニーチェさんが四歳の時、お父さんは近眼が元で転んだ拍子に頭を強く打ち付け、その時の怪我が元で、ニーチェさんが五歳の時に亡くなってしまいました。
弟のヨーゼフも、歯が原因の痙攣によって病死しています。
父方の祖母とその兄のクラウゼ牧師を頼って、ニーチェ一家は、故郷から離れてナウムブルグに移住します。
ニーチェさんは六歳の頃にナウムブルグの市立小学校に入学。七歳の頃にウェーベル私塾(予備校の事)に入って学習した後、1854年、十歳の時にナウムブルグのギムナジウムに入学します。
ニーチェさんは大人になってから無神論者になってしまうのですが、ギムナジウム時代に書いた自伝集には神様の意思の記述があるそうです。
ニーチェさんはギムナジウム時代に音楽と国語の成績がとてもよかったそうです。そこで、名門校プフォルター学院の校長から給費生(特待生)として転学する誘いが来て、これを受け入れます。
十二歳から十八歳の六年間を、全寮制で個別指導と言う環境で、古代ギリシア・ローマの古典、哲学、文学を学びました。この頃に詩の執筆や作曲を手掛けたりもしたそうです。
1864年、学院卒業後、ボン大学へ進学。牧師になってほしいと言う母からの意向で神学部に在籍。同時に哲学部にも在籍しました。最初の学期を終える頃に、信仰を放棄して神学の勉強をやめる事を母親に報告し、大喧嘩になっています。
ニーチェさんは、ボン大学で古典文学の研究者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチェルと出会い、彼を師事します。
リッチェルは、大学一年生だったニーチェさんの知性を見抜き、懸賞論文の公募を行なうよう、大学に持ち掛けています。ニーチェさんに受賞させるためだけに、です。
リッチェルがボン大学からライプツィヒ大学に転属になったのに合わせて、ニーチェさんもライプツィヒ大学に転学します。
学歴だけを辿ると、とても華々しい生涯のように思われますが、ニーチェさんは父親譲りの近眼のせいで、時々急に何も見えなくなったり、偏頭痛や激しい胃痛等の健康上の問題を持っていたそうです。
1869年、二十四歳のニーチェさんは、博士号も教職資格も持っていませんでしたが、先のリッチェル氏の推挙により、バーゼル大学で教職に就くため招かれます。この時、ニーチェさんはスイス国籍を取ろうと考えてプロイセン国籍を放棄しました。ですが、何故かスイス国籍を取得しなかったので、無国籍者になってしまいます。
そして勤務先のバーゼル大学では、哲学の担当を希望しましたが、古代ギリシアに関する古典文献学を専門とする事になります。
ニーチェさんは大学で働きながらギリシア古典文学の本を書いているのですが、哲学的思考による推論を重んじたため、本来の古典文学の研究方法に則っていないとして、当時の執筆物は公に認められなかったそうです。
ニーチェさんは学生時代から、音楽家ヴァーグナーのファンでした。二十三歳だった頃のニーチェさんはヴァーグナーと対面しています。
ニーチェさんはヴァーグナーを革命家として崇めていたのですが、第一回バイロイト音楽祭で国王や貴族に囲まれるヴァーグナーを観て、ヴァーグナーが革命家ではなくブルジョワジーであると察してしまいます。
其処からニーチェさんの心はヴァーグナーから離れて行って、著書の中でもヴァーグナーとの決別を明らかにし、ヴァーグナー批判を始める事に成ります。
1879年、体調の悪化から、ニーチェさんは大学を辞職する事に成ります。その以後、執筆活動に専念し、彼の哲学著書の多くはこの執筆時代に書かれたものだそうです。
1881年に、ルー・ザロメと言う女性と出会います。ニーチェさんはこのザロメと言う女性に恋をしますが、求婚した時にフラれました。ニーチェさんの友人のレーもニーチェさんと同じ頃にザロメに求婚してフラれています。
1881年から1882年にかけて、ニーチェさんとレーとザロメの三角関係は破綻してしまうのですが、それは「大好きなお兄ちゃんを取られた」と思ったニーチェの妹エリーザベトが、ニーチェさんに関する伝記を捏造したり、兄の書簡を破棄したり改ざんしたり、ザロメを中傷したりした結果でした。ブラコン妹の嫉妬は怖いですね。
それにより、ザロメとレーはニーチェさんの元を去ってベルリンで同棲を始めます。
かたや、ニーチェさんは失恋の傷心と病気の発作、ザロメに関する母と妹との不和から逃れるために、イタリアに渡り、執筆に時間をかけます。しかし、本はほとんど売れませんでした。
1889年から、ニーチェさんの精神状態は悪化し、三ヶ月から四ヶ月の間入院生活をしました。1890年、ナウムブルクの実家に連れ戻されます。
1893年、ニーチェさんの妹エリーザベトが、反ユダヤ系の夫がパラグアイで自殺したので帰国し、ニーチェさんの本の原稿そのものや出版に関して支配力を持つようになりました。
1900年8月25日、五十五歳でニーチェさんは肺炎を患って死亡します。ニーチェさんは、「葬儀に友人以外を呼ばないでほしい」と言っていたのですが、エリーザベトはニーチェさんの友人は参列させず、軍関係の人間と知識人を集めて壮大な葬儀を行ないました。
ニーチェさんの死後、エリーザベトは遺稿を編集して刊行します。その時の「エリーザベトの意向に沿った編集」により、ニーチェの思想がナチズムに通じると誤解を招きました。
なんとも、学歴以外は本人の思い通りにならない人生を歩んだニーチェさんですが、幾ら本人が頭が良くても、身内にヤベェ奴が居て、そのヤベェ奴に利用・支配されると人間は不幸になると言う教訓はありますね。
僕はあまり哲学書は読みませんが、せめてニーチェさんが著作の中では自由であったことを祈って、「ツァラトゥストラはかく語りき」でも読んでみましょうか。
エリーザベトがニーチェさんの思想をナチスに売ったのは、ニーチェさんが世に認められるべきだと思ったからであると言う意見もあるそうですが、本人が希望しない認められ方をしてもニーチェさんは全然嬉しくないでしょうね。