ワームホールの先星⑪
玄関のドアを押し開けると、冷たい夜風が家の中に流れ込み、古い木の匂いと埃っぽい空気が混じって鼻を刺した。
私はモモカを抱えたまま、ヨロヨロと中に入り、靴を脱ぐのももどかしく、壁の古いスイッチを探る。
カチッと乾いた音がして、玄関の蛍光灯がパチパチと瞬きながら点灯した。
白っぽい光が、ヒビ割れたタイルの床を淡く照らし、靴箱の上の薄い埃の層がふわっと浮かび上がり、微かな粒子が光の筋に舞う。
こんな時間に、こんな連中を家に上げてしまうなんて。
頭の隅で後悔がグルグルと回るのに、足はもう動いてしまっている。
「入って良いよ。」
声が少し震えたけど、仕方なく言った。
すると、後ろからヌルヌルとした湿った音が近づき、ヒルが軽やかに体をクネらせて入ってくる。
蛍光灯の光を殆どを吸い込んだみたいに真っ黒だけど、体表は無数の小さな吸盤で覆われ、それぞれが独立してピクピクと収縮し、まるで無数の小さな口が空気を味わっているみたい。
巨大なせいで異様に生々しく気持ち悪い。
「お邪魔しま〜す♪」
明るい青年の声が、狭い玄関に反響して、妙に軽快に響く。
「失礼するわ。」
続いてナメクジがゆっくりと体を滑らせ、粘液の細い跡を床に残しながら冷たくも丁寧に言った。
白っぽくも灰褐色の体表が蛍光灯の下で虹色に薄く輝き、内側の赤黒い血管網が、ゆっくりと脈打っている。
頭から触角が2本、ゆっくりと空気を切りながら左右に揺れ、先端の小さな瞳のようなものがギョロリとこちらを捉える度、視線が皮膚に突き刺さるような冷たさを感じる。
2匹の巨大な体が玄関を埋め尽くし、ドアが閉まる音が重く響き、外の月の光がピシャリと遮られた。
その瞬間、部屋の空気が一気に締まる。
まるで肺の中まで粘液が染み込んでくるような、息苦しい圧迫感。
外の音が完全に消え、家の古い梁が小さく軋む音だけが、遠くで聞こえる。
廊下の電気をつけ、奥のリビングへ進む。
モモカの体が腕の中で重く、濡れた毛が私の服にべっとり張り付き、冷たい感触が肌に染みる。
リビングのドアを開け、スイッチを押すと――乳白色の柔らかな光が、天井の古い蛍光灯からゆっくり広がった。
朝日みたいに優しく、でもどこか冷たい光が、部屋全体を包み込む。
埃の粒子が光の筋に浮かび、ゆっくりと舞い落ちる。
目の前に広がるのは、色とりどりの風船の海だった。赤、黒、マーブル模様の風船が、ソファの上、テーブルの上、小さなキッチンのカウンター、床の隅まで埋め尽くしている。
いくつかは空気が抜けてしぼみ、床に転がって埃を被り、残りはまだプクプクと浮かんで、微かな風に揺れている。
――でもその揺れは、風のせいではない。
だって、部屋の窓は締め切っているのだから。
風船の表面が、時折、ゆっくりと脈打つように膨らみ、縮む。
まるで、まだ中に何かが閉じ込められているみたいに。
風船の表面に薄い埃が積もり、乳白色の光に照らされて、くすんだ光沢を放つ。
まるで、楽しそうなパーティーが昨夜終わったばかりで、誰も片付けていない残骸みたい。
部屋の空気には、かすかなゴムの匂いと、埃の乾いた匂いが混じり、自分の家とはいえ少し息苦しい。
本当は片付けなくちゃいけないんだけど…。
でも、このパーティーは、いつ、何の為に開かれたものなのか、ずっと住んでいる私ですら分からない。
だから尚更、片付けられないままだった。
まさか、誰かを家に入れる事になるなんて思いもしなかったな…。
ヒルが部屋を見渡し、体をくねらせてゆっくり言った。
体表の吸盤が一斉に開閉し、ネチャネチャという小さな音の合唱が部屋に広がる。
「相変わらず酷いゴミ屋敷だね。それとも拷問部屋って言った方が正しいのかな?」
軽い調子で、でも棘のある言葉。
声が部屋の静けさに溶け、風船のひとつが微かに揺れる。
ナメクジが、ゆっくり首のような部分を傾げて返す。
触角が微かに震え、粘液が1滴、ポタリと床に落ちて小さな泡を立てる。
「拷問部屋って…、そんな本当の事を言わないの。」
「そんな本当の事って…、君こそ失礼な事言ったら駄目だよ?」
ヒルが体を少し膨らませて、からかうように言う。
黒い表面が波打ち、吸盤がネチャネチャと音を立てる。
ナメクジの大きな目がギョロリと細くなり、
「……後で選挙で決着を着けましょう。」
と宣言していた。
2匹の会話は夫婦漫才みたいに息がピッタリしているけれど、とても不愉快だった。
私は2匹のやり取りを無視して、モモカを抱えたまま猫用のベッドへ向かう。
ピンク色の丸くて古いクッションの上に、そっとモモカを置いた。
濡れた毛を軽く拭いてやりながら、指先で小さな頭を撫でる。
「モモカ、ゆっくり休んでて。」
小さな耳が、ピクリとも動かない。胸が痛くなり、喉が詰まるけど、今はそれ以上何もできない。
するとヒルが、モモカの近くまでヌルッと近づいてきて、
「え、君って他人の尊厳を踏み躙るのが趣味?」
と、からかうように言った。
「奇色君、変な事言わないの。」
ナメクジが、すぐに低い声で咎める。
内心で苛立ちが爆発しそうだったけど、グッと堪えて、テーブル席に2匹を案内する。
風船をいくつかどかして、椅子を引く。
埃が舞い上がり、乳白色の光に煌めく。
ヒルとナメクジが、ヌルヌルと体を滑らせて座る。
巨大な体が椅子に収まらず、テーブルがキィと音を立てて軋み、脚が床に食い込む音がする。
小さな白い冷蔵庫を開け、麦茶の入ったピッチャーを取り出す。
グラスに注ぎながら、
「お茶しかないけど……。」
と、テーブルに置いた。
ガラスコップに注がれた透明な麦茶が、乳白色の光に照らされて、淡く黄金色に輝く。
表面に小さな気泡が浮かび、ゆっくりと消えていく。
ヒルが、コップに顔を近づけ、覗き込む。
スースーッ、とワザとらしく空気を吸う音を立てながら黒い体をコップの縁に触れ、ヌメッとした跡を残す。
「え、何コレ、…もしかして、君の聖水?」
「奇色君、黙っててくれる?」
ナメクジが、即座に低い声で注意する。
ヒルは体をくねらせて、楽しそうに続ける。
「ふぅん、蝋奈ちゃん、もしかして意味分か……」
「黙りなさい!!」
ナメクジの声が鋭く響き、部屋の空気が一瞬凍りつく。
「そこまで怒らなくたって良いじゃん…?」
ブツブツ文句を言いつつも悪ふざけが過ぎたヒルがビクッと体を縮め、罰が悪そうに吸盤がピチャリと閉じる。
部屋に静けさが訪れる。
風船のひとつが、床でポンッ、と小さく音を立てて弾けた。破片が乳白色の光にきらめき、ゆっくり落ちる。
麦茶の表面が、微かに揺れる。
私は自分の肩に白いバスタオルを巻いてから2匹の向かい側に座り、濡れた服のまま、背もたれに体を預けた。冷たい椅子が背中に染み、震えが止まらない。
本当はすぐにでも着替えたかったけど、2匹が何をするのか分からないから、我慢する事にした。
胸の奥で、怒りと不安と、疲れが混じり合って、息が重い。
2匹が、私をジッと見つめている。
乳白色の光が部屋を優しく、でも冷たく照らし続け、風船の影が壁に揺らめく。
今から、何を話すのだろう?
話し合いと見せかけて、また何か意地悪な事でもするのかな?
でも、もう逃げられない。
静かな部屋に、2匹の粘液の音だけがかすかに響いていた。




