ワームホールの先星⑩
ヒルとナメクジは、水を避けるように体をずらし、私の元へ歩み寄る。
粘液がポタポタと地面に落ち、街灯の光で銀色に光る。
まるで溶けた金属が地面に滴り落ちるように、ゆっくりと広がっては消えていく。
「ホラ、早く案内して。」
ナメクジが、ヌメヌメした体を少し前に傾け、私に命令するように言った。
声は冷たく、でも大きな目はどこか楽しげに細められていて、まるで獲物をからかっているみたい。
その様子を見て、私は自分でも分かるぐらい顔を引き攣らせた。
頬の筋肉が勝手にピクピクと痙攣し、唇の端が引きつる。
何で私のお家に入る気満々なの?
絶対に入れたくない。
胸の奥で嫌悪が渦巻き、吐き気が再び込み上げる。
喉の奥まで酸っぱいものがせり上がってきて、必死に飲み込んだ。
「貴方達は貴方達のお家に帰ったら良いのに。」
私は首を左右に振りながら、声を絞り出す。
水でびしょ濡れの服が体に張り付き、僅かでも冷たい風が吹く度に震えが止まらない。
濡れた布が肌に吸い付いて、まるで第二の皮膚のように重く、動くたびに冷気が骨まで染み込んでくる。
今度はヒルが、フルフルと体を横に振る。
黒い表面が波打ち、吸盤がピチャピチャと音を立てる。
その音はまるで誰かが舌打ちを繰り返しているようで、耳の奥にこびりつく。
「学校の門は閉まっているから、朝になるまで帰れないんだよねぇ。」
あ、こんなんでも生徒だったんだ。
他の生徒は学校で寝泊まりしているから楽で良いなと思ってたけど、門限があるもんね。
夜の学校の門が鉄の音を立てて閉まる様子を想像して、寝る場所が無くて少しだけ同情しそうになるけど……、すぐに気持ち悪さが勝つ。
すると、ナメクジがゆっくり私の正面に立った。
頭1つ分ぐらい背が高く、白っぽい体が街灯の光を反射して、ヌメヌメと不気味に輝く。
大きな目がギョロギョロと動き、私を見下ろす。
瞳の奥に、黒い渦のようなものが渦巻いている気がして、ゾッとする。
底の見えない井戸を覗き込んだ瞬間のような、足がすくむ感覚に堪えられず、別に怒られても悪口も言われていないのに、思わず下を向く。
視線を逸らした先には、自分の靴の先が水たまりに沈んでいる。
黒いローファーは泥だらけ、白い靴下もグズグズ。
「家に入れてくれるなら、貴女の質問に答えてあげるし、私達の目的も教えてあげる。」
急に取引を持ちかけたナメクジに再び顔を上げる。
教えてくれるの?
コイツ等を家に入れたら?
このナメクジとヒルが教えてくれるの?
本当にクラスメイトなのか。
何で私に用があるのか、とか。
私が何を隠しているのか、とか。
最初に"お久し振り"って言っていたけどいつ会ったのかとか。
あと、夢の世界じゃないのに能力が使える事とか…。
そもそも今この状況が現実なのか夢の中なのかよく分からないけれども…。
それにさっき、あの妖精をエク…ナントカって言ってたから、何か知っているみたい。
知りたい事は沢山ある。
でも――
気持ち悪い。
それに、私だけじゃなくて、モモカにまで意地悪したばかりだもの。
やっぱり、嫌。
ただ私の家に入たいから嘘を吐いているだけかもしれないし。
心の中で何度も"嫌だ嫌だ"と繰り返しているのに、声には出せない。
だから代わりに、再び首を左右に振ろうとした。
振ろうとしたのに――
あれ?
首が、動かない。
それどころか、体全体が固まって、指1本すら動かせない。
まるで透明な樹脂に全身を漬け込まれたような、息苦しい重さ。
肺が縮こまって、浅い呼吸しかできない。
まさか、ナメクジの能力?
ヒルは背後からだけど、ナメクジは正面から相手の行動を制限しちゃうの?
体が石のように重く、焦りと恐怖で息苦しい。
心臓が耳元でドクドクと暴れていて、頭の中が真っ白になる。
「私達の話に応じてくれるなら、私達は貴女に危害を加えない。」
ナメクジは再び取引を持ち出すけど、能力で束縛された私には、最初から拒否権なんてないんだ。
選択肢がない。
ただ、従うしかない。
「……よく分かんないけど、分かった。」
渋々応じると、急に体の硬直が解けた。
筋肉が一気に緩み、膝がガクガク震える。
力が抜けすぎて、立っているのがやっとだ。
不服だけど、寒いし、妖精に"避難して"と言われたから、取り敢えず家に戻らなくちゃ。
倒れているモモカの元へ、ヨロヨロと駆け寄る。
水溜まりに足を踏み入れ、ビチャビチャと音が響く。
冷たい水が靴の中にまで入り込んで、足の指が凍りつく。
「モモカ……。」
小さな体はまだ動かない。
黒い毛が濡れて光り、胸が弱々しく上下している。
その小さな上下に、ほんの少しだけ安堵が混じる。
それでも、涙が溢れそうになる。
目頭が熱くなって、視界が滲む。
すると、ヒルがヌルッと近づいてきて、しゃがみ込み、モモカを抱えようと腕を伸ばす。
「まだ起きないだろうから、運んであげようか?」
黒い触手のようなものが、モモカの体に近づく。
「触らないで!自分で運ぶから。」
私は大声を出して断った。
声が震え、喉が痛い。
さっきまで私だけじゃなく、モモカにまで意地悪したくせに!
この気持ち悪い無脊椎動物の分際が!
心の中で怒りを爆発させながら、モモカを抱き上げる。
両脇に腕を回し、体を支える。
やっぱり見た目より重たい。
こんなに痩せ細っているのに、ズッシリと重く感じる。
濡れた毛が私の腕にベットリ張り付き、冷たい。
引きずるしかなくて、足元がよろける。
膝が笑って、いつ転んでもおかしくない。
日はすっかり落ちて、夜が濃くなっていた。
月の光が薄く住宅街を照らし、銀色のヴェールをかける。
私の家は、1番奥にひっそりと佇んでいる。
古びたレンガの壁が四方を囲み、所々に苔が生え、湿った匂いがする。
窓は小さく、ガラスに細かな傷がつき、バルコニーも三角屋根もない、ただの箱みたいな一階建て。
当たり前だけど窓は真っ暗で、中の灯りはひとつもついていない。
茶色い木製のドアだけが月光に照らされてぼんやりと浮かび上がり、私の帰りを待っているみたいに、静かに佇んでいる。
私のお家。
私とモモカの、安住の地。
それなのに――
ヒルとナメクジが、後ろからヌルヌルとついてくる。
粘液の音と、滑るような足音が、夜の静けさを不気味に掻き乱す。
背中がゾワゾワする。
家に入れたら、何が起きるんだろう。
でも、もう逃げられない。
ドアの前に立ち、モモカを支えていた右手を離して腰ポケットから鍵を探す。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
ドアノブの下にある鍵穴にテンプルキーを挿し込んで回す音が、カチリと小さく響いた。
ドアがゆっくり開き、暗い玄関の匂い――古い木と、少し埃っぽい空気が、外に漏れ出す。
私はモモカを抱えたまま、一歩踏み込んだ。
足音がアスファルトに響き、モモカの体が私の腕の中で微かに揺れる。
後ろから、二つの巨大な影が、ゆっくりと家の中へ入ってくる。
月の光が、玄関の床に長い影を落としていた。




