ワームホールの先星⑨
「ちょっと!待ちなさーいッ!」
突然、ヘリウムガスを吸った後ような、物凄く甲高い女の子の声が夜空に鋭く響き渡った。
声の主は見えない。
だけど、風の気配が急に変わる。空気が圧縮されたような、重い予感。
次の瞬間――
ブワッ!
まるで見えない巨大な球体が高速で飛んできたかのような、強くて狭い空気砲が私達に襲い掛かる。
風圧が顔を叩き、大きな三つ編みが激しく後ろに吹き飛び、耳元で轟々と風の咆哮が響く。
空気の渦が体を押し潰し、息が一瞬止まる。
匂いはないのに、湿った土と金属のような味が口の中に広がる。
「ホラね。」
ヒルがヒラリ、軽々と後ろへ跳び、疾風をかわす。
体がヌルッと地面を滑り、粘液の軌跡を残して着地する。
粘液が地面にべっとり張り付き、街灯の光でヌラヌラ光る。
私も直撃は免れたけど、突然の風に足がもつれ、バランスを崩して尻餅をついた。
受け身を取る暇もなく、尾てい骨に鋭い痛みが走り、地面の冷たいコンクリートが尻から背中まで染み渡る。
手の平がザラザラしたコンクリートに擦れ、軽い擦り傷の熱さがじんわり広がる。
息が荒く、胸が上下する。
風が止んだかと思うと、顔の真ん前に手のひらサイズのピンクの妖精が、ピタリと浮かんでいた。
丸い頭から茶色の長い髪がカールして四方八方に広がり、髪の毛先が微かな風に揺れて、甘い花の香りを運んでくる。
頭頂には緑の葉と白い小さな花が飾られ、葉の縁が微かに露で光る。ピンクのフリルパンツと、花びらのような薄いドレスがふわふわと揺れ、ドレスの裾から淡いピンクの粒子が零れ落ちて舞い上がり、夜空に溶けていく。
可愛い見た目なのに、深い黒の瞳孔が光る黄緑と金色の大きなつり目が怒りに燃え、睫毛がピクピク震えている。
この子、知ってる!!
昨日、私に文句を言ってきた、あの妖精だ!
あの時の苛立ちが、胸に蘇る。
「アンタ、またヘタクソなの歌ったでしょ!!」
妖精は両手を腰に当て、声を張り上げる。
小さな体から出る声が、意外に大きく響き、周囲の空気を震わせる。
牙のような小さな歯がちらりと見え、ピンクの頰が怒りで赤く染まる。
「えッ!?」
ヒルが離れたおかげか喉の封印が解けたみたいで、ようやく声が出た。
喉が少し痛く、唾を飲み込むと違和感は残るし、少し裏返っちゃったけど、ようやく言葉が紡げる。
「アンタ、何のつもり?」
「だって歌ったら解決するのかなって…。」
「アタシとの約束忘れたの!?」
正直に答えると、妖精は即座に牙を剥き出しにして声を荒げる。
小さな拳を握り、ヒラヒラの裾が激しく揺れる。
「約束って、そっちが勝手に言っただけじゃないの!」
私も負けじと声を大きくする。
悔しくて、胸が熱くなり、息が速くなる。
「とにかく!アンタが歌うとダメなんだから!」
「だから何でダメなの!?」
歌うのは、私の勝手じゃないの!
自分の声で、何かを変えられるかもしれないのに!
妖精の態度に、苛立ちが募る。
「とにかくダメだったらダメなのッ!!」
ダメったらダメって……。
何でちゃんと教えてくれないのよ!?
すると、妖精は深い溜め息を吐き、小さな肩を落とす。
息がピンクの粒子となってパッと散る。
「…ハァ、アンタじゃなかったら喉を引き裂いて、声を出せないようにするのにさぁ。」
妖精の物騒な言葉に、ゾッとする。
喉を触り、想像するだけで寒気が走る。
「どういう事?」
何か理由があるのか訊いてみる。
でも、妖精は小さく唸るだけで、答えは返ってこない。
さっきまでの威勢はどこへやら、ムスッとした顔のまま、黙って私を睨み付ける。
代わりに、ナメクジがヒルの元へヌルヌルと歩み寄りながら呟く。
ヌメヌメと粘液の擦れる音が、静かな夜に響く。
「やっぱりこの風、あの時のと一緒。」
するとヒルは腕を組むように体を曲げ、首を傾げる。
黒い表面が波打ち、吸盤がピチピチと音を立てる。
「そうだけどさぁ、何で夢喰い乙女がいるの?」
「え、エクミ…何?」
その言葉が何なのか尋ねようとした瞬間――
バシャバシャッ!
頭から冷たい水が降り注いだ。
一気に全身が凍りつく。
髪が顔にベタッとへばり付き、視界がぼやける。
服がびしょ濡れになり、水の冷たさが肌を刺し、息が止まる。
プールの水とは違う、かすかな潮の匂いが混じる。
「うわッ!?何!?」
思わず俯いて慌てて前に走り、振り返る。
足元が滑りそうになり、転びそうになる。
誰よ、こんな時に水をかけるのは!?
犯人を確かめなくちゃ…。
「え…?」
高い高い空。
雲の向こうから、私が立っていた場所だけに向かって、水が流れ落ちていた。
まるで雲の上から誰かが巨大なジョウロをかけるように、チロチロと細い水流が、透明な糸のように降り注ぐ。
周囲は乾いたままで、私の周りだけが局所的な豪雨。
地面に水溜まりができ、街灯の光を反射してキラリと光り、水の音がパシャパシャと軽やかに響く。
空気中に、水の湿った匂いが広がる。
「もぉ〜!だから言ったじゃない!!」
再び妖精がキンキン声で叫ぶ。小さな体を震わせ、空を指差し、頰をプクッと膨らませる。
「何で空から雨じゃなくて、水が…!?」
私はビシャビシャに引っ付いた前髪を上げる。
水の冷たさが体に染み、震えが止まらない。
妖精がキッと私を睨みつける。
黄緑の目が、怒りで金色に輝く。
「アンタのせいよッ!!」
そっか、私のせいかぁ……。
えっ?
「ええっ!?何で私なの!?」
私の質問を当然のように無視して、妖精は空高く舞い上がる。ピンクの裾が夜風にふわりと広がり、花びらが散るように淡い粒子が降り注ぐ。
彼女を纏う風の音が、蜂の羽音のように高く響く。
「穴塞いでおくから、家に避難して!」
「えっ、穴っ、避難ってな…」
言い終わる前に、妖精はあっという間に水が流れ落ちている場所に向かって飛んで行ってしまった。
小さな体が、水の渦の中に吸い込まれるように消えていく。
水音が大きくなり、空から降り注ぐ水流が太く、激しくなる。
まるで天から降る1本の滝みたいに、私の居た場所を叩きつける。
水飛沫が飛び散り、足元に冷たい霧がかかる。




