ワームホールの先星⑧
小さな家がポツポツと点在する住宅街の奥、街灯の橙色の光がまばらに道を照らす中、私の家は1番奥にひっそりと佇んでいる。
坂を下りきって、商店街を抜けてからの平坦な道は、昼間の喧騒が嘘のように静かで、時折風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。
モモカは私の足元をテクテクと歩き、時々振り返っては、私がちゃんとついてきているか確認するように黄色い瞳を光らせる。
「ん?」
道の真ん中に、何か黒い塊と白い塊が積み上がっているように見えた。
最初はゴミ袋かと思ったけど、違う。
ゆっくりと蠢いている。
足を止めて、目を凝らす。
「うわッ!!?」
一気に背筋が凍りつく。
私よりも背が高い――うぅん、2メートル近くはあるかもしれない――巨大なナメクジとヒルが、道の中央に立っていた。
ナメクジの体はヌメヌメと光沢を帯び、夕闇の中で灰褐色の粘液が滴り落ちて、アスファルトに小さな水溜まりを作っている。
隣のヒルは真っ黒で、表面が波打つように蠢き、所々に吸盤のようなものが蠢いている。
ありえない。
気持ち悪い。
吐き気が込み上げてくる。
すると、巨大な黒いヒルがこちらに気づいた。
巨体をくねらせて向き直り、まるで首を傾げるような仕草をする。
「お久し振り〜…、とは言っても、まだ数日しか経ってないか。」
真っ黒なヒルから、軽快で少し高めの青年の声が響いた。
ヒトの声なのに、体は完全にヒル。
不気味なギャップに、頭がクラクラする。
そんな事よりも…
「しゃ、喋ったぁ!?」
「そりゃあ喋るよ。何言ってんの君?」
ヒルが、まるで友達に話しかけるように軽く体を揺らす。
隣のナメクジも、ゆっくり首らしき部分を傾げて、私をジッと見つめてくる。
「…私とコイツ、貴女のクラスメイトだけど、覚えてないの?」
こっちは少し低めで、冷たい女の人の声。
声だけは普通の女の子なのに、体は巨大なナメクジ。
そんな事よりも…
「クラスメイトって、生徒!?」
こんな生き物、学校で見かけたことなんて一度もない!
「生徒と先生以外に誰が居るっていうのよ。」
ナメクジが、溜め息混じりに首を傾げ続ける。
粘液がポタポタと落ちて、地面に小さな泡を立てる。
ヒルがヌルヌルと一歩近づいて来る。
体が地面を滑る音が、ゾワゾワと耳に残る。
「ねぇねぇ、隠してないで出してくれたら良いんだよ?」
「えっ、何の話!?」
あまりの気持ち悪さと恐怖に、思わず後ずさる。
足がもつれそうになる。
「フーッ!!!」
モモカが全身の毛を逆立て、背中を丸めて威嚇の唸り声を上げた。
小さな体なのに、必死に私を守ろうとしているのが伝わってくる。
すると、ナメクジがスーッと滑るようにモモカに近づき、
「…お前、邪魔。」
右手を――いや、触手のようなものを拳状に固めて、モモカのお腹を思いっきり突き上げる。
「フニャァッ!!」
モモカの小さな体が、宙を舞った。
周りの屋根よりも高く弧を描き、ドサッと地面に仰向けで落ちる。
黒い毛が広がり、動かなくなった。
「モモカ!?」
私は叫んで駆け寄ろうとしたけど、足がすくんで動かない。
「彼女、気を失っただけ。」
ナメクジが倒れたモモカを見下ろしながら、静かに淡々と答える。
声に感情が殆どない。
「何でそんな…ッ、意地悪するの!?」
叫び声が震える。
小さなモモカに暴力を振るうなんて、酷すぎる!
でもナメクジは再び首を傾げ、
「意地悪?まさか君もわざわざ選挙なんてやりたいの?」
「選挙…?」
私は目を丸くした。
夢の中でも”選挙”っていう言葉が出てた。現実でもこんな言葉が出てくるなんて。
もしかして、学校でカラオケ大会を”選挙”と呼ぶのが流行ってて、私はそれを小耳に挟んでいたのも?
「僕達は平和的に解決したいだけで、選挙だなんて手荒な真似はしたくないんだ。」
ヒルがそう言うと、ナメクジがヌルヌルと間に入ってくる。
「別に私は選挙しても良いけど、選挙中の彼は色々面倒だから選挙しない方が良いと思う。」
ナメクジの発言に、ヒルが呆れたように体をくねらせる。
「君は自分がゾンビみたいな気持ち悪い姿になっても堂々としていられるから凄いよ。僕は嫌だよ、消えてなくなりたくなっちゃうぐらいにね。」
すると、ナメクジが口の端を――違う、体の端をゆっくり上げて笑う。
「そうね、君はあれだけ余裕をかましておきながら予定外の選挙になった途端、"もう無理だ終わったお終いだ〜"って、厨房の隅でうずくまって泣き言ばかりで……んフッ、フフフフッ。」
両手みたいな触手をお腹だと思われる部分に抱え、クスクスと笑うナメクジ。
低い女の笑い声が、夕暮れの住宅街に不気味に響く。
ヒルがヌルッと腕を伸ばし、ナメクジの胸ぐららしき部分を掴み上げる。
「…今ここで殺り合っても良いんだよ?」
鋭く低い声で凄むヒル。
体が震えて、ドロリとした粘液がプルプル飛び散る。
ナメクジはニヤリと嘲笑しながら、ヒルの手をゆっくり解く。
「望むところよ、選挙だったら喜んで。」
2匹の間に、見えない火花がバチバチと散る。
空気が急に重くなり、まるで2匹だけの世界に閉じ込められたみたい。
気持ち悪くて、見ていられない。
チラッとモモカの方を見る。
モモカはまだ動かない。
黒い毛並みが夜風に軽く揺れ、小さな胸がかすかに上下するのが、暗闇の中でようやく確認できる。
モモカが倒れたままだし、何とかこの場から離れなくちゃ。
「あの〜、私、帰って良い?」
恐る恐る尋ねると、2匹は一斉に振り向いた。
白と黒の巨体がヌルッと、私の方を向く。
「帰って良い訳ないじゃない。」
ヒルがゆっくりと目の前まで近づいてきて、私を見下ろす。
巨大な黒い体が、街灯の光を遮り、影が私の上に落ちる。
まさかヒルに見下ろされる日が来るなんて……。
吐き気が込み上げ、足が震える。
「僕達は君に用があって来たのだから。」
え、私に用があるの?
「何で私に…」
スッとヒルが私の背後に回り込み、巨大な黒い体が影のように覆い被さる。
冷たい、ヌメッとした息が耳元にかかり、首筋がゾワゾワと粟立つ。
体温のない、湿った空気が肌に触れるだけで、吐き気が込み上げてくる。
「君ぃ、最近、歌うと変な事が起きない?」
真っ黒なヒルのくせに囁くような甘ったるい青年の声。耳の穴に直接入り込んでくるみたいで、頭の中がグチャグチャになりそう。
凄く怖くて、気持ち悪い。
でもこの感じ、初めてじゃない気がする……。
どこかで、この声、この冷たい息を、感じた事があるような……。
うぅん、そんな事、今はどうでも良い。
「歌なんて、し、知らない!」
怖くて、言葉が上手く出ない。
喉が締め付けられるみたいに震えて、声が上擦る。
取り敢えず逃げなくちゃ!
足を動かそうとした瞬間――
「あれ?」
体がピクリとも動かない。
「う、動けない!?」
まるで地面に根が生えたように、足が地面に張り付いている。
腕も、指先すら、言う事を聞かない。
背後の黒い物体が、ゆっくりと体をくねらせながら、再び耳元で囁く。
「この際だから教えてあげる。僕の能力は背後から相手の行動を制限する事だよ。」
「能力…?」
思わず尋ねてしまう。
声が震えて、情けない。
「僕達はねぇ、わざわざ選挙会場に行かなくても能力を使えるんだよ。今ここで首を切り落とす事も出来るんだ。」
能力が使える?
…ちょっと思い当たる事があった。
昨日、学校からの帰り道、何も考えずに自分の身長より遥かに高い校門を飛び越えた。
あの時は"早く家に帰らなくちゃ"という焦りだけで頭がいっぱいで、門を出た後で門が閉まったままな事に気が付いたけど、"気のせいかな?"と自分を納得させたけど……。
もし、あれが私の能力だったなら?
夢の中では、今朝、お城の中から海へとワープした。
ピンク色のモモカと入れ替わるように、体がふわっと浮いて、景色が一瞬で変わった。
あんなのが、現実でも使えたら…。
違う。
もしかしたら、これも夢の中の世界なのかもしれない。
モモカが黒いままだけど、まーちゃんっていう女の子が居ないのも気になるけど…。
「ねぇねぇ〜、どこでそんな歌を歌えるようになったのかなぁ?」
ヒルが再び、耳元で甘く訊いてくる。
体がヌルリと動き、私の肩に触れる。
冷たくて、ベットリとした感触に、吐き気がする。
そうだ、歌。
お城でも、海水浴場でも、歌を歌ったら不思議な風が吹いて、意地悪な人達がどこかへ消えていった。
もし、それが今でも使えるのだとしたら…。
もしかしたら、今、夢の世界か夢の世界じゃなくても……歌ったら、同じ事が起きるのかな?
害虫は駆除しなくちゃ……!
何か、強そうな歌……そうだ。
「ぶっとばすデンジャラ……」
リズミカルに声を出し、力強く歌おうとした瞬間――
「おっと、今回は歌わせないから。」
咄嗟にヒルが言い出した途端、喉の奥で、何かがピタリと止まる。
「……!?」
震えが消え、声が、音が、一切出なくなった。
口を開けても、空気が通らない。
まるで喉に透明な手が突っ込まれて、声帯を握り潰されているみたい。
息は出来るのに、声だけが出ない。
喉の奥が詰まったように息苦しく、肺が縮こまる感覚。
パニックが胸を締め付ける。
冷たい汗が額から頰を伝い落ち、服に染み込んでいく。
ナメクジは地面に落ちる粘液のポタポタという湿った音を残しながら、ゆっくり体をくねらせて近づいてくる。
表面の粘液が街灯の橙色の光を反射して、ヌラヌラと不気味に輝き、微かな泡立つ音が聞こえる。
耳に、心臓の鼓動がドクドク響き、頭がぼんやりする。
「情報を聞き出したいのに、声を封じたらダメじゃないの。」
ナメクジが、冷たく抑揚のない声でヒルを咎める。体を少し傾け、粘液の糸が地面に伸びる。
ヒルは不機嫌そうに体を震わせ、溜め息のような湿った音を漏らす。
黒い表面が波打ち、吸盤のようなものがピチャリと開閉するのが見える。
「だって、歌われたらアイツ来ちゃうし…」
アイツ?
頭の中で、その言葉が反響する。
喉の封印がまだ残る中、息だけが荒く、視界が揺れる。




