ワームホールの先星⑦
「それじゃあ、帰ろうか。」
立ち上がって歩き出し、モモカよりも先に校門をくぐろうとしたその時――
「待っ、て。」
掠れた、乾いた女の子の声が、鋭く割り込んできた。
足を止めて振り返ると、校舎の影からひとり、細い少女が現れた。
長い茶髪を、真っ赤なビーズで2つのお下げに結んでいて、その特徴的な髪飾りが、夕陽を受けてもうひとつの夕日ように赤く光る。
「詩由羅ちゃん?」
詩由羅ちゃんは、無表情のまま1歩1歩近づく。グラウンドの砂を踏む音が、やけに大きく響く。
私からモモカを隠すような位置で立ち止まると、濁った灰色の瞳で私をまっすぐ睨みつける。
「この子は、学校に、居た方が、良い…。」
この子――って、モモカの事?
確かに今朝は弱っていて、ぐったりしていたから学校に連れてきたけど…。
今はもう、歩くのもしっかりしている。毛並みも少し艶が出て、目も澄んでいる。
「モモカは私の家族なのに?」
お友達である詩由羅ちゃんに対して声が少し震えてしまう。
詩由羅ちゃんはゆっくり首を左右に振った。大きな赤いビーズが、カチカチと音を立てて激しく揺れる。
「お前、この子、虐めた…、イジメ、許せない。」
淡々とした、掠れた声。
でも、その奥に燃えるような憎しみが、ハッキリと伝わってくる。
灰色の瞳が、夕陽に照らされて一瞬だけ赤く光った気がした。
ちょっと怯んで、後ずさりそうになる。
でも、私だって首を振った。
「私、モモカをイジメてない!」
大声で否定する。
私がモモカをイジメてる?
そんなの、絶対にない!!
毎日餌をあげて、撫でて、寒い日は抱っこして…。
モモカは私の家族で、私の全部なのに!
イジメてる訳ないじゃないの!
怒りと焦りに任せて友達に対して大声で言ってしまった反動で、心臓がドクドク鳴って、喉が乾く。
きっと、何か勘違いしている。
何とか誤解を解かなくちゃ……。
すると、モモカが詩由羅ちゃんの横をすり抜け、私の方へ歩み寄ってきた。
小さな足音が、砂を軽く鳴らす。
「モモカ?」
「行っちゃ、ダメ。」
私が呟くと同時に詩由羅ちゃんは素早く手を伸ばし、モモカの進行を塞ごうとする。
彼女の細い指が、夕陽に透けて影になる。
「フーッ!!」
モモカが低い唸り声を上げて飛び上がった。
鋭い爪が一瞬閃き、詩由羅ちゃんの右手の中指を引っ掻く。
「あっ!」
詩由羅ちゃんは小さく声を上げ、引っ掻かれた指を左手で押さえて立ち尽くす。
赤い血がツーと流れ、ポトリと地面に落ちた。夕陽がその血を、より赤く染める。
「あ、大丈夫?」
恐る恐る訊くけど、詩由羅ちゃんは我に返ると、再び私を睨みつけた。
灰色の瞳が、痛みと怒りで揺れている。
「次、イジメたら、許さない。」
それだけを短く吐き捨てて、踵を返した。
長いお下げが揺れ、赤いビーズがカチカチと音を立てながら、校舎の影へと消えていく。
猫背な背中が、夕陽に小さく溶けていく。
彼女の姿が見えなくなると、モモカは校門前までゆっくり歩いて、振り返った。
金色の瞳が、私をジッと見つめる。
まるで"大丈夫?"と訊いているみたい。
「……そうだね、モモカ、帰ろう。」
私はモモカの横に並んで、ゆっくりと歩き始めた。
小さな足音と、私の靴音が重なり合って、夕暮れの道に響く。
モモカの黒い毛並みが、夕陽に赤く染まりながら、優しく揺れている。
校門をくぐり、帰り道を並んで歩く。
胸の奥の熱さと、悔しさと、少しの安心が混じり合って、涙が滲みそうになる。
独りだったら泣き叫んでいたかもしれない。
でも、今はモモカが隣にいる。
一緒に歩いている。
それだけで、十分だった。
夕焼けが空を真っ赤に染め、長い影が私とモモカを――1人と1匹を――優しく包み込んだ。
校門を出ると、すぐに長い直線の坂が始まる。
夕陽が坂のてっぺんから斜めに差し込み、アスファルトを赤く染めて、長い影を私の足元に伸ばしている。
風が少し冷たくなり、頰を撫でる度に、今日の出来事が頭の中でグルグル回る。
私はモモカと一緒に、トボトボと歩きながら、今日の事を振り返った。
「私、モモカにも、皆にも、何も悪い事していないのに…。」
小さな声で零す。
言いたくない愚痴なのに、胸の奥から自然と溢れてしまう。
坂の傾斜が体を重くするみたいに、心もずっしりする。
毎日ちゃんとエサとお水はあげてる。
朝と夜、大体同じような時間に、お肉やお魚をあげてる。
仕入れが良い日は新鮮なモノをあげてる。
お散歩は、猫だから勝手に動き回ってるし、私が追いかけるより先にどこかへ行っちゃう事の方が多いけど……それがモモカの自由だと思ってる。
あんまり勝手が過ぎる日はリードを着けたけど…。
今日は病気だと思って学校に連れて来たのに他の用事で少しの間だけ放置しちゃったけど……。
あっ、暫くお風呂に入れてあげなかったせいかな。
毛並みがボサボサで、油っぽく、泥がついてたし、匂いも少し気になってた。
私がちゃんと洗ってあげてれば、こんな誤解されなかったのかも。
ふと、テクテクと先導するモモカの後ろ姿を眺める。
黒い尻尾がユラユラと揺れ、夕陽に照らされて赤みが差している。
私とはぐれていた間に、泥だらけでボサボサだった毛並みは、今はサラサラしてそうなぐらい綺麗になっていた。
もしかしたら、詩由羅ちゃんは汚くなったモモカを可哀想だと思って洗ってくれたのかな?
学校のどこかで、水をかけて洗って、丁寧にブラッシングしてくれたのかも。
もしそうだったら、明日、詩由羅ちゃんにお礼を言わなくちゃ。
そして、その時に私がモモカを意地悪していないって、ちゃんと説明しなくちゃ……!
詩由羅ちゃんなら理解してくれる筈。
だって、詩由羅ちゃんは、私の話を聞いてくれて、私を助けてくれた、大切なお友達だから……!
長い坂を下りきると、大きな紅い鳥居が立っている。
朱色の柱が夕陽に燃えるように輝き、鳥居の下をくぐると、風が少し湿った匂いを運んでくる。
そこから先は、長いシャッター通り。古びた商店街の両側に、錆びたシャッターがずらりと並び、どれも固く閉ざされている。
看板の文字は色褪せ、ところどころ剥がれて、昔の賑わいを想像させるだけ。
「ここの商店街、いつ見ても全部閉まっているけど、いつ営業するんだろうね?」
私は半ば独り言に近い声で、モモカに話しかける。
モモカは私の足元をチョコチョコと歩きながら、時折耳をピクピク動かすだけ。
猫だから、この言葉の意味も、この寂しい風景の意味も、分からない。
仕方が無い事なのに、なんだか少し寂しくなる。
確か、モモカはこの商店街にあるお肉屋さんの焼豚が好きだって、美沙お姉ちゃんが言ってた気がする。
昔、モモカを連れて来た時に、美沙お姉ちゃんが"ほら、モモカの好物だよ"って、端っこをちぎってくれたっけ。
あの時、モモカは目を細めて、嬉しそうに食べていた。
でも、これ、いつの頃の話だったかな…。
だいぶ昔の事だったのは確かだと思うけど…。
そう言えば、美沙お姉ちゃん、最近会ってないな。
お店のシャッターもずっと閉まってるし、お店の人達も何処に行っちゃったんだろう…?
色々考えていたら、商店街の出口に着いていた。
もう1本の紅い鳥居を潜り抜けると、道は少し広くなり、住宅街の灯りがポツポツと見え始める。
夕陽はもう森の中へと沈みかけ、空は深い藍色に変わりつつある。
所々に生えている紅い鳥居が輝きを失っていく。
とても、静かで、寂しい。
でも、モモカが隣にいてくれるだけで、胸の重さが少しだけ軽くなった気がした。
モモカは私の横を離れず、時折私の足に体を軽く擦りつけてくる。
小さな足音と、私の靴音が重なり合って、静かな帰り道に響く。
今日は家でゆっくり寝て、明日、詩由羅ちゃんにちゃんと話そう。
きっと、理解してくれる。
だって、私の唯一の友達だから。
そう信じて、私はモモカと一緒に、ゆっくり歩き続けた。




