ケルベルス座の上級星と水の星徒達㉕
今回は、ここまでだ。
これまで何度も選挙に巻き込まれて、その度に落選して転生してきたけど、今回は違う気がしていた。
何かが変わる、何か掴める、そんな予感が確かにあったのに。
だが、結局は――無理だった。
流石に相手が有家名じゃあ、星徒がどれだけ足掻いても意味なんてない。
そういう世界なんだ。
今回は、ただ運が悪かっただけ。
そう自分に言い聞かせ、覚悟を決めるしかなかった。
無数の星が降り注ぎ、アタイの身体は粉々に砕け散る――
そう思った。
――その筈、だった。
だが。
痛みを感じる間もなく、唐突に視界が
――真っ赤に染まった。
「……え?」
灼熱でも、閃光でもない。
もっと粘ついた、重たい赤。
血の海に顔を突っ込まれたみたいな、逃げ場のない色。
次の瞬間。
次の瞬間、 空間そのものが、ビリッと裂けた。
音はなかった。
でも“裂けた”としか言いようがない。
目の前に、真っ黒な巨大な穴が――開いた。
向こう側は見えない。
光が吸い込まれ、輪郭すら歪む、濃すぎる闇。
ただ、世界に穴が穿たれている。
それだけで、呼吸が止まりそうになる。
その闇の裂け目から――
勢いよく、ひとりの少女が飛び出してきた。
「えっ!? もしかしてモモカ!?」
聞き覚えのありすぎる声。
その瞬間、心臓が大きく跳ねた。
亜麻色の太い三つ編みを二つ揺らし、大きな瞳をまん丸に見開いた少女が、こちらを見ている。
その顔を、アタイが忘れるわけがない。
「……妃姫様!?」
飛び出してきたのは、間違いなく妃姫様だった。
彼女は軽やかに赤い空間に着地すると、花弁が舞うみたいに髪を揺らし、アタイを見るなり、パァッと顔を輝かせた。
「わぁ〜! 可愛い〜!夢の中の世界だと、ピンク色なんだね〜?」
……夢?
違う。
ここは夢なんかじゃない。
地獄みたいな現実だ。
そう叫びたかったのに――
妃姫様は、迷いなくアタイに歩み寄り、
両手を伸ばして――
ガッ、と。
「っ……!?」
アタイの両腕を、力任せに掴んだ。
女の子の力じゃない。
筋肉とか骨とか、そういう次元じゃない。
鉄製の万力で挟まれた方が、まだマシだと思うほどの握力。
振りほどこうとしても、微動だにしない。
太く、硬く、異様に丈夫な指が、容赦なく腕に食い込む。
妃姫様は、いつもの無邪気な笑顔のまま言った。
「今からね、まーちゃんと海に行くんだ!だからモモカは、お留守番しててね!」
声は朗らかで、楽しそうで、まるで遠足前の子供みたいだった。
でも――その握力は、怪物だった。
学校で怯えていた妃姫様とも違う。
弱々しく俯いていた妃姫様とも違う。
なのに、確かに――妃姫様。
そして彼女は、アタイの腕を掴んだまま、くるりと一回転する。
舞踏会の貴婦人みたいに優雅で、軽やかで、完璧な所作。
その目は、どこまでも純粋で、無垢で、楽しそうだった。
次の瞬間。
「――えいっ!」
妃姫様は、アタイの身体を、黒い穴へ向かって――思い切り放り投げた。
「――っ!?」
身体が、ふわりと宙に浮く。
すぐに、重力に引きずられる感覚が全身を掴んだ。
……あれ?
この感覚。
アタイ、これ……最近、経験した気がする。
意識が闇に沈む直前、視界の端で、何かが動いた。
妃姫様の背後――
しがみつくように立っていた、ひとりの少女。
長い黒髪。
閉じられたままの両目。
額に走る、縦一文字の傷。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざわりと波立つ。
黒髪の少女は、アタイに向かって右手を差し出した。
「カモン、ジョーカー!」
軽やかなその声に反応して、
「いくじょっ!」
アタイの背中に隠れていたカエルのパペットであるジョーカーが、ピョンっと飛び出した。
そして黒髪の少女の背中へ、軽やかに乗り移る。
「バイバイだじょ〜!」
小さな手を振るジョーカー。
「待って!!」
叫び声は、闇に吸い込まれていく。
黒髪の少女――
初めて見るはずなのに、アタイは“知っている”。
「アンタ……ディケヤミィだろ!?」
叫びは届かない。
少女の姿も、妃姫様も。
破壊された海も、砂も、星も――
全てが、赤に溶けて消えていく。
アタイはただ、底の見えない暗闇へ、落ち続けるしかなかった。
◇
鼻を突く、強烈な塩素の匂い。
そこに混ざる、冬特有の冷え切った空気。
それだけで、現実に引き戻されるには十分すぎた。
「――っ!」
アタイは、乱暴に放り出されるように地面へ叩きつけられた。
ここは――冬の学校のプール。
湿った冷気がコンクリートから立ち上り、どこか鉄臭い匂いが漂っている。
アタイは息を整えながら、自分の身体を見下ろし、息を呑む。
メイド服がない。
ピンクの耳も、尻尾も、影も――何ひとつない。
浅黒い地肌の腕。
焦げ茶色の髪が、肩に触れる感覚。
黒いリボンが特徴の、見慣れた白いワンピース状の制服。
選挙服じゃない。
まるで長い夢から、無理矢理叩き起こされたみたいな感覚が、胸の奥で重く転がる。
「……アタイ……選挙が……終わった……?」
呟きは白い息になり、静まり返ったプールに溶けて消えた。
その時。
「……戻って……、来たの?」
か細い声。
プールの隅で、詩由羅が震えていた。
壁に背中を押し付け、首をすくめ、逃げ場を探すみたいに目を泳がせている。
恐怖と混乱が入り混じった瞳で、真っ直ぐアタイを見ていた。
「どういう……事?一体……何があったの……?」
その視線の先。
冷たいコンクリートの床に、うつ伏せに倒れている少女がいた。
ただ倒れているだけじゃない。
背中も、腕も、脚も――鋭利な刃物で何度も切り裂かれたように、深く大きく裂けている。
肉がめくれ、制服は紅に染まり、血溜まりが、輪のように広がっていた。
肩までの内巻き焦げ茶のボブ。
それだけで、誰なのか分かった。
御蘭華。
――そうだ。アタイ、最初にこの子に、無理矢理選挙に参加させられたんだ。
あの引きずり込まれる感触。
自由を奪われ、意識をねじ曲げられる、あの圧力。
……妃姫様に投げ飛ばされた感覚と、どこか似ている。
嫌な汗が、背中を伝い落ちた。
詩由羅は唇を噛みしめ、震えながら言葉を絞り出す。
「さっき……、桜丘さんが……彼女の遺体を抱えて、戻ってきたの……。」
喉を鳴らし、続ける。
「それで……すぐに、大きな穴を作って……、どこかへ……行っちゃった……。」
そして再び、アタイを真っ直ぐに見据えた。
「その直後……、貴女が……戻ってきた。」
胸が、冷たく締め付けられる。
「桜丘さんの……能力……、御蘭華と……全く、同じだった……。」
点と点が、勝手に繋がっていく。
妃姫様は、御蘭華との選挙に当選した。
そして、その能力を――使った。
もし、そうだとしたら。
妃姫様が、突然異常な力を得た理由も。
選挙に残り続けた理由も。すべて、説明がついてしまう。
そして――
御蘭華の末路が、ここにある。
詩由羅が、震える声で問いかける。
「桜丘さんは……、一体、何を……してるの……?」
その問いは、モモカの喉に重くのしかかった。
答えなんて、出せない。出したくない。
それでも――胸の奥底に貼り付いた、ひとつの結論だけが、ゆっくりと、確実に浮かび上がってくる。
妃姫様は――
他人の“能力を奪う”。
それが真実なら。
今も、どこかで――
次の“選挙”が、始まっている。
冬の空気が、更に冷え込んだ気がした。
プールに溜まった濁り水が静かに揺れ、赤黒い光を反射する。
それはまるで――
“何か”が、また帰ってくる前触れのようだった。




