ケルベルス座の上級星と水の星徒達⑰
海底の隠れ家は鱗魚助が忍術で組み上げた透明な泡のドームに守られている。
だが、海上には巨大な壁が青白く光を放つ。
海底の隠れ家は、どこか息苦しく感じるようになった。
まるでこの場所そのものが深海の獄舎へと変化しているかのようだ。
今は守られているとはいえ、ひとたび侵入されれば一瞬で押し潰される…。
そんな焦りからか、涼所であるにも関わらず背中を汗が伝い、心臓がドクンドクンと強く鳴る度にこの静寂な空間に鼓動が反響している気がした。
その音に呼び起こされるのは、ミーシャ様が仰ていた「もう一つの能力」という断片。
青白い海光の中に彼女の微笑がぼんやりと浮かび、幻のように揺らめいて消える。
ミーシャ様の温かい手――「強制選挙」という言葉――その響きが胸の奥でこだまし、アタイの心臓をトントンと叩いた。
あともう一つ…。
「あっ!」
もう一つの能力――突然、閉ざされた扉が開かれるようにバッと甦ってきた!!
「ジョーカー!」
直ぐさまアタイは砂の床を蹴って振り返り、抹茶色のぬいぐるみの名前を呼ぶ。
「タコウインナーのぬいぐるみを、沢山出して欲しい!」
ジョーカーはピョンピョン跳ねるのをピタッと止め、口をポカンと開けて首を傾げる。
「タコさんのウインナーじゃなくてザクロのおはなだじょ〜! それに、ちがうばしょからたくしゃんのぬいぐるみはおくりぇないんだなぁ〜!」
小さな右手を左右に振り、赤い口はパクパクと動かしながら「無理無理」を繰り返す。
だがアタイは躊躇せず、ジョーカーの小さな両手をガシッと掴んだ。
桜の鈴がチリンチリンと高く鳴り、海底の静けさに澄んだ音が響き渡る。
「もう一つは…」
まるでミーシャ様が背後から囁くようだ。
アタイは目を閉じる。胸の奥で熱が膨らみ、こみ上げる。
頭にかかっていた靄がグワッと晴れるように視界が開け、両手のひらがジリジリと燃える。
桜の花びらが火になって散るような感覚。
その力がジョーカーに注ぎ込まれた。
すると、ビーズの目がカッと金色に光り、ぬいぐるみの布がザワザワと生き物みたいに波打つ。
赤い口がガクガクと震え、声を吐き出した。
「何コレ、凄い! モモカちゃん、やるじゃないの!」
その声はぬいぐるみのものではなかった。
ディケヤミィ――あの金色のポニーテール、魔術師のような調理着、無邪気な笑顔…。
脳裏にチラついた刹那、彼女自身の存在が滲み出てしまったのだ。
「あ…」と、しまったという声が漏れる。
次の瞬間にはジョーカーが慌てて誤魔化すように叫ぶ。
「うわぁあ〜! しゅごいじょ〜! これならやれるかもしれないぞ〜!」
小さな両手をパタパタさせながら抹茶色の体がくるりんと大きくジャンプすると、下の穴からドバババッと朱色の塊が溢れ出す。
それは丸い目と口を描かれた、布製の指人形だった。
縦長く上部が丸く、下部が広がったその形状はどう見てもザクロの花ではなくタコのウインナーだ。
砂の床をどんぐりみたいにコロコロと転がり、海底一面を埋め尽くしていく様子は赤い花が海底に咲いたようだった。
布の表面が水光を反射し、ザクロの花畑のようにきらめく。
「何だ、こりゃ!?ジョーカーお前メスだったのか?!」
鱗魚助の黒い目がカッと見開かれ、転がる赤い物体を凝視する。
ザリザリと砂の上でぬいぐるみが擦れ、透明な壁が海光をキラリと返す。
「さんらんじゃないじょ〜!ぬいぐるみをおくったんだぞぉ〜!」
否定するジョーカーを無視して鱗魚助はアタイに顔を向ける。
「それにしても、一体何をしたんだ?」
彼は目をぱちくりさせ、首を傾げる。
アタイは尻尾をピクピク震わせ、口角を吊り上げる。
「アタイの能力は、相手の能力を強化することらしい。」
桜の鈴がチリンチリンと誇らしげに響く。
「へぇ…、変わってるが面白い能力だな。」
鱗魚助は驚きと感心の声を漏らす。
それもそうだ。
弱肉強食なこの世界で他人の援助をする能力なんておかしな話だ。
ましてや、強制選挙という逃げる手段を持つ奴のもう一つの能力がソレなんて…、どちらも第三者が居る事前提な能力で自分でも呆れるよ。
でも、今はこの能力に頼るしかない。
このタイミングで思い出せたのも、何かの導きかもしれない。
「鱗魚助、アンタの力も借りて良いかい?」
「勿論だ!」
彼はニヤリと笑って即答した。
黒い目に渦の光が映り、熱が燃え立つ。
「で、何をしたら良いんだ?」
「このぬいぐるみを、大きく硬くして、ペットボトルロケットみたいなのを作って欲しい!」
「ロケットじょ〜!」
タコのウインナーのぬいぐるみを出し終わったジョーカーがピョンピョン跳ねながら叫ぶ。
ぬいぐるみの目がチカチカと光り、まるで作戦を楽しんでいるかのようだ。
「ペット? ロケット? 何だそれ?」
鱗魚助が眉をひそめる。
「ペットボトルってあの水筒の代わりになるやつだろ?ロケットって写真入れるやつだろ?飛ぶのか?」
「何でペンダントのロケットは知っているのさ…。」
思わずツッコミように呟いてハッとした。
もしかして、空飛ぶロケットを知らない!?
いやいや、流石にそれは無い無い。
あれだけ絵本やテレビで描かれていた伝説の乗り物を知らないなんて、転生で記憶が欠落したに違いない。
ええと、何か他に例えるとなると…
「水圧で大砲みたいに飛ばしたいんだ! あのデカい壁をぶち抜くか、飛び越えるか!」
左手のひらを自分の方に向けて立て、右手の人差し指と中指を立てて左手の横で上に動かして、ロケットが発射して壁を飛び越える様子を表現して見せる。
「まさか、サーカスの人間大砲でもやるのか?」
鱗魚助の口元が吊り上がり、驚いていた黒い目が悪戯に光った。
サーカスは知ってるんだ…。
まぁ、サーカスの団員も大道芸人も忍者も全て似たようなものか。
「だがよ、火薬の代わりにオイラの水圧で飛ばすにしても人を飛ばすのはなぁ…、あの壁の高さだと大型犬サイズが限界だな…。」
鱗魚助は頭上を見やる。
泡の天井越しに巨大な鉄板の壁がギラギラと光り、電流がバチバチ走っている。
それはまるで海を締め付ける鎖のように、どこまでも高くそびえ立っているのだ。
「心配要らないよ。」
アタイは両手で包み込むように彼の手を握る。
桜の鈴がチリンチリンと高鳴り、力が流れ込む。
胸の奥からドクドクと奔流が走り、再び手のひらが焼けるように熱くなる。
「うおっ!?」
鱗魚助の黒い目が更に見開かれる。
彼の全身を包む紺の布がバサバサと暴れ、砂の床が震えた。
海底そのものが彼の力に反応しているみたいだった。
「何だ、この力…! もっとスゲェ事ができそうな気がするぜ!」
声は海底ドームに響き、壁を震わせる。
ジョーカーが跳ね回り、「ワクワクするじょ〜!」と笑う。
ビーズの目がキラキラと輝き、周囲の赤いぬいぐるみが不思議な生命を宿したように見えた。
アタイは尻尾をピンと立て、鱗魚助と目を合わせる。
心臓がドクドク脈打ち、体が熱でいっぱいになる。
これは不安や焦りではなく、選挙という理不尽なルールに全力で立ち向かう鼓動だ。
「よし、鱗魚助! やるか!」
アタイの声が隠れ家に響く。
桜の鈴がチリンチリンと鳴り、波打つ光を全身に浴び、海底に桜の花びらが舞う幻を見せた。
「オイラに任せな! 人間大砲でも何でも、ぶっ飛ばしてやるぜ!」
鱗魚助が拳を握り、ブーツで砂を蹴る。
風呂敷が翻り、闘志に燃える瞳がギラギラと輝いた。
ジョーカーが両手にタコウインナーのぬいぐるみを掲げ、「うひゃ〜、ドッカーンじょ〜!」と叫ぶ。
海底の空間が震えた。
アタイたちの決意が、海の底をも揺るがすように。
――この選挙、絶対に切り抜けてやる!
泡の壁の外を、銀色の泡が閃光のように駆け抜けるたび、内部の光が揺れ、影が床を這う。
赤いぬいぐるみたちはその光に照らされ、まるで生きているかのように小刻みに震えた。
アタイの耳は、まだ桜の鈴の余韻を追ってピクピクと震えている。
胸の奥がじんわりと熱く、鼓動が自分の体を突き破ってしまいそうだ。
――これが「もう一つの能力」か。
だが嬉しさの中には、不安も混じっていた。
自分の事を思い出すほど、ミーシャ様や商店街への面影が強く甦る。
この先きっと、過去の事を色々思い出すのだろう。
ミーシャ様と出逢ったような良い思い出だけではなく、辛くて恐ろしい記憶も…。
これが、アタイの運命なのだろうか…。
「モモカ、だいじょうぶかな〜?」
ジョーカーが赤い口をパクパクさせ、こちらを覗き込む。
その声に紛れて、一瞬だけディケヤミィの少女めいた笑いが重なる。
幻聴のように。
アタイは思わず目を伏せた。
――アイツは、わざと声を漏らしたんじゃないか?
彼女の事だから、アタイを励ます為に…。
でも、もっと違う目的があるとすれば?
例えば、アタイの記憶を呼び起こす為に…?
そう疑った瞬間、胸の奥に冷たい針が刺さる。
その横で鱗魚助は腕を組み、布で覆われた顎を上げていた。
「……面白ぇな。」
海底に響く低い声が、不思議と心強く響く。
彼の黒い目は獲物を狙う魚のように鋭く、けれど今はアタイに真っ直ぐ向けられている。
その熱意溢れる目を見ると、尻尾が勝手に揺れた。
外を覆う巨大な壁が再びバチバチと火花を散らし、青白い閃光が海底を照らし始めた。
海水が熱されているのか、涼しかった空間は汗が流れる程に蒸し暑くなり、水圧の変化で耳の奥がツンと痛む。
――急がなきゃ。
このままでは隠れ家ごと湯煎にされるかもしれない。
「鱗魚助!」
アタイは思わず声を張る。
「アンタの力を、もっと見せておくれ!」
「おうよ!!」
彼は頷き、掌を中央に鎮座していた1匹のタコのウインナーのぬいぐるみに当てた。
「こいつを飛ばすんだな?」
鱗魚助の声が荒く、興奮と緊張が入り混じっていた。
アタイは頷き、ぬいぐるみに触れている彼の手を両手で添える。
ジリジリと手のひらが熱を帯び、再び桜の鈴がチリンと鳴った。エネルギーが駆け巡る。
次の瞬間、ドーム全体がゴゴゴと震える。
床の砂が渦を巻き、赤いぬいぐるみを巻き込んで海底ドームの天井ピッタリな巨大な塊へと成長していく。
ぬいぐるみの目がチカチカと光り、まるで命を得た怪物のように膨れ上がる。
鱗魚助の物体変化の力とアタイの能力増強の力が重なり合い、赤い塊がさらに硬く鋭く変貌していく。
「しゅごいじょ〜! 完全にロケットじょ〜!」
ジョーカーが大げさに跳ね回る。
だがアタイの耳には、笑い声に混じって「やっぱり面白いなぁ…もっと見せて♡」という囁きが聞こえた気がした。
――ディケヤミィ。
その名を胸で呟くと、背筋に冷たいものが走る。
妃姫様と一緒にいる筈の彼女は、どこまで遠くからアタイを試すつもりなのか。
だが、立ち止まっている暇はない。
海底の隠れ家を取り囲む壁の光がさらに強く瞬き、締め付けるように迫っている。
アタイは尻尾をピンと立て、息を吸い込んだ。
「……行くよ。これで道をこじ開ける!」




