ケルベルス座の上級星と水の星徒達⑯
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「アタシの名前は、ミーシャ。ミーシャ・サクラオカ。」
目の前で、春の光を浴びた藤色の両目を細め、優雅に微笑みながら名乗り出る女性がいた。
美沙様――ミーシャ様だ。
桜の飾りが施された白いケープが、初夏の風にフワッと揺れ、まるで天から舞い降りた使者のようだ。
四方八方へカール状に広がる濃いピンクの長い髪が陽光にキラキラと輝いている。
キーン、コーン、カーン、コーン…
山頂に佇む教会の鐘の音が、活気あふれる町中に響き渡る。
それはまるで新たな絆の始まりを祝福するかのようで、飢えで痩せたアタイの胸の奥にまでゴーンと反響する。
「さぁ、アンタも名乗りな。」
ミーシャ様の声が、柔らかく耳を撫でる。
太陽の有家名の威厳と優しさが、彼女の微笑みに滲む。
アタイは両手に抱えている食べ物の事も忘れ、吸い寄せられるように黒く汚れた細い手をそっと伸ばす。
泥がポロポロと落ち、長い尻尾がピクンと震える。
「アタイの名は…」
キーン、コーン、カーン、コーン…
再び鐘の音が響き渡る。
アタイは焦っていた。
名乗りたいのは山々だった。
だが、頭の奥が霧でモヤモヤして、言葉が喉で詰まる。
「アタイの名は…、思い出せねぇ。」
声が、掠れて小さく漏れる。
尻尾がピクピクと縮こまり、まるで自分の存在が霧に溶けるみたいだ。
「アンタ、自分の名前が分からないの?」
ミーシャ様の驚いた声が、商店街の喧騒を縫って耳に届く。
興味津々に輝く藤色の瞳が、アタイの心を覗き込もうとする。
少し離れた場所でこちらの様子を伺っていた金髪の女が、黄金でできた巨大な天秤の髪飾りを揺らし、紺色の法服の裾をサラリと整えながら歩み寄る。
右手の人差し指で赤い縁の眼鏡をクイッと上げる。
「短期間で転生を繰り返したせいでしょう。星徒ではよくある事ですわ。」
真っ赤な唇から放たれた彼女の声は、まるで霧を切り裂くナイフのように鋭く、アタイを見下す嫌悪がチラつく。
心の底から冷たい視線、冬空を思わせる空色の目がギラリと光り、重厚な天秤の髪飾りがカチャリと鳴る。
豊満な体格も相まってかその圧倒的な威圧感にアタイの大きな耳が無意識にピクピクと震え、凍てつく寒さから守るかのように更に身体を縮こませた。
「そっかぁ…、それは可哀想に。」
ミーシャ様がふわりと近づき、アタイの泥と脂だらけの手を両手でギュッと握る。
しっかりと包み込む温かい手が春の陽だまりのような優しさを運び、優しい花の香りが焼豚の甘い匂いと混ざる。
彼女の藤色の瞳が、まるで星空の湖のようにアタイを映す。
「迷子の子猫ちゃん、アタシのお家においで。」
その言葉に、その優しさに、アタイの胸につきかけた氷がジーンと溶けて熱くなる。
彼女から後光が差して見え、それは町を照らす太陽すら凌駕する。
「はい!」
自分でも驚く程に弾んだ声で返事をした。
商店街のあちこちに吊るされた風鈴がチリンチリンと鳴り、まるで新しい絆を祝福し、アタイの心を導く。
「フンっ、所詮は弱者ですわね、…後悔しますわよ。」
アタイの大きな耳ですら聞こえるか聞こえないか微妙なぐらい小さな声で吐き捨て、金髪の女は立ち去って行く。
彼女の後ろ姿をミーシャ様は手を振って見送った後、アタイの手を引っ張って立ち上がらせる。
しなやかだが力強いその腕に吸い寄せられるかのようにアタイの脚が動く。
「さ、行こっか。」
導かれるがままに向かった場所は、ミーシャ様の豪邸にあった風呂場だった。
分厚い木の扉を開けた途端、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
天井は高く、黒檀の梁に吊られた燭台の炎が、磨き抜かれた大理石の床や水面にゆらめく光を落としていた。
壁には水鳥や蓮の花を象った彫刻が施され、その間から流れ込む湯が静かにせせらぎを奏でている。
大きな浴槽はまるで小さな池のように広く、湯面がチャプチャプと揺れ、光を反射してきらきらと瞬いていた。
ミーシャ様がアタイの体を柔らかいスポンジと香り高い泡でゴシゴシと洗ってくださる。
湯気がモワモワと立ち上り、ジャスミンの香りが更に濃く漂う。
泥がドロドロと流れ落ち、ピンクの体毛がキラキラと現れる。
大きな耳がピクピクと動き、尻尾が水面でパシャパシャと揺れる。
「アンタ、本当は綺麗なピンク色だったんだね!」
ミーシャが目をキラキラさせて笑う。
浴槽に映るアタイのピンクの髪が、湯気と燭台の明かりに揺れ、まるで川に浮かんだ桜の花びらのように見えた。
柔らかいタオルで、アタイの体をフワフワと拭いてくれる。
タオルの感触はまるで雲に包まれるようで、その温もりが芯まで沁みていく。
「アタシ、花の中で桜が1番好きなんだ。」
これはジャスミンの香りだけどね、とミーシャ様が笑い、タオルを動かしながら囁く。
彼女の声が、ジャスミンの香りと混ざり、まるで春風が心を撫でる。
「名前…、可憐な桃の花で、モモカァレンってのはどう?」
その瞬間、胸がドクンと熱くなる。
あまりの嬉しさで目がジワッと潤み、喉がゴロゴロと鳴る。
「素敵なお名前…ありがとうございます!」
掠れていた声が弾み、浴場の静かな空気に溶けていった。
アタイの笑顔にミーシャ様もつられてニッと白い歯を見せた笑みを浮かべる。
彼女の笑顔は、町を照らす太陽よりも眩しく見える。
「あっ、モモカは補助系の能力が二つあるんだね。」
ミーシャが、タオルを置いてアタイの肩をポンと叩く。
彼女の手の温もりが、ピンクの体毛にジワリと染みる。
「アタイの能力が分かるのですか!?」
アタイは驚いて振り返る。
大きな耳がピクンと立ち、尻尾がポンッと弾む。
「たった今契約が結ばれてアタシの所有物扱いになったから、ある程度のステータスが分かるんだ。」
ミーシャ様が、にこやかに笑う。
藤色の瞳が、まるでアタイの奥底を見透かすようにキラリと光る。
彼女がアタイの知らないアタイを知る…。
その事実に、胸がドキンと疼く。
「恥ずかしながら、自分の能力も思い出せなくて…。」
アタイは、ピンクの尻尾をピクピクと下げ、恥ずかしそうに呟く。
浴槽の水面がチャプンと小さく揺れ、まるでアタイの戸惑いと期待を映す。
「ひとつは強制選挙っていう、凄く便利で強力そうな能力。もうひとつは…」
ミーシャ様の声が、まるで霧の奥から響くように遠ざかる。
チリンチリン…
湯気のモワモワが視界をぼやかし、風鈴なのか鈴なのか、沢山の甲高い音が鳴り響く。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「モモカ、ボーッとするなよ!」
鱗魚助の声が、空間に響く。
黒い目がアタイをギラリと見据える。
「ふぅ〜、モモカぁ、いねむりしてただろぉ〜?」
ジョーカーが口をパクパクさせながらアタイの左肩に飛び乗って顔を覗き込む。
「ち、違うよ。考え事をしてたんだ。」
アタイは右手でジョーカーを振り払い、透明な壁に映る自分の姿をもう一度見つめる。
ピンクの巻き毛、メイド服、桜の鈴、猫のような姿――ミーシャ様が名付けてくださった名前と、能力の断片。
強制選挙と、もう一つ…。




