ケルベルス座の上級星と水の星徒達⑫
海の波音が遠くでザザ〜ッと響き、まるで過去と今を繋ぐように唸る。
「もしかして、アンタ…!」
アタイの心臓がドクンと跳ねる。
桜の鈴が、チリンチリンと激しく鳴る。
突如として霧が晴れた、そんな感覚になる。
「アンタ、ディケヤミィのパペットじゃないの!」
一気に記憶の波が押し寄せ、咄嗟に名前を呼ぶ。
頭の奥で、ガラガラと錆びついた歯車が動き出し、ディケヤミィという女の子の笑顔が鮮やかに浮かぶ。
「ピンポーン! しぇいかいだじょ〜!」
ジョーカーが、パチパチと両手を叩く。
抹茶色の体が、高く高く弾む。
赤い口がパクパクと開き、腰を横にフリフリさせ、まるで勝利のダンスでも踊っているみたいだ。
ビーズの目が陽光にキラリと光り、どこか遠くにいるディケヤミィの視線を感じさせる。
「ってことは何だ? このカエルは、今朝の転入星でも星徒でもねぇのか?」
鱗魚助が驚きの声を上げる。
黒い目が、ジョーカーを値踏みするようにギラつく。
彼がディケヤミィの能力どころか、存在すら知らないのは無理もない。
知り合いであるアタイですら、彼女の存在を忘れていたのだから。
「ディケヤミィは星徒だけど、彼女の能力はパペットを操るんだよ。」
アタイは説明しながら、頭の奥で記憶がガラガラと動き出す。
ついさっきまで、このカエルのパペットがヘンチクリンであるにも関わらず初めて見た感覚だったのに、急にディケヤミィの事を思い出した途端、彼女との記憶がドバッと蘇る。
美沙様の屋敷で、料理が苦手なアタイの代わりにディケヤミィがハンバーグやオムライスを焼いて、妃姫様やアタイに振る舞ってくれた。
金色に派手な緑色のメッシュが混じったポニーテールが陽光にキラキラ揺れ、大きなお玉がカチャカチャと鍋を叩く。
大胆なメイクを施しているのが気にならないぐらい彼女の屈託の無い笑顔が、まるで霧のない夏の日のように温かかった。
そうだ、カエルのジョーカーの他にもペンギンのパペットやアヒルのぬいぐるみが、料理や飲み物を配りながらピョンピョン跳ねてたような気がする――。
自分でもビックリだ。
まだ自分自身の事も殆ど忘れてしまって思い出せないままでいるってのに。
ゲンソウチョウの転生が記憶をこんな風にバラバラにしてしまう事に、改めて恐怖する。
「そういえば、ディケヤミィ本体は何処にいるんだ?」
アタイは無意識にジョーカーを睨む。
ジョーカーが味方である事は分かった。
それは良い事だ。
だが、同時にこの目の前にいる弱そうな物体が星徒では無かった事に対する落胆も大きい。
それに、味方だったら最初に言って欲しかった。
「ヤミーはヒキちゃんとシェンキョして、いっしょにヤキニクたべてるんだぁ〜!」
「なっ、何だって!?」
アタイは思わず叫ぶ。
大きな耳がピクピクと震える。
アタイがこの選挙で必死に戦ってる間、妃姫様が別の選挙に巻き込まれて、しかも焼肉だと!?
いやちょっと待って、焼肉食べてるって何?
どういう状況?
「妃姫様は無事なの!?」
アタイの声が、キャットボックスに響き、まるで塔全体が震える。
桜の鈴が、チリンチリンと激しく鳴り、まるで妃姫様の安否を確かめるように急かす。
「しゅぐにおわってゆっくりしてて、ひしゃびしゃにモモカがいるから、なちゅかしぃとおもってきたんだぁ〜!」
ジョーカーがピョンピョン跳ねながら答える。
ビーズの目が、まるでディケヤミィの楽しそうな姿を映すようにキラリと光る。
驚いた。
ディケヤミィ本体と一緒とはいえ、妃姫様がアタイより後に選挙を始めて、アタイより早く終わらせてるなんて!
胸の奥で、妃姫様の強さと、どこか狂気じみた姿がチラつく。
アタイに首輪や生肉を与えた時の笑顔と、プールで周りから暴力を受け泣き叫ぶ姿が、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
妃姫様は、昔よりおかしくなってるけど、何度も落選して転生してきたおかげで明らかに強くなってる。
何故か――分からないけど、今回こそ、妃姫様は最後まで勝ち上がる気がする。
この永遠の冬、ゲンソウチョウの霧から抜け出せるかもしれない。
桜の鈴が、チリンと鳴り、まるでその予感を後押しする。
「チッ、あのゴキブリ女、また選挙に勝ち抜きやがったか…。」
鱗魚助が、悔しそうに舌打ちする。
黒い目が、遠くの海を睨むようにギラつく。
ジョーカーが、ポカンとした様子で鱗魚助を見上げる。
ビーズの目が、まるでディケヤミィが遠くから覗いてるみたいに、キラリと光る。
きっと、妃姫様の事を尊敬しているディケヤミィは、妃姫様がこんなにも嫌われてる事にア然としてるんだろう。
そう、気がかりなのは、鱗魚助みたいに多くの星徒が妃姫様に深い怨みを抱いてる事。
かく言うアタイも、その一人だ。
猫扱いされたり、生肉を食わされたり――そんなんじゃない。
もっと昔、商店街の霧の奥で、妃姫様がした何か。
思い出せないけど、皆が怨むような、恐ろしい事を。
「あ、あのさぁ…。」
アタイはジョーカーに尋ねようとする。
ディケヤミィなら、妃姫様の過去を知ってるかもしれない。
だが、口がピタッと止まる。
怖い。
妃姫様が、過去にどんな恐ろしい事をしたのか。
それを知ってしまうのが。
頭の奥で、霧がドロドロと渦巻き、記憶の断片がチラチラと光る。
恐怖で震え、全身が燃えるように熱くなる。
額から汗がポタポタと滴り、毛むくじゃらの腕がジリジリと焼けるみたいだ。
いや、違う――本当に暑い!
キャットボックスのふわふわな壁がムワッと熱気を放ち、ゆらゆらと揺れ始める。
所々ピンクの毛が湿った空気でベタッと萎む。
海の波音がザザ〜ッと不気味に唸り、遠くのキャットタワーの鈴が危険を知らせるが如くゴーンと低く響く。
「やけに暑いな…、外で何が起きてんだ?」
鱗魚助が、眉をひそめて呟く。
紺色の布が、汗で湿ってペタッと体に張り付き、黒い目がキャットボックスの入り口をギラリと見据える。
ピョンピョン跳ねていたジョーカーはピタッと動きを止めるが、抹茶色の体がキャットボックスの床の上で小さく震えた後、高く飛び上がる。
「うひゃ〜ッ!?あちゅいだろっ!!」
「こんな時に何ふざけてんの!」
アタイは咄嗟に叱りつける。
ジョーカーはパペットなのだから熱さも痛みも感じる事はない。
本体であるディケヤミィにも直接ダメージが通るわけでもない。
正体を知られても相変わらずジョーカーを演じているディケヤミィには尊敬の念すら抱いてしまうけど…。
どんな時でも明るく振る舞い、困っている人がいれば放っておけず助けに行く彼女の姿を思い出す。
妃姫様と一緒にいるのが彼女で良かったとすら思えた。
あれ?
ディケヤミィは学校の何処にいたんだ?
あの時、他にプールに居たのは豪渡と詩由羅だけだった筈だし、直ぐに選挙したとしたら駆け付けても間に合わない筈。
まさか、あの詩由羅がディケヤミィなのか…?
「行くぜ、嬢ちゃん!」
鱗魚助が突然大声で呼び、アタイの腕をガッシリ掴む。
靴下みたいな黒いブーツが、ふわふわの床をズボッと蹴り、キャットボックスの入り口へ飛び出す。
ジョーカーが「やだなぁ〜、こわいなぁ〜」と怪談話でも始めるかのように言いながら、ピョンピョンと後を追う。
アタイも引っ張られながら走り出す。
他の事に気を取られていたせいか心臓がドクドクと暴れ、桜の鈴がチリンチリンと鳴り響く。




