ケルベルス座の上級星と水の星徒達⑥
「いじめ、絶対に許せない…今回こそは…!」
いつの間にか、アタイの隣にいた詩由羅が、掠れた声で呟く。
彼女の濁った目は、怒りと悲しみで揺れ、細い手がスカートをギュッと握り潰す。
彼女が集団に向かって一歩踏み出そうとする。
「待って!」
アタイは詩由羅の腕を掴んで制止する。
彼女の腕は、まるで枯れ枝のように細く、冷たかった。
詩由羅は困り果てた表情でアタイを見る。
「桃花は、桜丘さんを助ける必要、ない…それは私も…でも、私は、このまま、見て見ぬふり、できない…。」
「アタイだって…今すぐ奴らの喉を掻き切りたい!」
本音だ。
ついさっきまで矛盾した気持ちが混在し、狼狽えていたが、急に怒りが胸で煮えくり、今すぐにでも奴等を制裁してやりたい。
だが、相手は多すぎる。
七、八人――いや、もっとだ。
こんなにいるなら優等星も混じってるに違いない。
こんな人数相手じゃ、返り討ちにされるのは目に見えてる。
なら、アタイに今できることは一つだけ。
アタイは集団に向かって両手を突き出し、叫んだ。
「強制選挙、発動!」
両手の平から、白い光が一直線に放たれる。
濁った水面に光が反射し、まるで水底から何かが蠢くように揺れる。
光はまるで霧を切り裂く刃のように鋭く、プールの向こうの集団を一瞬で包み込む。
アタイの能力「強制選挙」は、視界内の相手を強制的に選挙会場へ引きずり出し、選挙に参加させるものだ。
対象も人数も自由に選べる。
誰かが落選するまで終わることのない、このゲンソウチョウのルールでこの能力、かなり強力な部類に入るだろう。
「クズ同士で争って反省しな!」
アタイは吐き捨てる。
ほとんど面識のない星徒たちだったが、主人である妃姫様に危害を加える奴は、誰だろうと許さない。
特に波戸川…、良い奴だと思ったアタイが馬鹿だったよ!
光が消え、集団の姿が霧のように溶ける。
妃姫様が解放され、プールの縁にうずくまる。
彼女はハァハァと息を切らし、濡れた三つ編みから水がポタポタと滴る。
膝の血がコンクリートに赤い染みを作るが、それ以外は特に怪我は無さそうだ。
ご無事で何より。
アタイは急いで妃姫様の元へ駆け寄る。
コンクリートの冷たさが靴底に響き、首輪の鈴がチリンチリンと鳴る。
だが――
突然、視界が真っ赤に染まった。
驚く間もなく、目の前に真っ黒な巨大な穴が開く。
まるで空間が裂けたような、底の見えない闇。
そこから、少女が飛び出してきた。
焦げ茶色の内巻きボブヘア、大きな垂れ目の少女――豪渡だ。
彼女の髪は、若草のようにふわりふわりと柔らかく揺れ、垂れた目は嘲るように細められている。
豪渡は両手をスッと差し出し、アタイの両腕をガッと掴む。
小さな手とは思えない、鉄のような力。
振りほどこうとしても、ビクともしない。
彼女の細い指が、アタイの腕に食い込む。
「いきなり選挙を始めさせるなんて野蛮ですわね。もっと上品にできませんこと?」
彼女の声は、甘ったるく、まるで毒を溶かした蜜のよう。
豪渡はアタイの手を掴んだまま、クルリと回転する。
その動きは、まるで舞踏会で踊る貴婦人のように優雅だが、彼女の目はまるで獲物を捕らえた蛇…、よく見たら瞳孔が真横に伸び、山羊の目をした悪魔ようだ。
「それにしても貴女、真っ黒で汚いですわね、彼等に洗って貰いながら反省なさい。」
そう言いながら悪魔は力強くアタイを黒い穴へ放り投げた。
「それでは、ご機嫌よう〜♪」
視界が闇に飲み込まれ、少女のクスクスとした笑い声が遠くで響く。
アタイは抵抗もできず、黒い穴に吸い込まれてた。
暗闇だ。
息ができるのかさえわからない。
肺に空気が入ってる感覚がないのに、なぜか窒息しない。
上も下も、右も左も、まるで空間そのものが溶けたみたいに消えてる。体が落ちていくのか、浮いているのか、ただ沈んでいくのか――何もわからない。
風の音もない。
耳をすましても、首輪の鈴のチリンという音すら届かない。
意識だけが、まるで泥の底に引きずり込まれるように、ズブズブと重くなる。
冷たい闇が、まるでこの町の霧を濃縮したもののように、アタイの全身を締め付ける。
――死ぬのかな?
その考えが頭をよぎった瞬間、眩い白光が視界を裂いた。
ドサッ!
背中から何か柔らかいものに叩きつけられ、息が詰まる。
肺が潰れるような衝撃に、喉がヒュッと鳴る。
「…っ!?」
ゆっくりと目を開けると、指先にサラサラとした感触。
細かい砂だ。
まるで絹をすり合わせるように滑らかで、指の間をスルスルと流れ落ちる。
手のひらに残る微かな温もりが、まるで生き物の肌みたいに優しい。
ザザ〜ッ、ザザ〜…
寄せては返す波の音が、耳に届く。
ゲンソウチョウの凍えた空気とは違う、柔らかくてリズミカルな音。
遠くで、波が砂を撫でるように擦れる音が、まるで囁き声のよう。
鼻腔をくすぐるのは、懐かしい磯の香り。
遠い昔に商店街の魚屋で嗅いだ、塩と生臭さが混ざった匂いに似てるけど、もっと開放的で、どこか清々しい。
風が頬を撫で、湿った塩気と暖かな陽光を運んでくる。
「…え?」
アタイはゆっくり上体を起こす。
首輪の鈴がチリンと鳴り、砂がパラパラと肩から落ちる。
足元には、陽光を浴びてキラキラ輝く白い砂。
砂浜は、まるで新雪のように柔らかく、足跡一つない。
波が滑るように寄せては返し、透明な水が砂を濡らして光る。
目の前には、どこまでも続く水。
手前の水はガラスのように透き通ってるのに、遠くへ行くほど鮮やかな水色に染まり、果ての地平線では深い藍に変わる。
水平線は、まるで空と海が溶け合うように揺らめき、陽光が水面に細かい光の粒を撒き散らす。
頭上を見上げると、空には海がない。
代わりに、白い綿の塊――雲が、ふわりふわりと漂ってる。
空の中央には、眩しい光の球が全てを照らし、アタイの目をチクチクと刺す。
陽光は暖かく、まるで肌に染み込むように柔らかい。
もしかして、目の前のこれが…海?
驚いた。
ゲンソウチョウじゃ、空に海が広がってるのが当たり前だ。
なのに、今、目の前に地平線を埋め尽くす海がある。
こんな光景、ありえない。
でも、どこか懐かしい。
この波の音、磯の香り、暖かな風――まるで遠い昔、アタイが知ってた世界の欠片みたいだ。
頭の奥で、何かがチラチラと光る。
商店街の喧騒、美紗様の笑顔、焼豚の温もり…それよりもっと古い、もっと深い記憶。
転生の霧に埋もれた、何か大切なもの。
穏やかな小波が足元を撫で、冷たい水が靴下を濡らす。
風が髪を揺らし、ベタベタに汚れた髪がパラパラと砂を落とす。
陽光が首輪の鈴に反射し、チリンと小さく鳴る。
その音が、まるでこの海の静けさを掻き乱すように響く。
ここは…誰かの選挙会場?
どうしてアタイは、こんな場所にいる?
ついさっきまで、妃姫様を襲う奴らを「強制選挙」で転移させて…そしたら、豪渡って女がアタイを掴んで、黒い穴に放り投げて…。
思い出そうとすると、頭がキリキリと痛む。
黒い穴の暗闇、吸い込まれた時の感覚だけが強烈に焼き付いてて、その前の記憶が霧のようにぼやける。
豪渡の垂れた目、悪魔のような笑み、鉄のような握力――それらが、まるで悪夢の断片みたいにチラつく。
アタイの視界の端で、海面がキラキラと光り輝く。
この穏やかな海は、本当に誰の創り出した選挙会場なのか?
それとも、誰かの記憶の欠片?
首輪の鈴が、潮風に揺れてチリンと鳴る。
その音が、まるでアタイを現実に引き戻すように、胸の奥でズキンと響く。




