ケルベルス座の上級星と水の星徒達 ④
ふと思い出した。
そういえば、校舎の左側にプールがあったはずだ。
アタイは両手を上げ、改めて自分の姿を見下ろす。
全身が真っ黒。
汗と埃と血が固まって、皮膚はガサガサにひび割れてる。
髪は脂でベタベタに絡まり、まるで古い縄みたいに重い。
口の中はジョリジョリと砂を噛むような感触で、吐き気がこみ上げる。
本来のアタイがどんな姿だったのか、思い出そうとしても霧の向こうに消えちまう。
妃姫様のゴミ屋敷で、首輪に繋がれて暮らしてきたせいで、お風呂なんて夢のまた夢。
体を拭くことすらできなかった。
首輪の革が首に食い込み、擦れた皮膚がヒリヒリと痛む。
妃姫様がアタイを迎えに校門まで戻ってくるかもしれない。
でも、せっかく家から脱出できたんだ。
どうせなら、シャワーでも浴びて、この汚れを洗い流したい。
冷たい水でもいい。
少しでも、この重たい穢れを流せれば、アタイの心も軽くなるかもしれない。
転生するたびに、建物は元通りになってるはずだ。
けど、アタイみたいな転入星や、星徒たちの行動で、備品が増えたり壊れたりする。
何がどう変わってるのか予測がつかない。
せめてシャワーやボイラー室が無事ならいいけど…。
小さな石の階段を登ると、靴越しにコンクリートの冷たさが足の裏に突き刺さる。
目の前に広がるプールは、25メートル四方の広大な水面だった。
だが、水は緑に濁り、底はまるで闇に飲み込まれたように見えない。
表面には枯れ葉や埃が浮かび、時折、風が吹くと小さな波がチャプチャプと音を立てる。
プールの縁は苔で滑り、コンクリートはひび割れて黒ずんでいる。
まるでこの町の時間が、ここで止まったまま腐ってるみたいだ。
奥には、コンクリートでできた小さな小屋が三つ並んでいる。
更衣室、シャワー室、ボイラー室。
どれも古びて、壁にはひびが入り、錆びた鉄の扉がギィと軋む音を立てそう。
空気が冷たく、肺に入るたびに鼻腔がキンと凍える。
「…誰?」
突然、背後から掠れた女の声が聞こえ、アタイはビクッと飛び上がる。
首輪の鈴がチリンと鳴り、心臓がドクンと跳ねた。
あちゃ〜、油断した!
全員、教室に行ってると思ってたけど、違うのか!
恐る恐る振り返ると、そこには二人の星徒が立っていた。
少女は、長袖の制服でも隠しきれないほど痩せ細り、猫背で今にも折れそうな長い手足を揺らしている。
明るい茶色の髪は、紅いビーズで二つ結びにされ、胸元まで垂れている。
何処か凛々しさを感じるが、その瞳は…白く濁りかけ、まるで霧に覆われた湖のよう。
その灰色の目が、アタイをじっと見つめる。
その視線は、どこか遠くを見ているようで、背筋がゾクッと冷えた。
隣に立つ男子星徒は、わりと背が高く、細身なのにしっかりした体躯。
キリリとした眉と、活力に満ちた黒い目が印象的だ。
丸刈りの頭は、ゲンソウチョウの凍える冬を知らないかのように堂々としている。
彼の長袖の制服の裾は、砂埃で薄く汚れていた。
「おめぇさん、見ねぇ顔だなぁ?」
丸刈りの男子星徒が、アタイの顔をまじまじと見つめる。
口をへの字に曲げ、首を傾げるその仕草に、どこか子供っぽい好奇心が滲む。
だが、彼の黒い目は、アタイの汚れた姿を値踏みするように鋭い。
「あ、アタイは、その、なんていうか…。」
転入星だ、なんて言ったら、こいつらはどんな反応をするんだ?
今の学校の星徒たちの状況も、どんなルールが支配してるのかも、まだ何もわかってない。
現にこんな朝早くに見回りがいるなんて想定外だった。
下手に口を滑らせたら、選挙に巻き込まれちまうかもしれない。
アタイの心臓が、首輪の重さに合わせてドクドクと鳴る。
「それ、首輪…?」
猫背の女子星徒が、細長い人差し指でアタイの首輪を指す。
彼女の濁った目は、警戒の色を帯び、まるでアタイが何か危険なものを見るように鋭い。
「あぁ、コレ? 別に趣味で着けてるわけじゃないよ。」
アタイは首を振って否定する。
鈴がチリンチリンと軽やかに、でもどこか嘲るように響く。
目の前の二人は顔を見合わせ、眉をひそめる。
「可哀想に…。」
女子星徒の濁った目が、突然、深い同情の色に変わった。
まるでアタイの過去を全部見透かしたような、憐れむような視線。
彼女の声は、掠れて今にも消えそうだったが、どこか温かみがあった。
「女なのに泥だらけだもんなぁ…。」
男子星徒もアタイを見て、ゆっくり頷く。
「ちょいと待ってな、コイツで湯を沸かしてやるからな。」
彼は右手に持った金属バケツを軽く持ち上げる。
中には、細い木の枝がギッシリ詰まってる。
枝は乾いて白く、まるでこの町の枯れた木々をそのまま切り取ったみたいだ。
薪ボイラー!?
妃姫様の家で長いこと暮らしていたとはいえ、学校の湯が薪で沸かされてるなんて知らなかった。
「お願いね、波戸川くん…。」
女子星徒が掠れた声でそう言うと、波戸川と呼ばれた男子星徒は軽くウインクしてボイラー室へ走っていく。
金属バケツがカランカランと鳴り、砂埃が彼の足元で小さく舞う。
ボイラー室の錆びた扉が、ギィと軋む音を立てて開く。
アタイはホッと胸を撫で下ろした。
こんな状況で、敵か味方かもわからねぇアタイに、よくそんな気を遣ってくれるもんだ。
それに、この首輪が、こんな形で役に立つとは思わなかったよ。
「はじめまして、かな? アタイは桃花。」
自己紹介すると、女子星徒は首を傾げ、かすかに微笑む。
彼女の濁った目は、まるで霧の奥を覗くようにアタイを見つめる。
「私、詩由羅。貴女…、どこか、で、…会った?」
その言葉に、アタイも思わず首を傾げる。
どこかで会った?
うーん、転生を繰り返すうちに、顔も名前も記憶の霧に埋もれちまってる。
昔、学校に来てた頃は、星徒が1000人以上いたっけ?
でも、今は100人ぐらいだっけ、そんなにいなかった筈。
それでも名前も顔も、まるで砂に書いた文字みたいに消えちまう。
詩由羅の顔と掠れた声を聞いても、何も思い出せない。
けれど、彼女の目を見ると、胸の奥で何かチクッと刺さるような感覚がある。
何だろう、この感覚は。
「私ね、時々…夢を見るの。貴女みたいな…猫みたいな目をした人、一緒に、ごはん、食べてる…夢。」
詩由羅の声は、まるで風に揺れる枯れ葉のよう。
ポツリポツリと途切れながらも、どこか嬉しそうに語る。
彼女の口元は、かすかに笑みを浮かべ、濁った目が一瞬だけ光を取り戻す。
「でも…髪の色、全然、違う…夢、だもんね。」
彼女は小さく溜め息を吐き、白い吐息が冷たい空に溶ける。
吐息は、まるで寂しさと虚しさが混ざり合うように、ふわりと消えた。
「いつか、その夢の中の子と会えると良いね。」
アタイはそう言うけど、詩由羅には社交辞令にしか聞こえなかったのか、小さく首を傾げて苦笑いを浮かべた。
だが、アタイにとっては、ただの気休めじゃない。
夢は、記憶の整理だ。
彼女が見た夢は、転生で失われた記憶の欠片かもしれないのだから。
アタイも、転入星だから、わずかに過去を覚えてる。
暖かな空気、活気あふれる商店街、香ばしい肉の匂い、死にかけていたアタイに手を差し伸べた美紗様…。
あの日の記憶が、頭の奥でチラチラと光る。
アタイはまた、優しくて強い美紗様と、かつての落ちぶれていない高貴な妃姫様に、会えるんだろうか?
首輪の重さが、まるでその望みを押し潰すようにズシンと響く。
「ありがとう…。」
詩由羅は呟くように礼を言い、目を伏せる。
彼女の紅いビーズが、風に揺れてカチカチと小さな音を立てる。
遠くで、ボイラー室から薪が燃えるパチパチという音が聞こえ始めた。




