ケルベルス座の上級星と水の星徒達 ③
キーン、コーン、カーン、コーン…
学校の鐘の音が、冷気に包まれたゲンソウチョウの空を震わせる。
冷たく澄んだ音は、まるで町全体を凍りつかせるように響き、遠くの鳥居の朱色を一瞬だけ鮮やかに浮かび上がらせる。
坂の両側に立つ古木は葉を落とし、まるで骨のように白く乾いた枝を空に突き上げていた。
風が吹くたび、枝がカサカサと擦れ合い、まるで町が呻いているような音を立てる。
間に合った。
8時半の鐘が鳴り終える前に、なんとか学校に辿り着いた。
アタイは、台車の上で本当の意味でグッタリしてた。
台車の乗り心地は、最悪を通り越して拷問だった。
商店街の石畳は、年季の入った凸凹でガタガタ揺れ、アタイの体を容赦なく跳ね上げた。
シャッターが閉じられた商店街を抜け、長い長い上り坂を登る間、首輪の鈴がチリンチリンと耳障りに鳴り続けた。
妃姫様は力任せに台車を押し、息を切らしながら走った。
アタイは台車の縁を必死に掴んだが、何度も転がり落ちそうになった。
胃がキリキリと締め付けられ、乗り物酔いで頭がクラクラする。
全身が軋むように痛み、まるで骨まで震えてるみたいだった。
寝るだけのつもりだったのに、こんな目に遭うなんて。
筋肉痛どころか、明日には体がバラバラになりそうだ。
大きく厳重な校門をくぐり、妃姫様はようやく台車を止めた。
校門の鉄格子は錆びて赤黒く、まるで血が滲んだように見える。
広い砂地のグランドは、風に舞う砂埃で薄く霞み、遠くの校舎がぼんやりと浮かんでいた。
校舎の窓ガラスは曇り、まるで目に見えない何かが息を潜めているようだ。
「ハァハァ…、ふぉかぁったねぇ、ぼぼがぁ〜!」
え?
今、なんて言った?
妃姫様の声は、息切れのせいか、まるで水をかぶったようなモゴモゴした響きだった。
アタイは耳を疑う。 数秒間、彼女の乱れた呼吸がグランドに響く。
ハァ、ハァ、という音が、まるで霧の奥から這い出てくるよう。
やがて、呼吸が落ち着いたかと思うと、彼女がまた口を開いた。
「ぼぅだぁじようぶぉぼお!ふぃっじょにいご!」
何だ、それ?
口に何か詰め込んでるのかと思うくらい、言葉がぐちゃぐちゃだ。
アタイは上体を起こし、妃姫様をじっと見つめる。
彼女はアタイを覗き込み、口元は笑ってるのに、目が…おかしい。
大きく丸い茶色の瞳は、まるでガラス玉のように虚ろで、瞼が今にも落ちそうに重たげだ。
いつもなら温かみのあるその目が、まるで霧に飲み込まれたように焦点を失ってる。
妃姫様、急にどうしたんだい?
アタイの耳と目が狂ったのか?
頭がおかしくなったのはアタイの方か?
首輪の鈴がチリンと鳴り、心臓がズキンと疼く。
「ねぇ、そこの大きな三つ編みさぁん!」
背後から、背筋がゾワゾワするような甘ったるい声が響いた。
アタイと妃姫様は、思わず振り返る。
校門の方から、ひどく小さな女の子が近づいてくる。
茶色いセミロングの髪を緩い三つ編みにし、左右の肩に垂らしてる。
大きな茶色の目は、まるで夜の森の湖みたいにキラキラと輝き、その上にはピンク色のフレームの四角い眼鏡がちょこんと乗っかってる。
細い体に、どこか丸っこいシルエット。
どう見ても12歳くらいの幼女にしか見えないのに、彼女もアタイたちと同じ白いワンピースに黒いリボンタイの制服を着ている。
スカートの裾が風に揺れ、砂埃が彼女の白い靴下に薄く付着していた。
「ぶぇ、なぁふぃ?」
妃姫様は虚ろな笑顔を少女に向け、モゴモゴした声で応える。
彼女の三つ編みが、汗で湿って首に張り付いてる。
「え、何言ってるのですかぁ?」
少女は立ち止まり、首を傾げて耳をすます。
彼女の眼鏡のレンズが、曇った陽光を反射してチラチラと光る。
「ふぁふぁしい、ゃよぁぐらぁおがあ!」
妃姫様は身振り手振りを加えて話すが、言葉はまるで意味を成さない。
少女は眉をひそめ、ピンクのフレームの眼鏡をクイッと押し上げる。
「はぁ? あなたソレ、何語なんですかぁ?!」
少女の声は、甘ったるさの裏に鋭い苛立ちが滲む。
「ぶぇ…」
妃姫様はたじろぎ、虚ろな目で一歩後ずさる。
彼女の足元で、砂埃が小さく舞い上がった。
やっぱり、他の子にも妃姫様の言葉は通じないらしい。
アタイの耳がおかしいわけじゃなかった。
胸の奥で、ホッとしたような、不安が広がるような、複雑な気持ちが渦巻く。
このままじゃ、会話が全く進まない。
「あのぅ…。」
アタイは重い腰を上げ、台車から声をかける。
すると、眼鏡の少女が「キャッ!」と小さな悲鳴を上げ、飛び上がった。
彼女の三つ編みがピョンと揺れ、砂埃がフワッと舞う。
まさか、台車にヒトが寝てるなんて思わなかったんだろうね。
彼女の大きな目は、驚きと警戒で一瞬だけ細まった。
「何か困ってるのかい?」
アタイはできるだけ穏やかに声をかけた。
首輪の鈴がチリンと鳴るのを無視する。
「あ、えっとぉ、許子ぅ、この学校に入るのが初めてでしてぇ、教室は何処なのかなぁと思ってぇ…」
少女――許子は、露骨に顔を引きつらせながら、甘ったるい声で説明した。
彼女の声は、まるで砂糖菓子を無理やり溶かしたみたいにベタベタしてる。
もしかしてこの子、転入星!?
変な時期に転生してくる転入星の存在は知ってたけど、こんな…普通っぽい感じで現れるなんて、予想外だ。
アタイの背筋に、冷たいものが走る。
「ぶぁっ、ぽれふぁ、つぁいてぇ〜!」
突然、妃姫様が許子の左手を掴み、校舎の方へ走り出した。
彼女の三つ編みがバサバサと揺れ、砂埃が舞い上がる。
「わっ!?」
許子は驚きの声を上げ、妃姫様に手を引っ張られながら校舎へ向かう。
彼女の小さな足が、砂地を蹴ってカサカサと音を立てる。
アタイも追いかけようと、台車から降りる。
「イタタタ…、腰がっ!」
激しい揺れのせいで、腰に稲妻のような痛みが走った。
思わず膝をつき、砂地の冷たさが膝に染みる。
首輪が首に食い込み、鈴がチリンと嘲るように鳴る。
「そ、そんなに強く引っ張らないで欲しいのですよぉ〜!」
許子の叫び声が、グランドに響き渡る。
二人の走る足音が、砂をザクザクと踏みしめる音と混ざり、校舎の暗い入口へと吸い込まれていく。
彼女たちの影は、まるで霧に溶けるように消えた。
アタイは追いかけることもできず、ただ見送るしかなかった。
腰の痛みがズキズキと脈打ち、息が荒くなる。
あんなに活発で、積極的に動く妃姫様は、初めて見たかもしれない。
それなのに、あの虚ろな目、ぐちゃぐちゃの言葉…。
まるで何かに取り憑かれたみたいだ。
何が起きてるんだ?
アタイの心臓が、ドクドクと不安に鳴る。
それに、さっきの許子って子。
どこかで、いつの時か、見たことがあるような気がする。
あの甘ったるい喋り方、どこか不自然で、まるで仮面をかぶってるみたいだ。
眼鏡の奥で一瞬光ったあの目は、まるで獲物を狙う獣のようだった。
それに、丸っこい見た目からは想像できない、鋭い殺意と圧倒的でありながらどこか懐かしい気配。
普通じゃない。
「もしかして…」
アタイは呟きかけて、口を閉ざした。
そんな、まさか。
彼女がこのゲンソウチョウに来るなんて、ありえない。
きっと、アタイの気のせいだ。
転生を繰り返すうちに、記憶がぐちゃぐちゃになってるだけさ。
腰の痛みがようやく落ち着き、アタイは台車をそのままに、校舎へ向かって歩き出す。
砂地のグランドは広く、遠くの校舎が霞んで小さく見える。
風が吹き、砂埃が顔に当たってチクチクする。
首輪の鈴が、歩くたびにチリンチリンと鳴り、心を掻き乱す。
学校に来るなんて、何転生ぶりだろう?
当たり前だけど、最後に見た時から何も変わっちゃいない――と思ったけど、違う。
空気が、明らかに冷たい。
グランドの端に生えていた雑草は、すっかり枯れて灰色に変わってる。
校舎の壁は、ひび割れと苔で覆われ、まるで生き物の気配を拒むように静まり返ってる。
同じ町を繰り返してると思ってたけど、このゲンソウチョウは、着実に本当の意味で滅びに向かってる。
確信はないけど、この町から脱出するには、妃姫様が選挙に当選しなきゃならない。
そんな気が、ずっと前からしてる。
理由はわからない。
ただ、頭の奥で、誰かが囁いてる。
「それしかない」と。
もしかしたら、昔は知ってたのかもしれない。
数え切れない転生のせいで、記憶が霧のように薄れてるだけかもしれない。
校舎の入口が、暗い口を開けてアタイを待ってる。
キーン、コーン、カーン、コーン…
また、鐘の音が響き始めた。