ナメクジ座とヒル座の劣等星⑤
別れの挨拶を交わした瞬間、まーちゃんがふわりと無数の紅い蝶々に変わった。
細部や模様のない、織物のように滑らかな羽が、月光を浴びてキラキラと輝く。
ヒラリ、ヒラリと風に乗ってゆっくり上昇し、仄かな紅い光を放ちながら、星空の彼方へ舞い上がっていく。
月に向かうその姿は、まるで神話のワンシーン。
周りの金や銀の星々が、彼女の旅路を祝福するみたいに瞬く。
「ばいばい~!」
聞こえるかわからないけど、大きな声で叫び、紅い光が見えなくなるまで両手を高く振る。
静寂が戻り、また一人、ブロッコリーの木の上に立つ。
でも、寂しさは感じない。
さっきまでの荒々しい風は、そよそよと優しく頬を撫でる。
月と星の柔らかな光が、私の心をふんわり包んでくれるから。
今日、ほんと変な夢だったな……。
ぼんやり回想していると、目の前の風景がスーッと溶ける。
モコモコの木も、ホワイトソースの川も、遠くの赤い鳥居も消え、代わりに見慣れた白いレンガの壁と茶色い金属のドアが現れる。
私の家だ。
いつの間にか、家の前に立ってる。
月の光に照らされた家は、素朴で静か。
古びたレンガの壁が四方を囲み、窓は小さく、バルコニーも三角屋根もない、箱みたいな一階建て。
窓は真っ暗だけど、茶色いドアだけが、私の帰りを待ってるみたいに佇んでる。
やっと我が家!
いつもはもっと遊びたくて帰りたくないけど、今日は色々あって疲れたから、早く帰れてウレピーマン!
くの字型のドアノブをガッと握り、ギシリと音を立ててドアを開く。
冷たい外の空気と、ほのかに生温い中の空気が入れ替わり、風が頬を撫で、三つ編みをふわりと揺らす。
前髪が浮く間にサッと中に入り、バタンッと重いドアを閉め、ガチャッと鍵をかける。
暗闇の中、手探りで玄関のスイッチを探す。
指先がカチッと触れると、パッと黄色い光が灯る。
温かな明かりが玄関を照らし、疲れた心をホッと癒してくれる。
まるで、家が「おかえり」って言ってくれてるみたい。
黒いローファーをポイポイ脱ぎ捨て、町中に響きそうなバタバタ音を立てて、フローリングの廊下を駆け抜け、リビングへ。
「ただいま~!」
家族に挨拶しながら、リビングのスイッチをパチッ。
数秒の静寂の後、天井のホットケーキみたいな丸いシーリングライトがポワッと輝き始める。
乳白色の光が、朝日みたいに部屋を柔らかく照らす。
目の前に広がるのは、色とりどりの風船の海。
ソファの上、テーブルの上、小さなキッチン、床まで、赤や黒、マーブル色の風船で埋め尽くされてる。
まるで、楽しそうなパーティーが終わったばかりみたい。
でも、誰もいない。
「モモカ~、ご飯だよ~?」
家族の名前を呼びながら、テーブル横でしゃがみ、風船をモコモコ掻き分ける。
きっと、どこかに隠れてるはず!
「にゃあ……」
か細い声。
キッチンの隅から、黒い影がゆっくり現れる。
大きな黒い目。
頭は黒、胴は茶色で、耳の先まで毛深い、ボサボサの猫。
痩せ細った体が、月の光に透けて見える。
私のたった一人の家族、モモカ。
左後ろ足に巻かれた赤いリードを引きずりながら、ゆっくり近づいてくる。
その場でしゃがみ、低い姿勢で私を見上げる。
深い瞳は、知的で、でもどこか愛らしい。
まるで、私の心の奥を見透かしてるみたい。
「ただいま、モモカ。遅くなったけど、ご飯だよ。」
しゃがんだまま、ポケットからお肉のビニール袋を取り出し、広げて見せる。
モモカが大きな吊り目で覗き込む。
鮮やかな赤い肉に、ピンクの脂身が程よくついた、薄く切られたお肉。
両手で盛れるくらいの量だ。
「今朝ね、学校行く前に、赤い鼻のトナカイを見つけてさ。珍しいから写真撮ったら、怒ったのか追いかけてきて! 神社まで逃げたら、罠にかかって死んじゃったの。」
この町は、学校と商店街と神社以外、全部森。
いろんな動物が住んでて、罠もそこら中に。
何が現れても、おかしくないんだよね。
「だから、お肉屋さんに切ってもらったの。残りはまたもらいに行くから、しばらくお肉食べ放題だよ!」
「お肉屋さん」の言葉に、モモカがピクッと顔を上げる。
今は脱走癖があるからリードつけてるけど、昔はコロッケの匂いが大好きで、よくお肉屋さんに行ってたな。
選挙が終わったら、一緒に行こうかな。
「そうそう、トナカイ、もうすぐクリスマスなのに死んじゃって可哀想だったから、首は剥製にしてもらってるんだ。」
本で見た、お金持ちの家のトナカイの剥製。
偶然トナカイが死んじゃったから、試しに頼んでみたの。
剥製でも、モモカのお友達が増えたら、寂しくないよね?
考え込んでる間に、モモカが体を起こし、お肉をマジマジ見て、鼻をヒクヒク。
トナカイの肉、初めてだから警戒してるのかな?
「大丈夫だよ、モモカ。食べて、食べて!」
モモカの頭をそっと撫でる。
少し硬くて、ベタッとした毛。
今度、お風呂で綺麗にしてあげなきゃ。
撫でられながら、小さく鳴くモモカ。
やっとお肉を前足で押さえ、ガブリ。
最初は恐る恐るだったけど、だんだんガツガツ食べる。
小さな黄色い牙で引きちぎり、クチャクチャ噛んで、ゴクリと飲み込む。
「良かった~! 食べてくれた!」
一生懸命食べる姿に、ホッと安堵の吐息。
モモカは捨て猫だった。
拾った頃は警戒して何も食べず、みるみる痩せちゃって、ほんと心配だった。
この町じゃ魚は貴重で、カジキやトビウオを手に入れても、モモカは食べてくれなかった。
やっと報われた気がして、笑みがこぼれる。
「喉詰まらせないようにね。……私、疲れたから、先に寝るね。」
安心したら、急に眠気がドッと。
片付けは明日にして、寝よっと。
「おやすみ、モモカ。」
風船を避けながら、隣の部屋の茶色いドアを開ける。
リビングの光と、窓からの月の光が、部屋をほのかに照らす。
教科書が山積みの学習机と、シンプルな木のベッド。
ピンクの布団が、こんもり盛り上がってる。
私の部屋だ。
ふっくらした布団を見たら、もう我慢できない!
一目散にベッドへ駆け寄り、顔からダイブ!
ボフッ!
布団が沈み、柔らかくて暖かい感触が体を包む。
最高~!
これなら、嫌なこと全部忘れられそう。
今日、ほんと色々あったもん。
選挙、怖いメイドさん、血まみれのまーちゃん……。
でも、まーちゃんの紅い瞳と、星空の散歩が、胸に残ってる。
明日も、まーちゃんと会えるかな。
意識が遠のき、まぶたが重くなる。
大丈夫、この布団に身を任せよう。
明日も、ウレピーマンな日になりますように。
◇◆◇◆◇
コォッケッコッコオォ!
町中に響くニワトリの鳴き声。
みんなの目覚ましの合図。
私も、ガバッと飛び起きる。
カーテンがないのに、部屋は薄暗い。
肌寒くて、冬なんだなって実感。
でも、こんな日でも学校行かなきゃ……。
ベッドから飛び降りる。
「わっ、冷たっ!」
氷みたいな床に裸足で着地。
足裏からゾワゾワ震えがきて、変な悲鳴が出ちゃう。
膝と腕を曲げ、ブルブル小刻みに動く。
雪はまだだけど、冬の到来を実感。
寝相悪いのは小さい頃からだけど、いつ靴下脱いだんだろ?
体、凍っちゃいそう!
ベッドに戻りたい気持ちをグッと抑え、冷たい床に耐えながらリビングへ。
「ふわぁ~、おはよ、モモカ……」
欠伸しながら薄目でリビングを見渡すけど、風船の海に隠れてるのか、モモカの姿がない。
どこに潜んだんだろ?
まぁ、夕飯の時間には出てくるよね。
モモカ探しは諦めて、朝の支度に取りかかる。
昨日はバタンキューだったから、朝シャワー浴びよっと。
背中までの髪、洗うの面倒だけど、女の子だもん、身だしなみは大事!
風呂場の鍵を開け、ノブを右に回して押す。
ツンとした、プールみたいな匂い。
そうだった! カビ取りの漂白剤、撒いてたんだ!
慌てて換気扇のスイッチを入れる。
ガタンッと音がして、プロペラが回り、空気を入れ替える。
白いタイルの壁、大きな鏡、外に繋がる小さな窓、灰色の水はけのいい床、シンプルな白い浴槽。
今日もカビなし!
定期的に掃除してるから、ピカピカ!
朝の光が小窓から差し込み、タイルが光を反射して、ほんのり明るい。
シャワーを手に取ろうと、ふと鏡に映る自分を覗き込む。
寝癖だらけだけど、ニキビもクマもない!
今日も一日、頑張るぞ!
シャワーの蛇口をひねると、霧状の水が噴き出す。
お湯が出るまでの間、足元や壁の漂白剤を洗い流す。
ふと、浴槽に目をやる。
何かいる。
「うわっ!」
白くてヒョロヒョロしたのと、黒くてヒョロヒョロしたのが、仲良く並んで横たわってる。
全身の水分が抜けて、干からびたみたい。
萎んだパンケーキみたいにグチャグチャ。
「うっぷ……ナメクジとヒル、死んでる。気持ち悪っ!」
害虫だって生き物だから、どこに現れてもおかしいことない。
でも、最近見てなかったから、油断してた。
しかも、浴槽で死んでるなんて、余計にゾッとする。
吐き気が込み上げるけど、グッと堪える。
朝から最悪……。
片付けは学校終わってからでいいや。
見たくないけど気になっちゃうから、洗面所の蛇腹カーテンを広げて浴槽に蓋をする。
ふと、洗面所の棚の目覚まし時計に目をやる。
長い針が12、短い針が8。
8時ジャスト。
やばい! 学校、遅れちゃう!
考える余裕もなく、ヘアゴムを外して三つ編みを解き、制服と下着を脱ぎ捨て、シャワーへ。
お湯を出しっぱなしで、シャンプーを手に取り、シャカシャカ頭皮を擦る。
オレンジの爽やかな香りを楽しむ間もなく、泡と一緒に全身を流す。
お風呂場から飛び出し、ふかふかのバスタオルで拭く。
新しい下着と白いノースリーブシャツに着替え、バスタオルをターバンに。
すぐ外して、ドライヤーの温風と冷風で髪を乾かし、ブラシで梳かす。
脱ぎ散らかした制服をサッと着て、髪を二つに分け、それぞれ三つ編みに。
二本の三つ編み、完成!
玄関まで滑るように駆け、黒い革靴を履く。
8時20分、セーフ!
「じゃ、行ってきます!」
ドアを開け、学校へダッシュ!
今日も平和で、ウレピーマン!