鳳凰座の転入星⑦
「だからヒキちゃんにこそ選挙に当選して欲しいな。」
「私が選挙に当選…。」
それは、まるで遠い夢のように思えた。
私が選挙に当選するなんて、想像すらしていなかったから。
だけど、まーちゃんは、私に選挙に当選する事を願っている。
それも、ずっと前から。
「そうよ、選挙に当選すれば、セイトカイチョウになれば、誰からにも悪口を言われなくなるわ。」
その言葉に、私は少しだけ揺らいだ。
ふと、生徒会長の黒白さんを思い浮かべる。
皆に指示を出せるぐらい強く、廊下を堂々と歩けるぐらい凛々しく、誰にでも手を差し延べられるぐらい優しく、誰からにも尊敬される存在。
それが生徒会長。
皆がその生徒会長になる為に選挙に参加している。
私も何だかんだで選挙に参加する事になっちゃったけど、そんな凄い人物になるなんて、考えた事もなかった。
「生徒会長かぁ…。」
もし私が生徒会長になれれば、より良い学校に変えられるかもしれない。
虐めも、差別も、喧嘩も無く、皆が仲良く学校生活を送る事が出来るかもしれない。
でも、生徒会長になる為には厳しい選挙に当選しないといけない。
殆どの生徒が選挙に参加して頑張っているのに、私はそんな狭き門を潜り抜ける事が出来るのだろうか?
「心配しなくても大丈夫よ、私はヒキちゃんの為に戦うから。」
まるで私の考えている事を見透かしたかのように励ますまーちゃん。
その言葉は、私の本当の願望を知っているのだろうか。
それともただ単に私を応援してくれているだけなのだろうか。
正直分からない。
だけど、大親友であるまーちゃんが応援してくれるなら、私自身も自信を持って挑戦してみる価値があるのかもしれない。
そう思った。
「ねぇ、まーちゃん、選挙って具体的に何をすれば良いのかな?」
私は何気無くまーちゃんに問い掛けた。
「は?」
え?
私は驚いたまま固まった。
まーちゃんは口をポカンと開けて眉を左右非対称にひそめる。
その反応は明らかに呆れと苛立ちの意を示した声音と表情だった。
いつものように微笑んで答えてくれると思っていたのに、いつもと違う、まーちゃんの不快そうな反応に胸がざわめいた。
私、何か悪い事を言ってしまった?
質問の仕方が悪かった?
彼女の外面が私の内面に焦燥感を呼び起こす。
「ご、ごめん。」
私は咄嗟に謝った。
それ以外の言葉が見付からないから。
するとまーちゃんはハッとして私の顔を見ては小さい左右に首を振った。
「あぁ、そうよね、ヒキちゃんが知らないのも当然よね。」
今度は両方の眉と口の端を下げるまーちゃん。
その表情と声音は憐れみと同情が含まれている。
まーちゃんは唇をキュッと結んで考え込むような表情を浮かべた。
そして、項垂れ、深いため息を吐いた。
「私の方こそ、ごめんなさい。」
「まーちゃん…。」
私は俯く彼女をただ見つめるしか出来なかった。
親友に謝らせるなんて、何だか自分が情けなく思えてきた。
原因は私なのに。
そう、私は選挙について何も知らない。
あの穏やかなまーちゃんですら呆れるぐらい私には選挙についての知識が不足している事を思い知らされた気が…
あれ?
違う、何かがおかしい。
もしかして私、前にもまーちゃんに同じ質問をした事があるのかな?
それも、まーちゃんが呆れる程、何回も?
確証は無いけど、今のまーちゃんは明らかに変だ。
明らかに後悔している様子。
何か私に隠し事をしている、そんな気がする。
私はまーちゃんに確認する為に声を掛けようとした。
「ねぇ。」
不意に後ろから声が聞こえて来た。
寒風が私の肌を掠め、悪寒がする、男の子の声だ。
「誰?」
振り返ると、背が高くてガッシリした体格の男の子だった。
横から風を受けたみたいにボサボサとした短い黒髪と、岩を粗く削って造ったかのような長方形の地味な顔。
こんな寒い日に半袖なんて変なの、おかしい。
それに、確かに男の子らしく黒い長ズボンに黒いネクタイをしているけど、両手を前に組んでいて女の子みたいに立っていて変。
おかしい、変、気持ち悪い。
「貴女は、桜丘さんだよね?」
彼は私に問いかけた。
何だか出し辛そうな、喉の奥から搾り出した低い声で。
「そうだけど、誰?」
私は困惑しながら答えた。
何で私の名前を確認するんだろう?
一体何が目的なんだろう?
こんな寒いのに微笑んで、気味が悪い。
私の胸はざわめき、何かよく分からない不安がこみ上げて来る。
「僕は宮王、今日は焼却炉見張り当番のついでに桜丘さんとお話をする為、此処で待っていたんだ。」
熊みたいに大きな男の子である宮王は私の目をジッと見つめる。
その目がまるで獲物を品定めする獣に見えて、私は無意識に肩をすくめる。
「人数が減ってますます選挙が厳しくなっているでしょう?」
彼は話を続けながら、ゆっくり私に向かって歩み寄る。
そして、彼はのっそりと1歩、また1歩と近づき、その縮まる距離感はますます私を緊張させる。
私は思わずギュッと握り締めていた両手を腰の位置まで上げて身構える。
それでも私は彼から逃れる事が出来無いような錯覚に囚われ、息を詰まらせたまま、彼の次の言葉を待つしかなかった。
「だからね、僕と手を組んで欲しいんだ。」
彼は私の真ん前で立ち止まると、私を見下ろす。
細い目で見下ろされ私は緊張の糸に身を包まれ、私自身から激しく鳴る心臓の鼓動が耳元で響く。
彼の存在は圧倒的で、私は彼の前で小さく、無力な存在に思えた。
息が詰まりそうになりながら、ふと思い出す。
同じような笑顔、同じような髪型、同じような雰囲気。
いつ、何処で、そもそも会った事すら覚えていない、とある男の笑顔が脳裏にぼんやりと浮かんだ。
誰?
誰なのか分からない彼の声、彼の笑い声、彼の怒鳴り声、それら全てが私を包み込んでいく。
そんな私に気にもせず、彼は口角を上げて話を続ける。
「桜丘さんも、皆から虐められているんだよね?虐められている者同士で協力して選挙に当選しましょう。」
彼は笑顔のままゴツゴツとした右手を差し出してきた。
「ね、私と一緒に…」
その瞬間、私は得体の知らない恐怖と対峙する事を余儀無くされた。
恐ろしい何かが取り巻いているような錯覚に襲われ、心臓はバクバクと高鳴り、空気中の酸素を上手く取り込めなくなった。
息が、苦しい、怖いッ!!
全身のありとあらゆる場所から汗が溢れ出し、寒気がする。
唇が震え、無意識にパクパクと動く。
「あ、ぁあ…、あ…」
助けを求める声すら出ない。
その代わりに目には涙が溢れ出て、視界は白黒にぼやけた。
「桜丘さん?」
涙で曇ってシルエットになった彼は右手を伸ばした。
その大きな右手が私の左手に触れた瞬間、指先が私の肌に触れる感覚が、ある筈の無い過去の記憶が蘇る。
物凄い力で手を引っ張られ、グーで顔を殴られ、身体中を蹴られ続けた、受けた事が無い筈の暴力による痛み。
痛い、痛い、痛い、痛い!
その存在しない筈の記憶が、激しい痛みが全身に広がり、私の意識を覆い尽くしていく。
その中からボンヤリと浮かび上がって来たのは大きな身体、ゴツゴツとした手、赤茶色くてボサボサな髪、鋭い目つき。
何度も私を殴り、怒鳴り、全てを滅茶苦茶にした彼の姿。
彼は、もしかして…。
「ぃ、ヤダぁッ!!」
その男の正体が分かった途端、私は悲鳴を上げていた。
恐怖に震えながらも力いっぱい男の手を振り払い、1歩2歩と身を引いた。
「どうして…?」
巨大な男の影は一瞬怯んだ後、静かに呟いた。
その言葉には混乱と疑念が交じり合っていた。
それでも男は、私に触ろうと歩み寄ろうとする。
「止めて!お兄ちゃァんッ!!」
私は嗚咽を堪えながら必死に叫んだ。
私には存在しないものと思っていた兄。
会った事も見た事も無い彼を兄だと思うのはおかしいけど、私は本能的に兄だと認識した。
身体が覚えていると言わんばかりに、兄という存在から受けた痛みと恐怖を感じる。
嫌だ、怖い、怖い、怖い、怖いッ!!
逃げなくちゃ!!
私は兄に背を向けて走り出した。
恐怖で脚が震えて思うように走れないけれど、早く逃げなきゃ、もしも捕まったら、また殴られてしまう!
そんなの嫌、怖い!!
デコボコとした地面はザクザクと音を立てながら必死に走って彼との距離を広げる。
校舎の裏口まであと数メートル。
絶望から逃げ切る事が出来るかもしれないという希望が私を突き動かしていた。
が
「待って、私はお兄ちゃんじゃない……、女なのよォッ!!」
妙に高い声が私の背後で響いた。
男の子が女の子の真似をする時に出すような無理した裏声が。
「え?」
どういう事?
私は思わず立ち止まり、振り返ってしまった。
勢いで涙が吹き飛び、視界を覆っていたモヤモヤが晴れた。
いつの間にか景色は真っ赤に染まっていた。




