双子座の優等星⑬
もう何度目だろうか。
清純なる白で満たされていた空間の中で、私は背を上にしたまま流れる空気に身を任せた状態で漂っていた。
その真っ白な空間はまるで快晴時の雲の中のようだった。
空間の中には何も存在せず、ただ純粋な白が広がっているだけだった。
それは本当に白い空間なのか、私の微睡みで視界が霞んでいるせいなのかどうかは分からない。
時間と空間の壁を越えているような感覚に陥っていた。
この白の世界は、無限の世界の果てに広がるかのような感覚を抱かせ、私自身も無限の時の一部となっているような気持ちだった。
真っ白な空間が延々と続いており、次の世界へ引き込もうとしているかのようだった。
しかし、白い無の空間は長くは無くは続かず、やがて真っ白な空間は徐々に変化し始めた。
白は暗闇に侵食されていき、湿った鉄の臭いが鼻を突き、身体の重力や平衡感覚も取り戻していく。
頭は上に、足は下に、ようやく直立状態になり、地に足が着いた感覚を得てから私はゆっくりと顔を上げる。
目の前に広がるのは、穢れた夜の保健室だった。
床や壁を汚した赤い液体は酸化して暗い色へと変色し、暗闇に溶け込むような影が広がっている。
体感時間が長い選挙で忘れていたが、今の保健室は癒しと安らぎの象徴から闇と恐怖の巣窟へと変わり果てていた。
現実の世界に戻ったのだ。
私自身も、戦闘用の黒い法服と金色の短髪ではなくなり、いつもの白い制服と結い上げた茶髪に戻っていた。
息が切れ切れになりながら、私は命からがら逃げてきた。
胸の中で鼓動が響き、熱くなるのを感じる。
この肉塊が散らばる血塗れの空間であるのに、私は生きている事を実感する。
先程まで自分自身で生存確認をしなければならない程、生きた心地がしなかった。
その代わり、今回の選挙で分かった事がいくつかある。
今まで選挙で使われていた映像は過去実際に私が経験した事。
過去に幾度か選挙が行われ、私はその度に殺された事。
謎の少女が星喰いを呼び出し、幻想町を破壊した事。
私に現実を見せた彼は少女に妨害されている事。
そして、それを止めるには
「セバリゴノ、ドミノ…?」
私は彼が最後に放った言葉を確かめるように声に出す。
それは一体、どういう事なのか?
言葉の意味どころか、物なのか、者なのか、それすら分からない。
考えても仕方が無い。
もしかしたら何かの暗号か異世界の言葉かもしれない。
朝が訪れたら図書室に足を運んで調べる必要があるだろう。
そこには知識の海が広がっており、この言葉の謎を解く手がかりが隠されているかもしれない。
本当ならば1分1秒でも早く調べなければならない。
しかし暗くなった今、図書室は施錠されており、鍵を開けるには図書係である缶我さんの許可が必要だ。
まぁ、私は星徒界長なのだから、無理なお願いをしても聞いてくれるからそれに関しては心配は不要だ。
ただ、今は非常に心身共に疲れている。
流石に今から呼び出し、図書室にある膨大な資料からセバリゴノドミノについて調べる体力も気力も残っていない。
明日、信用出来る星徒を複数人連れて調べた方が効率が良い。
ふと、ベッドとベッドの間の壁に掛けられている丸時計に目を向ける。
縁に飛び散った血が付着しているが、秒針は狂いもなく正常に時を刻んでいる。
時刻は9時55分。
選挙会場と幻想町は別空間であるが、時の流れは変化しない。
それでも緊迫した状況が続いていたせいか体感時間は非常に長く、てっきり0時を超えているのかと思っていた。
他の星徒達はとっくに夕食を終え、各自思い思いに過ごし、就寝の準備をしている頃だろう。
私も明日に備えなければならない。
腰のポケットから眼鏡を取り出すと両方の指先で丁寧に弦を広げ、透明なレンズを掛ける。
私の視力は歩行が困難になる程に悪い訳ではない。
ただ、現実を直視する事が出来ず、レンズ越しで見ることで少しでも現実逃避を図っているのだ。
この眼鏡は正に仮面のようなものだった。
心の中の迷いや不安を隠すための心理的なバリアとしても役立っている。
それが実際に何かを変える訳ではない事は分かっているが、少なくとも何も持たずにいるよりはマシだと思える。
眼鏡が顔に吸い付くような感覚がする。
この小さな道具が私に与えてくれる、一時的な現実の逃避手段。
それに頼らざるを得ない自分が少し哀しくなるが、それでもこの地獄のような世界に住む私にとっては心強い味方なのだ。
保健室の空気は冷たく、重苦しい沈黙が漂っている。
私は窓からぶら下がっている影に歩み寄る。
カーテンが開けられた窓のレールから1本のロープが掛けられ、ひとりの小柄な少女が首を吊った状態で静かに揺れていた。
右に赤いリボン、左に青いリボンのツインテールの少女。
叉武。
月明かりに照らされた彼女は頭を前に倒し、宙に浮いている足をピンと伸ばし、右手を左肩に、左手を右肩に置いた状態で硬直して死んでいた。
その姿はまるで月へ翔び立とうとする幼い天使のようだった。
先程まで生命のやり取りをした相手。
あれだけ騒がしかった少女が涙痕を残し静かに眠っている。
唇が歪み、端から唾液が漏れ出て顎から滴り落ちる。
そんな姿を見ていると不思議と哀れな気持ちになってしまう。
「選挙に落選したのは可哀想なので、玉響さんの後追い自殺という事で報告します。」
せめて彼女の名誉を守ってあげようか。
そう余計な事を考えてしまい、もう聞こえないと分かっていながら私は彼女に声をかける。
彼女の姿を見つめながら、胸に積もる感情がひとつに纏まらない。
周りからは気味悪がられていた中、私だけが彼女の苦しみと孤独を知っているつもりだった。
私だけが彼女に寄り添い、理解しようとしたが、私の努力は虚しく、彼女は暴力と嘘で何度も私を苦しめ続けた。
結局この少女は、選挙の時にもうひとりの人格を生み出したせいで、現実でも自分を双子だと思い込んで……
「違う、貴女達は、本当に双子……、右里亜と左里亜。」
結局私は、この世を去るまで彼女達を理解出来ていなかった。
私は他の人と違って真面目に接していたが、彼女達を彼女として接していた事が逆に彼女達を傷付けていたのだ。
彼女達は死の瞬間、互いの名を呼び合っていた。
今でも鮮明に思い出す最期の瞬間。
誰からにも理解されなかった彼女、彼女達はこれまでずっと何を思っていたのだろう。
私は双子の死体を見つめながらあれこれ考えている内に、もはや勝者と敗者という枠組みが意味をなさなくなっている事に気付く。
選挙という戦いが終わり、彼女達が息を引き取った今、私の内側に芽生えた思いが、生き残る事に対する罪悪感である事を理解する。
急に深い後悔と、処刑直後に全く感じなかった罪悪感が襲って来る。
私は生きる意味を見失いそうになった。
無残な現実に直面し、彼女達の命を奪った自分自身を呪い責め始めるようになる。
この悲劇を回避出来なかったのだろうか、彼女達の代わりに私が犠牲になるべきだったのではないのか?
胸が痛く、息が詰まるような感覚が私を襲う。
私はそれ等の衝動から逃げる為、部屋の扉を駆け出し、私は保健室を後にした。
狭い廊下を駆け抜ける足音が、まるで心の鼓動のように響き渡る。
今更自分がした行為に対する後悔と罪悪感が、心の奥深くに刻まれるようだった。




