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セラバモ 〜セバリゴノ・ドミノ〜  作者: ロソセ
クモ座の劣等星
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クモ座の劣等星⑧

月明かりを頼りに、急な坂を駆け下りる。

冷たい夜風が頬を撫で、足音がコンクリートに軽く響く。


紅い鳥居の下をくぐり抜け、シャッター通りの商店街を突っ切る。

閉じた鉄のシャッターが月光に鈍く光り、まるで眠る街の骨組みのようだ。


もう一つの大きな紅い鳥居をくぐると、ようやく見えてくる――私の家。


月光に照らされた家は、素朴でどこか寂しげだ。

古びたレンガの壁が四方を囲み、苔の緑が隙間に滲んでいる。

平屋の箱のような建物は、窓が少なく、バルコニーも三角屋根もない。


まるで時間を忘れた箱舟のよう。

いつものように、茶色い木製のドアが静かに佇み、私の帰りを待っているかのようだ。


「あれ?」


玄関のすぐ左、芝生の庭に異変を見つける。

ベッドほどの広さの地面が不自然に掘り返され、草がむしり取られている。

真ん中に、細い木の枝が一本、まるで墓標のように突き刺さっていた。

月光に照らされたその枝は、かすかに揺れているように見える。


「誰かのイタズラ? モモカの仕業かな?」


胸の奥で小さくざわめく不安を振り払い、取りあえず家の中を確認しようと決める。


「ただいま〜…」


玄関のドアを押し開け、薄暗い室内に滑り込む。

パチンと電気を点けると、柔らかいオレンジ色の光が狭い玄関を照らす。


黒いローファーを脱ぎ捨て、バタバタとリビングへ向かう。

靴音が木の床に軽く反響し、静寂を破る。


「ただいま〜!」


リビングのスイッチを入れると、部屋がパッと明るくなる。


だが、目に入った光景に一瞬息をのむ。

テーブルの上、ソファの上、床の隅々に、色とりどりの風船が散乱している。


赤、青、黄色――まるで花火の残骸が部屋に降り積もったようだ。

特に赤い風船が目立ち、どこか椿の花を思わせる不気味な鮮やかさで揺れている。


「モモカ〜、ご飯だよ〜?」


風船を掻き分け、モモカを探す。

ゴムが擦れるモコモコとした音が、静かな部屋に妙に響く。


胸の奥で、椿緋女の赤い唇やゲンソウチョウの蝶がちらつくが、すぐに頭を振って追い払う。


「にゃあ…」


部屋の隅、暗がりから大きな黒い影がゆっくりと現れる。

頭は黒く、身体は茶色のボサボサの毛に覆われた猫の女の子――私の唯一の家族、モモカだ。


月光が彼女の大きな吊り目に反射し、緊張と好奇心が混ざった光を宿している。


「ただいま、モモカ。遅くなっちゃったけど、ご飯だよ。」


しゃがんだまま、ポケットから白い紙袋を取り出し、モモカの前にそっと置いて中身を見せる。


「今日は花火大会があってね、屋台でフランクフルトを貰ってきたんだ!」


モモカは大きな目で紙袋を覗き込む。

一昨日まで警戒していた彼女が、今日はわずかに鼻を動かし、興味を示している。


だが、身体が微かに震えているのが分かる。

まるで、部屋に漂う見えない何かを察しているかのように。


「出来立てで、ケチャップたっぷりだよ。お食べ。」


紙袋には、拳ほどの太さのソーセージが真っ赤なケチャップにまみれて詰まっている。

赤があまりにも鮮やかで、一瞬、椿緋女の血染めの長襦袢が頭をよぎる。

慌ててその考えを振り払う。


モモカは鼻先でフランクフルトをクンクンと嗅ぎ、ゆっくり舌を伸ばして一口かじる。弾力のあるソーセージを前足で押さえ、ガジガジと小さく噛みちぎっては飲み込む。


彼女の食欲旺盛な姿に、私はほっと微笑む。


「いっぱい食べて、大きくなるんだよ、モモカ。」


モモカがこうやって元気に食べているのを見ると、今日の全て――学校の冷たい視線、椿緋女の恐怖、花火の美しさ――が遠い夢のようだ。



「さて、お風呂入って寝なきゃ。」


モモカをそのままに、リビングの灯りが漏れる短い廊下を渡る。

冬の夜の冷気が廊下にまで忍び込み、肌を刺す。

洗面所とお風呂場は、家の奥にひっそりと佇んでいる。


お風呂場はひんやりと冷たく、吐く息がかすかに白い。

私は服を脱ぐ前に浴槽の蛇口を捻る。ゴーッと勢いよくお湯が流れ出し、湯気が立ち上る。


踝までお湯が溜まったところで、黄色い粉をそっと注ぐ。


たちまち、みずみずしいレモンの香りが弾けるように広がった。

まるで夏の庭でレモンを摘んだような、爽やかでほのかに甘い香り。

湯気に乗って、冷えたお風呂場を温かく満たしていく。


「今日はレモンティーの香り、だね。」


制服を脱ぎ、シャワーで身体を洗う。

温かい水が肌を滑り、湯船から漂うレモンの香りが心の奥まで染み込む。


学校の重い空気、保健室の不気味な蜘蛛、椿緋女の赤い唇――全てがこの香りに溶けていく気がする。


髪と身体を洗い終える頃、浴槽のお湯はちょうど半分より少し上まで溜まっていた。


黄金色の湯船に肩まで浸かると、ボワッと湯気が立ち上る。

レモンの爽やかさと紅茶の深みが混ざり合い、身体の芯からポカポカと温まる。


私は両手をゆっくり動かし、パシャ、パシャと小さな水しぶきを立てる。


「ああ、気持ちいい…」


だが、安心感に浸った瞬間、胸の奥から不安と寂しさが這い上がってくる。


学校での孤立、選挙の重圧、行方不明者の噂――全てが一気に押し寄せる。


まーちゃんと花火を見たあの幸福な瞬間が、まるで遠い幻だったかのように。


「皆、なんであんな目で私を見るんだろう…」


きっと、行方不明者が増える不安を、誰かにぶつけたいだけだ。

選挙が終われば、みんな元に戻るかもしれない。

それまで、ちょっと我慢すれば…。


「大丈夫、私にはまーちゃんがいる。」


まーちゃんの笑顔を思い出す。あの優しい声、どんな時も希望をくれる言葉。

彼女がいるなら、どんな辛いことでも乗り越えられる気がする。


ふと、狭い窓から冷たい風が吹き込む。


顔を上げると、窓の向こうに真っ黒な夜空が広がっている。

ほのかに黄金色に輝く満月と、無数の星々がキラキラと瞬く。

まるで小さな火花が空を舞い、ゲンソウチョウの赤い蝶のように揺れている。


浴槽の縁に手をかけ、身体を伸ばして夜空を見上げる。

冷たい空気が頬を撫で、星の光が胸の奥に不思議な温かさを灯す。

この広大な宇宙の一部であることを感じると、学校の小さな悩みや選挙の重圧が、急にちっぽけに思えてくる。


「今日は楽しかったね。明日はもっと楽しい一日になると良いね。」


まーちゃんの言葉が、星空とともに響く。

どんなに辛いことがあっても、彼女はいつも笑顔で前を向かせてくれる。


だから私も、どんなに悲しくても、どんなに怖くても、明日を信じて生きていきたい。


ふと、頭に浮かんだのは、私だけの「名言」。


「今日も平和でウレピーマン! 明日はもっと幸せキボンヌ!!」


その言葉は、星空に向けた私の叫びであり、願いだった。

心の底から湧き上がる希望が、冷たい夜を温かく照らす。

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