クモ座の劣等星⑥
先に手を出したのは椿緋女だった。
雲の上に浮かぶ彼女が左手をまーちゃんに向け、鋭く突き出す。着物の袖口から白い絹糸の束が、まるで生き物のようにうねりながら飛び出した。
それは私を縛る糸と同じ、絡めば逃れられない強靭な繭糸だ。
「まーちゃん!」
あの糸に捕まったら終わりだ!
まーちゃんは飛来する糸を右に軽やかにかわし、一歩後退。
椿の花びらが敷き詰められた不安定な絨毯の上で足を踏ん張ると、軽く地面を蹴り、その反動で椿緋女へと突進した。
花びらが舞い上がり、彼女の動きに華を添える。
椿緋女はまーちゃんの猛進を見て、真っ赤な唇を歪め、毒々しい笑みを浮かべた。
次の瞬間、彼女は雲の中へとスッと潜り込む。雲が霧となって瞬時に拡散し、跡形もなく消えた――かに見えた。
だが、まーちゃんの背後で空気が揺らぎ、椿緋女が音もなく出現。
まるで空間を切り裂いたかのような移動だった。
まーちゃんは鋭い気配を察知し、振り返るや否や、椿緋女が両手を振り上げた。
袖口から白い糸が凝縮された球体となって連続で噴射される。
バシュッ、バシュッ!
空気を切り裂く音が響く。
まーちゃんはヒラリヒラリと蝶のように舞い、右へ左へ、バックステップで攻撃をかわす。
糸の球は地面に着弾するたび、椿の花びらを粉砕し、小さな爆発のような衝撃波を起こした。
彼女は一瞬の隙を見逃さず、左手で近くの椿の細枝をパキリと折り、ヒュンッ! 鋭い音を立てて椿緋女へ投げた。
椿緋女は雲ごと宙に飛び上がり、枝を回避。
だが、それはまーちゃんの罠だった。
彼女は同時に跳躍し、椿緋女と同じ高さまで舞い上がる。空中で身体を左に大きく回転させ、右脚を鞭のように振り抜く。
強烈な回し蹴りが炸裂!
「グハッ!」
革靴の踵が椿緋女の腰帯に直撃。
衝撃で彼女は雲から弾き出され、グルングルンと右回転しながら椿の絨毯に叩きつけられた。
花びらが舞い散り、地面がわずかに揺れる。
「ぅ、カハ…ッ!」
長い黒髪が首に絡み、紅白の着物が乱れる。
吐き気を堪えながらも、椿緋女はよろめくことなく即座に立ち上がる。
右手を振り上げ、白い糸の束をヨーヨーのように伸ばしてきた。
糸は空気を切り裂き、鋭い音を立ててまーちゃんに迫る。
まーちゃんはジャンプで糸を回避すると、驚くべきことに糸の上に着地。
まるで綱渡りの達人のように、揺れる糸の上を軽やかに走り、一気に間合いを詰める。
椿緋女の瞳が驚愕に見開かれるが、まーちゃんは止まらない。
目と鼻の先まで迫ると、クルンッと前方宙返り。
その勢いのまま、脳天に向かって踵落としを叩き込んだ!
バキィッ!
椿緋女は顔面から地面に激突。衝撃で花びらが爆発的に舞い上がり、地面に小さなクレーターができる。
そして、彼女はそのまま動かなくなった。
「まーちゃん、すごい!」
私は心の中で歓声を上げ、拍手する。
あんなアクロバティックでカッコいいまーちゃんを見たのは初めてだ!
まーちゃんは綺麗に着地し、うつ伏せに倒れた椿緋女を見下ろす。
彼女の閉じた目には、鋭い光が宿っていた。
ゆっくりと右足を上げ、椿緋女の頭部に――
グシャッ!
私は思わず目を逸らした。
だが、聞こえたのは紙を丸めて潰したような、軽すぎる音。
違和感に駆られ、恐る恐る視線を戻す。
まーちゃんが踏み潰した頭部は粉々に砕け、着物の内部は空っぽ。
断面には何もなく、まるで抜け殻だった。
「脱皮!?」
その瞬間、背後の椿の花々が盛り上がり、真っ白な長襦袢姿の椿緋女が飛び出した!
彼女の動きは蛇のように滑らかで、両手から放たれた無数の糸がまーちゃんを瞬時に絡め取る。
「まーちゃん!!」
まーちゃんは肩を振って抵抗するが、ミシン糸のように細く強靭な糸が全身を締め上げる。
頭のてっぺんからつま先まで、蜘蛛の巣に囚われた蝶のように絡みつかれ、身動きが取れなくなる。
「まずは貴女から頂きます。」
椿緋女は冷たく囁き、糸を操ってまーちゃんを繭状に包み込む。
両腕を左右に振ると――
バキバキィッ!!
木の枝が折れるような不気味な音が響き、繭が一回り小さくなった。
「まーちゃん!!」
私は叫ぶ。中で何が起こっているのか、想像するだけで心臓が締め付けられる。
バキバキッ!!
繭はさらに縮み、枕五個分ほどの大きさに。椿緋女は糸を操り、繭を引き寄せると、両腕で優しく抱きかかえた。
まるで赤子を抱く母親のような、穏やかで不気味な微笑みを浮かべている。
私はその光景に一瞬でも安心を感じた自分を呪った。
彼女は真っ赤な唇を開き、白く鋭い犬歯を剥き出す。
そのまま繭に勢いよくかぶりついた。
顔は繭に埋もれ、椿の花よりも濃い鮮血が口元からドロドロと溢れる。
ゴクゴクと喉が膨張と収縮を繰り返し、鮮血は長襦袢を真っ赤に染めていく。
「まーちゃん!!」
繭は萎み、バレーボールほどの大きさにまで縮む。
このままじゃ、まーちゃんが消えてしまう!
私は必死に身体を動かそうとするが、糸に縛られた手足はピクリとも動かない。
焦りと恐怖で涙が両目から溢れ、左のこめかみを伝う。
「大丈夫」
小さくなった繭から、まーちゃんの優しい声が聞こえた気がした。
「此処は、ヒキちゃんの世界だから」
それはピンチの時に必ず響く、まーちゃんの魔法の言葉。
私の心に火を灯す合図。
繭から、椿の花よりも鮮やかな紅い光が放たれる。それはまるで脈動する心臓のように、力強く輝いていた。
「まーちゃん…」
私がその光に目を奪われていると、繭はさらに縮み、茹で卵ほどの大きさに。
椿緋女はそれを親指と人差し指で摘み、顔を上に向け、口を開く。
紅い光を放つ小さな繭を、彼女は躊躇なく口に放り込んだ。
ヌチャ、ジュプッ……ゴクリ。
湿った音とともに、まーちゃんだったものは彼女の喉を滑り落ちた。
椿緋女は舌で口元を舐め、両手で腹をゆっくり撫でながら、満足げに目を閉じる。
「次は私の番だ…!」
恐怖が全身を駆け巡る。
何とかしなきゃ!
私は拘束された両手をギュッと握り、目を強く閉じて念じた。
「思い出して、昨日のこと!」
今度はもっと具体的に、強く願う。
「飛べ! 飛べ! 飛べ! この拘束から解き放て!!」
ヒュ〜ゥ…
どこからか、甲高い風の音が響く。
まるで悲鳴のような、歌うような旋律。
「また、口ずさめばいいのかな?」
静かで、どこか懐かしいメロディー。
「夏の遠い夢の中、君がいた」
昨日は大空を思わせる軽やかな音だったが、今日は暑い夏の記憶や、夜の闇に隠された悲しみを呼び起こすような、深い響きを持っていた。
ピューゥ、ルー、ヒュルリ、ピュー、ヒュルリ…
風が反応する。
その音は心の奥に染み込み、遠くで失われた魂が呼びかけるような哀しみを帯びていた。
胸が締め付けられるけど、私は音を拾い続ける。
「空に打ち上げられ消えていった」
ピューゥ、ピュー、ヒューゥ…
「はぁ〜なあ〜びぃい〜」
風と一体になるよう、声を張り上げて歌う。歌声は風に乗って遠くへ響き、まるで空を旅する鳥のようだった。
ワンフレーズだけなのに、歌うと心が軽くなる。
やっぱり歌はいいな、としみじみ思う。
風の音が静かに止んだ。
「これで終わり? まだ続きがあるのかな?」
ふと、身体が軽くなる感覚。
糸の拘束がわずかに緩んだ気がする。だが、同時に背筋に冷たいものが走る。
椿緋女がこちらを見ていた。
彼女の瞳は、まるで獲物を値踏みする蛇のようだった。