クモ座の劣等星⑤
◇◇◇
キーコーン、カーンコーン…
「ひぃ~きぃちゃんっ!」
チャイムの音と、柔らかくて温かい声。
私の名前を呼ぶ声に、重いまぶたをゆっくり開ける。
眠りから覚めたばかりで、頭がボーッとする。
保健室は、微かな光に包まれてる。
白いカーテン、硬いベッド、静かな空気。
まるで夢の中に浮かんでるみたい。
視界がぼんやりして、どこにいるのか一瞬わからなくなる。
左側から声がする。
体をそっちに傾けると――そこに、彼女が立ってる。
サラサラの黒髪が、窓の光を受けてキラキラ光る。
私と同じ制服なのに、なんか純白に見える。
ヒラヒラ揺れるスカート。
両目を閉じた顔は、まるで天使みたいに穏やかで、優しさに満ちてる。
ぼんやりした視界の中で、彼女を見つめる。
その声、その存在感。
まるで幻が作り出したみたいに、美しい。
胸が、キュッと締め付けられる。
え、ここ、天国?
思わず、そんなバカなこと考える。
「ヒキちゃん、こんにちは!」
まーちゃんの声が、今度はハッキリ聞こえる。
意識が少しずつクリアになって、彼女の姿もちゃんと見える。
天使でも女神でもない。
目の前にいるのは、間違いなくまーちゃん!
「まーちゃん!」
やったぁ!
まーちゃんとわかった瞬間、心がパッと花火みたいに弾ける。
天国に昇ったみたいに、胸が温かくなる。
まーちゃんが来てくれた! めっちゃ嬉しい!
まだ眠気が残ってるけど、心の中で大歓声。
「ヒキちゃんに会いたくて、来ちゃった。」
まーちゃんがニコッと笑って、黒いローファーをポイッと脱ぐ。
ためらいゼロで、私のベッドに上がってくる。
そして同じ毛布に、するっと入ってくる。
まーちゃんがすぐ隣にいる。
まるで恋人になったみたいな、ドキドキする距離。
顔、めっちゃ近い。
まーちゃんの顔、いつも見てるはずなのに、こんな近くで見ると、改めてキレイ。
両目を閉じたままのまーちゃん。
こんな角度で見るの、初めてかも。
おでこの縦の傷がなかったら、完璧な美少女。
「ヒキちゃん、またみんなから嫌なこと言われた?」
まーちゃんが、桜色の唇をへの字に曲げて、ちょっと心配そうに聞く。
私の顔、チラッと見て、全部お見通しって感じ。
「うん……でも、なるべく聞かないようにしたから、大丈夫……。」
そんな面白くない話なのに、つい小さく笑っちゃう。
でも、こうやって保健室にいる時点で、バレバレだよね。
あんなに人がいるのに、私だけ仲間外れ。
ひどい言葉の嵐、浴びせられ続けるの、ほんとキツい。
「まーちゃんが同じクラスだったら、よかったのに……。」
ずっと心の奥で思ってたこと、ポロッと口に出ちゃう。
でも、本心じゃない。
他の人、みんないらない。
まーちゃんだけでいい。
ボゥンッ!
「わっ?!」
突然、ビニール袋が破れる、鈍くてデカい音。
ビックリして、思わず目を閉じる。
目を開けると、まーちゃんが、顔くらいデカいビニール袋をバリッと真っ二つに破ってる。
中から、白い綿みたいなのがチラッと見える。
「ヒキちゃん、悲しいときは、甘いもの食べるのが一番よ!」
まーちゃんが、袋からふわっふわの綿飴を取り出す。
私の鼻先に、グイッと差し出してくる。
「うわ、綿飴! 超久しぶり!」
雲をちぎったみたいな、真っ白でふわふわな綿飴。
香ばしい砂糖の甘い匂いが、ふわぁっと広がる。
まだ食べてないのに、口の中でじゅわっと唾液が溢れる。
ゴクッと飲み込む。
「さ、どうぞ!」
「じゃ、いただきまーす!」
毛布の中でお菓子なんて、めっちゃ行儀悪いけど、まーちゃんから右手で受け取った瞬間、そんなのどうでもいいや!
大きな口開けて、ガブッとかぶりつく。
口に入れた瞬間、ふわっとした綿飴が、ザラッとした細かい食感に変わる。
舌に触れると、シュワァッと溶けて、砂糖の甘さが口いっぱいに広がる!
「甘っ! めっちゃ美味しい!」
ちょっと甘すぎて、口がイガイガするけど、このストレートな甘さが、なんか笑顔を引き出す。
ニコニコが止まらない!
毛布の中で、綿飴の甘い香りがふわっと漂う。
温かい空気が、私をそっと包み込む。
幸せな気持ちが、体中にじんわり広がる。
甘いものって、ほんと元気くれるんだね。
「じゃ、そろそろ遊びに行こっか!」
まーちゃんが、穏やかな笑みで私を見る。
ゆっくり上体を起こして、ベッドからスルッと滑り降りる。
ちょっと屈んで、靴をサッと履く。
振り向いて、右手を差し出す。
その瞬間――
「私は、セイトカイセンキョに、立候補します。」
まーちゃんでも私でもない、低い女の声。
天井から、ドンと響く。
周りの景色が、一瞬、真っ黒に飲み込まれる。
次の瞬間――赤、朱、茜、紅、真紅、濃紅。
真っ赤な椿の花が咲き乱れる木々に、ぐるっと囲まれる。
「な、なにこれ!?」
毒々しい赤一色の世界。
なんか、めっちゃ悪いことが起きそうな気配。
ゾッとして、ベッドから飛び起きようとする。
でも――動けない。
いつの間にか、白い毛布が消えてる。
体が、椿の花と花びらに埋もれてる。
頭以外、全部赤い花で覆われてる。
手足を動かそうとすると、なんか引っ張られる。
「ヒキちゃん、今助けるわ!」
まーちゃんが、私の異変に気づく。
両腕で、椿の花をガサガサ掻き分ける。
そしたら――白い絹糸みたいな束が、私の手足に絡みついてる。
左半身を下にしたまま、ガッチリ固定されてる。
まーちゃんは私を助けようと手を伸ばす。
でも、急にピタッと止まる。
何かを感じたみたいに、私に背を向ける。
遠くに、なんか浮いてる。
霧?
いや、固まって見える。
雲?
椿の絨毯が続く先、空から白い雲がスーっと飛んでくる。
ベッドくらいの小さな雲。
その上には、赤い椿色の着物を着た女の子。
真っ黒で、まーちゃんより長い姫カットヘア。
直立したまま、遠くから私たちを見下ろしてる。
雲が近づく。
彼女の髪に、椿の花の髪飾り。
おでこの左右に、白い牙みたいな角。
「まさか、貴女がヒキちゃんを……。」
まーちゃんの声、ピリッと鋭い。
「私はクモ座のレットウセイ、玉響椿緋女。」
雲の上の少女、椿緋女。
さっきの低い声で、ゆっくり名乗る。
「選挙に当選するために、貴女たちの命をいただきます。」
彼女の切れ長な紅い目が、ギラッと細まる。
真っ赤な舌が、チロッと出て、光沢のある紅い唇を舐める。
艶やかで、人間離れした仕草。
普段ならうっとりするけど、今は――ただの恐怖。
「名乗られちゃったら、仕方ないわね……。」
まーちゃんが、小さくため息。
私の方に、チラッと振り返る。
「まーちゃん!?」
驚く私に、まーちゃんが、安心させるようにニコッと笑う。
でも、その笑み、なんか少し悲しそう。
「大丈夫よ、ヒキちゃん。」
「まーちゃん……。」
突如、昨日のことが頭にフラッシュバックする。
まーちゃんの首、刃物で切られた瞬間。
真っ赤な血。
もし、また怪我したら――いや、死んじゃったら。
でも、まーちゃんの「大丈夫」。
今まで何度も、その言葉に救われてきた。
どんなピンチでも、絶対守ってくれる。
だから、私、まーちゃんを信じる!
大きく頷く私に、まーちゃんが、右目だけキュッと閉じる。
彼女なりのウインク。
そしたら、いつもの穏やかな顔に戻る。
再び、椿緋女の方へ体を向ける。
「私はアンドロメダ座のユウトウセイ、蝶想幻子。」
まーちゃんの声、凛々しく、堂々と響き渡る。
初めて聞く、まーちゃんのフルネーム。
隠してたわけじゃないけど、こんな風に名乗るの、初めて。
ついに、その時が来たんだ。
「ひとりで挑むつもりですか? レットウセイ相手だからって、甘く見られたものですね。」
椿緋女の声、悪意にギトギト。
空気を切り裂くみたいに響く。
「ヒキちゃんを拘束しておきながら、よく言うわね……。」
まーちゃんの声、嫌悪感たっぷり。
ゆっくり、私から離れて、椿の絨毯に足を踏み入れる。
「私も、セイトカイセンキョに立候補します。」
その言葉は――戦いの合図だった。