ナメクジ座とヒル座の劣等星①
その海は天地をひっくり返した空だった。
深海の闇に包まれたその海は、広大で静寂に満ち、暗い水の奥に幾千もの星のような生命が瞬いていた。
宇宙のような神秘と静けさが広がる、暗く深い世界だった。
ある日、その海底の闇から一筋の光が生まれた。
太陽の光は仄暗い水を青く透き通らせ、無数の粒子が微かな輝きを放ちながら空を泳いだ。
それは動く天の川のように揺らめき、波打つ光が地上を明るく照らした。
そんな海に最も近い、灰色のコンクリートが広がる殺風景な場所。
膝まで届く長い黒髪の少女は、両手を口元に当て、背中を丸めて肩を震わせていた。
ヒュウゥゥ…
冷たい風が吹き抜けるたび、白いワンピースのスカートと黒いリボンタイが揺れる。
青白い唇と血色の悪い手足は小刻みに震え、口元から白い吐息が漏れた。
ここは学校の屋上。
常に開放されているが、この時期、余程の理由がなければ誰も足を踏み入れない。
町で最も高いこの場所は、海の空を視界いっぱいに望める一方、凍えるような風が吹き荒れ、潮と湿った鉄の匂いが漂う。
少女はそれを知りながら、敢えてこの場所で人を待っていた。
長い睫毛を閉じ、青白い顔をさらに白くさせ、寒さに耐えながら。
「珍しいね、君が僕を呼び出すなんて。」
右から穏やかな男性の声が響く。
少女は震えをぴたりと止め、背筋を伸ばして声の主に顔を向けた。
現れたのは、少女と同じ背丈の少年だった。
白いシャツに黒いネクタイ、黒いベストと長ズボン。
前下がりの黒髪に、黄土色の肌。
紫がかった灰色の瞳を細め、口角を上げた微笑みを浮かべるが、その笑みはどこか表面的で、本心を隠していた。
「珍しいね、君が私の呼び出しに応えるなんて。」
少女は冷たくくぐもった声で返す。
紫がかった大きな瞳で辺りを見渡し、黒いローファーで灰色のコンクリートを音もなく踏みしめ、ゆっくりと少年に近づいた。
「だって僕も、同じことを考えていたから。」
少女が目前に迫ると、少年は軽く腰を屈め、ゆらりと右に避けて前進。
屋上の縁に立つ低い金属フェンスに背を預けた。
冷たい金網は音一つ立てず、静かに彼の体を受け止める。
涼しげな顔の裏で、少年は少女を見下していた。
だが、少女は慣れた様子で冷たい視線を返し、言葉を続けた。
「今朝、確信した。」
「やっぱりそうだよね。」
少女の呟きに、少年は即座に応じ、細い両腕を上げてのんびりと伸びをする。
短い会話で、二人は全てを理解していた。
そして、これからなすべきことも。
少女は深い溜め息をつき、白い吐息が青白い顔を包むように漂い、海のような空の彼方へ消えた。
「不本意だけど、一時休戦ね。」
「不本意だけど、仕方ないね。」
少年は少女の吐息を目で追い、海を見上げて見送った後、薄ら笑いを浮かべて頷いた。
「ところで君、わざわざ選挙会場に行ってるの?」
少年の言葉に、少女は左手にできた小さな火傷の痕を隠すように、スカートの後ろに手を回した。
「正々堂々と勝負して何が悪い。」
少女はボソボソと呟き、寒風に揺れる長い黒髪を白い右手で乱暴に押さえた。
「ふぅん、まぁいいけど。」
冷たい風が吹き荒れる中、少年は不釣り合いなほど気持ちよさそうに欠伸をした。
「でも、今回は選挙なんてしないんだから、僕の足手まといにならないでよね。」
フェンスに深くもたれながら、少年が言い放つ。
「そ、それはこちらの台詞!」
それまで淡々と話していた少女は眉を上げ、裏返った声で反論。
わざと大きな靴音を立てて少年の隣まで歩み寄り、ギョロギョロした瞳で上から睨みつけた。
だが少年は動じず、冷たい風にも、少女の敵意にも微動だにしない。
ただ、じっとりとした笑みを浮かべ、彼女を見上げた。
二人の睨み合いは長くは続かなかった。
彼らは覚悟を決めていたのだから。
少女は骨張った白い右手を差し出し、
「改めて、私は…」
キーコーン、カーンコーン
町中に響き渡る鐘の音。
少年は血色の良い黄色い手で少女の手を握った。
「僕は…」
キーコーン、カーンコーン
二人はフェンス越しに下を見下ろした。
校庭、正門、長い坂、商店街。
その先には小さな家々が密集し、緑と大きな紅い鳥居が点在する。
それ以外、何もない。
ここは幻の町、ゲンソウチョウ。
◇◇◇