東風が運んだ 朝焼けが滲んだ
どうしても、あの日が偲ばれた。理由はわかっていた。
訓練に明け暮れたこの場所がそうさせていた。
少し息が上がっていた。
だから、少しだけ休むことにした。
二つに割れた『腰掛岩』のうち座りが良い方に腰を下ろした。
よく見ると、体中が傷だらけだった。服には小枝が刺さっていた。
蜘蛛の巣や引っ付き虫もつけっぱなしだった。
それを一つ一つ剥がしながら、少しだけ『腰掛岩』を思い返した。
◇◇◇
その日は俺の十二歳の誕生日だった。
――ようやく『冒険者』登録できる日を迎えた。
――待ち焦がれ続けた一日だった。
――五歳の頃から七年間、木剣を振り続けてきた。
『よく見間違われる少女の誰よりも華奢』
『同世代の誰よりも背が低い』
『誰よりも非力』
それが『冒険者』を目指す上で、とても不都合だった。
――だから、我武者羅だった。
――だから、誰よりも努力してきた。
――だからその日の俺は……
(いや……『エリン』だ。主観的だと耐えられないかもしれない――)
◇◇◇
十二歳になる直前の少年『エリン』は『腰掛岩』の前で今日も素振りをしていた。
晩春は夜明けが早い。
とはいえ今はまだ薄闇に染まる明け方前だ。湖だけが月鏡となっていた。
夜釣りに興じるご隠居たちもいない。
花冷えの厳しい時分は姿を見せないからだ。
ここは静寂に包まれる月夜の湖畔だ。ここから五年前の『特別な今日』が始まった。
「ちょっと打ち込みすぎたな、少し休憩するか」
小さな呟きだった。それを合図にエリンは木刀を振るのを止めた。
そして自分よりも少しだけ上背のある『腰掛岩』に背を預けた。
――『腰掛岩』は光を纏っていた。
月光を白い岩肌に受けて周囲を幽かに照らしていた。
そして、大き過ぎた。その名の通り腰掛けるには無理があった。
だから毎夜、エリンは懊悩した。毎夜、全く同じ疑問混じりの感想を零していた。
「灯台岩かランプ岩が妥当だろうに」と。
『腰掛岩』は隠語だと大人たちは口を噤んでいた。
本当は『腰振岩』だった。
月夜は白いが、闇夜には何故か桃色に光った。丁度いい明るさで丁度いい雰囲気となる。
だから人が隠れて…………には丁度良かった。
だから誰もがエリンにはまだ早いと判断していた。
そんな事情は露知らず。エリンが『腰掛岩』を気にするのには理由があった。
それが自身の成長を映す鏡となっていたからだ。
大岩は変化しない。背比べの対象としては丁度良かった。
本人はそこに気がついておらず「何故か気になる」程度の認識だった。
その正体に気づかない理由は、現実に目を伏せていたからだ。
『いつまでも目線の高さが変わらない』
『少しだけ大きな存在がずっと追い越せない』その事実に。
エリンが成長に敏感になるのにも理由があった。
『よく見間違われる少女の誰よりも華奢』
『同世代の誰よりも背が低い』
『誰よりも非力』
それらは『冒険者』を目指す上でとても不都合だったからだ。
エリンは『今日』も同じ言葉を零していた。
「灯台岩かランプ岩が妥当だろうに」
それが『腰掛岩』に投げかける最後の言葉となった。
◇◇◇
「俺は人目を忍ぶ必要があった」と不意に言葉が漏れた。おかげで思い出せた。
『明け方にも早い時間』
『出歩く人などほとんどいない』
だからここじゃないとダメだった。
ギリギリのタイミングだった。これは重要なことだった。
「もっと人の目を気にすべきだったなぁ……今はどうだろうな……」
当時に比べてやや大きくなった手のひらを見つめているとため息が漏れた。
白磁のような肌だと思った。
「どれだけ日の光に当てたところで……染み一つ無いな。無骨とは言い難いか」
小枝のようだった細腕には多少肉がついていた。
だが『菜食主義』では太く逞しくはならなかった。
男らしさが備わっていないことが見て取れた。
「成長期はもう過ぎたろうな……」
それが非常に残念だった。
「こんなことなら……いや止そう。あいつらのお陰で五年ぶりに帰ってこれたんだ。どんなに美味そうな体つきしてても、だ……」
仲間のことを思うだけで少し気分が軽くなった。笑みが溢れた。
そうしてようやく『腰掛岩』から離れる決心がついた。だから立ち上がった――
「――痛っ」
突然動き出したから体中がチクチクした。
全身をくまなく確認したらあちこちが穴だらけだった。
まだ枝が刺さっているところまであった。
手慰みで気も漫ろだったから気づかなかった。
「……この格好はちょっとまずいか」
(着替える必要があるな)
そう思いながら尻に刺さった棘を抜いて歩き出す。だが数歩のところで足を止めた。
家族の顔が思い浮かんで気恥しさが浮上したからだ。
(行き先はギルドにしようか)
「そろそろ……いやまだ早いか……でもなぁ」
ただどちらも方向は同じだった。僅かな違いだが今の俺にはそれが必要だった。
『会ったら会ったで何とでもなるだろうけど』とは思いつつもそんな理由が無いとまともに顔を合わせ辛かった。
「あの時は家じゃなくギルドに向かってたなぁ」
と呟いたところで、すぐさま親友の姿が思い浮かんだ。
「わざわざ激励と誕生日プレゼント届けに来てくれたっけ」
ヤレヤレと肩をすくめた。だが感じ入るところがあった。
「そういえば今頃だったな。十二歳になったのは……ということは俺は今十七歳になってるのか……五年も何やってたんだろな」
心機一転の思いで山を駆け下りてきたものの右往左往していた。
『やはり立ち止まるべきではなかったか……』と少し後悔していたがなかなか振り払えない。
(こんな時には……)
仲間たちを思い浮かべてみた。心の中で皆が応援してくれていた。
(笑われないようにしないとな)
視線を上げる。前を向く。そして一歩前へ足を運ぶことにした。
――その時、前髪が寒風に揺れ、後に続く突風が穴だらけのシャツから流れ込んだ。
「さっ寒ぅ~」
あまりの冷たさに震え上がった。
(雪解けの湧水かよっ)
全身が震え、口元もカチカチと鳴っていた。口が言うことを聞かなかったから心の中で文句を言ってみた。ただこの風には心当たりがあった。そして心の中で何かが教えた。
『この季節、この時間には決まって『東風』が吹く』
その心当たりが俺をハッとさせた。
そして気づいた。当時はこの風を心待ちにしていたと。
――再び『東風』が吹きつけた。
二度目の『東風』があの日の光景を運んできた。
俺の意識は五年前の原風景へと運ばれていった。
◇◇◇
――『東風』は厳寒の山々を越えて来る。つまり冬の冷たさを晩春の湖畔に齎す。
それは蠢動する湖畔の動植物にとっては非常に有り難くない風だった。
だが、エリンはその冷たさこそが一番嬉しかった。
訓練で火照った体がそれを欲していたからだ。
――同時に各地の花とその香り、草木の囁きを運んできた。
エリンはこれを『至れり尽くせりな風』と呼んでいつも心待ちにしていたが『春』のごく限られた時間しか味わえないことだけが残念でならなかった。
訓練は単純作業の繰り返しだったが四季折々の嬉しい変化が絶えずあり『東風』はその最たるものだ。その『春の風』は訓練終わりに吹くことが多く、それを全身で味わってから家路に就くのが、この当時のエリンの『いつものこと』だった。
だが『今日』は違った。心待ちにしていたものは『春の風』ではなかった。
エリンは人心地ついてからもその場に留まっており、朝日が照らす湖面をじっと見つめて特別な『今日』に思いを馳せていた。
そしていつかの母の言葉を思い浮かべた――
『明け方すぐのことだったわ。エリンはね半日がかりの難産の末にようやくこの世に産まれてきたのよ。未熟児だったけれど逆にそれがとっても可愛かったわ』
それは十二年前のちょうど今頃を指していた。
『今日』が特別なのは十二歳の誕生日だからというのが一つ。
本命は――
「これでようやく『冒険者』になれる!」
子供特有の甲高い歓声が、朝霧の湖畔に響き渡った。
――エリンが何より嬉しかったのは『登録』できるようになったことだった。
ただ年を重ねるだけで誰でもできるようになることだが、五歳当時の幼心が『ソレだけじゃつまらない』とワガママを言った。
――それが原点となった。
以降のエリンは『ちいさなこだわり』をずっと大切に守り続けてきた。
だから歳月を経て『積年の想い』へと変わった。
その想いはいつしか『宿願』へと成長していった。
始まりは『きっと母と父が読み聞かせてくれた冒険者譚の英雄たちに憧れたからだ』と察しはついたが、憧憬の切っ掛けを推察したところでその先の目的までは思い出せなかった。
それは幼い頃からの『夢』をずっと持ち続けてきたからこその『ちっぽけなパラドックス』だ。本来なら『……を成すために』という目的が先に来て『騎士と冒険者になること』を手段にとする。だが『子供の夢』なのだ――その先が見出せないからその手前の『憧れ』が目的となる。そして押し出された手段が『漠然とした努力』となる。
それが『パラドックス』の正体だった。
だがエリンにとっては『努力』こそが無理難題で高く聳える壁だった。
だからその先が『ちっぽけ』なものと思えてならなかった。
エリンの『夢』は驚くほどに五歳当時のままだ。
誰もが抱く『子供の頃の夢』をずっと持ち続けた。
だが『夢』までの『道程』が誰とも違った。
――エリンが生まれながらに特別だったからだ。
誰よりも華奢で非力だった。体を強くすることが誰よりも困難だった。
誰もが息を呑むほどに愛くるしい容姿だった。皆がいつも過剰に時に偏執的に愛でてきた。
故に周囲の軋轢がとてつもなく強かった。
遍く人々は安息を得るために逸脱しない。
エリンが目指したのは安息とは程遠い世界だった。
そして暴力が罷り通る逸脱した世界でもあった。
『エリンは誰よりも不向きだ』『エリンじゃ到底生き残れない』
そんな評価や予想が蔓延ったが実際には素人目だ。ただ素人でもわかることだった。
そんなものに付き合う必要などエリンには無かった。
だがそれに巻き込まれるのは身内だった。
しかし『夢』を追うのにそれは『重荷』にはならかった。
どちらにせよ絶望的な努力をするのだ、その過程で周囲からの評価は覆るとも思っていた。
日々研鑽と苦心を積み重ねた。
誰よりも非力で矮軀で華奢だったから、誰よりも努力が必要だった。
そして予想通りに、周囲の予想を覆した。
そうやって辿り着いた『今』だった。
だから、エリンは思った。
――『ちいさなこだわり』は七年越しの『特別な誕生日プレゼント』だと。
「ありがとう」
贈り先は、五歳の自分だった。
「あとは冒険者になるだけだ!」
七年間投げ出さないでいてくれたこれまでの自分との誓いだった。
十二年の人生で一番大きな声を出したのは『今』の自分に覚悟を刻み込むためだった。
◇◇◇
追憶が終わった時『東風』は止んでいた。
朝焼けが滲んでいた。
「すま……な……かった……」
口先だけの謝罪が当時の想いに押し潰された。
十七年の人生で一番情けない声だと思った。
俺は立ち止まっていた『五年後の今』まで。
『あの時の気持ち』『あの時までの気持ち』『努力』の全てを知っていた。
今との違いが明確にわかった。誰よりも間近で見てきたからだ。
いつの間にか『十七歳』になっていた。
(……感慨なんてものありゃしなかった)
そして『東風』が身を切るように冷たかった。
(……喜びなんてこれっぽっちも無かった)
帰りたい気持ちが怒涛の如く押し寄せた。
(だから…………だけど…………)
どちらを向いていいのか分からなかった。
あの頃なのか、あの山なのか、我が家なのか。
それとも……。
(覚悟を決めてここに来たはずだったのに……クソッ)
『腰掛岩』の前から一歩も動けなくなっていた。
朝焼けが滲んでいた。湖畔に。心に。
朝焼けが灼然とさせていた。境い目を。
克明な『あの頃』とぼやけた『今』とが決して混ざり合わないことを悟った。
朝焼けが俺に焦燥を齎していた。
面白いと思われた方は、お星さまをお恵みください。
それだけで毎日更新がんばれます。(●´ω`●)
超嬉しくなって爆速で更新しちゃいます。
ご評価のほど、よろしくお願いします~v(´∀`*v)
↓の★★★★★を押して応援してください!