三冠王は下山する
今にして思う。
俺は人を好意的に捉えすぎていたと。
自分に愛情を傾けてくれていた近しい人たちには感謝しているしそれは今でも変わらない。
そこに不平不満を差し挟む程に性根が腐っているわけじゃないと信じたい。
ただ真っ直ぐだった頃にはもう戻れなくなっただけだ。
世間の荒波に揉まれて居場所を燃やされたからだ。
いや、人のせいにするのは良くない。
全ての原因は俺の天職が、
『淫魔王・羞恥王・愚賢王』なんてクソジョブ✕3だったからだ。
つまり俺のせいだ。
だからこうして山に引きこもり続けている。
十二歳になった時からおよそ五年が経った。
千八百二十五日と二十一時間と五分と四・二秒だ。
その間に会ったのは両親と兄そして親友とその妹だけだった。
それ以外の気配から逃げ出さずには居られなかった。
周囲からの好奇の視線が怖かったからだ。
十七歳になるまで後わずかだ。
あと数時間の猶予しかない。
『冒険者』になるために訓練し続けてきた。
七年間で培った感覚が正確過ぎる時を告げてくる。
太陽と月、四季の変化や星々の並びなどではない。
それなら目を瞑れば良いだけだ。
時にはそれが苦しかった。
目を瞑っても自分からは逃れられないからだ。
「クソッ」
十七歳になるまでの時間がわかりすぎる。
コンマ一秒まで把握できる。
あと二時間と五十三分と四十四・二秒だ。
「それまでに覚悟を決めないと」
また無為な一年を迎えてしまう。
だがあの時の記憶がまた過る。
「いつになれば赦してくれる?」
額に浮かんだ汗が手の甲に墜ちた。
――ペロッ。
そこをザラザラとしたベロが舐めた。
ここに来て友だちになった孤独仲間の黒い龍だった。
龍だと言わないと怒るのだ。ドラゴンではない。
だから気をつけている。
つぶらな瞳は俺を非難していない。
だから落ち着け。
少しだけ別のことを考えろ。
(そうだ、こいつとの出逢いを……)
◇◇◇
俺はその日も食料を探していた。
途中で深い霧に惑わされて塒への帰路を見失っていた。だから普段は決して足を踏み入れない山の奥深くを彷徨っていた。
当初の目的はいつしか仮宿探しにすり替わっていた。
「クソッ。そろそろ日が落ちる……」
そう零してからずいぶん経っていた。
既に夕日は地平線に隠れている。
辛うじて空の端だけが赤く染まっていた。
もう間もなく夜の帳が降りようとしていた。
夜目が利いたところでここではそれが通用しない。
聴覚と第六感のみが頼りだ。
影が濃すぎて昼でも陽の光は届かない。
夜には完全に光が無くなる。……満月ならあるいは。
ここは山の奥地。古い森の中。
広葉樹の落ち葉が人の背丈ほど降り積もっていた。
その落ち葉の中を脅威が忍び寄る。狼ですら脅威となるがここには魔獣しかいない。
「お腹が……空いたな……」
そう零したところで周囲には毒々しい果実しか無かった。
マナ(大気中の自然由来の魔力)が濃すぎて通常の動植物は育たないからだ。
皆何かしらの特異性を有していた。
初めて目にするものは特に注意が必要だった。
だから森の恩恵に与れないでいた。
魔獣たちが所狭しと徘徊していた。
あちこちから視線と息づかいが感じられた。
並の野生《《動物》》では生存競争の舞台にも上がれない。
ここは魔獣たちの楽園だ。
奴らは俺を意にも介さずに闊歩していた。
そこまで食料に困っていない様子だ。
(俺は魔獣にとっての格好の餌だと……違うのか?)
だが油断はしない。
警戒しつつ必死に道なき道をかき分け続けた。
幸いにも満月だった。そうじゃなかったら終わっていた。
俺は聴覚を研ぎ澄ませていた。だから聴こえた…………
「……ぅぐぉぉぉ…………」
掠れたような獣の声だった。警戒しつつ気配のする方へと突き進んだ。
――目に飛び込んだのは、氷漬けの白い狼だった。
人の三倍はあろうかという巨大な尾。その全貌は木こり小屋を数軒並べても足りない程だ。
そして氷晶に埋もれてなおその肢体の力強さと静謐な気配は王都の大聖堂を想起させた。
――目を奪われたのは、対峙していた白い龍だった。
傷だらけで佇むその姿は痛々しかった。白い狼よりも遥かに大きくて神々しかった。
纏う気配がこれまで目にしたどの魔獣とも違った。
「恐らく両方とも神獣だ」
神の領域に至った魔獣は一様に白を纏うとギルドの図鑑には書かれてあった。
巨体を覆う艶やかな鱗は光に包まれていた。燐光と白雷を絶えず放っていた。
――目を疑った。隣の黒い龍の小ささに。
あまりに巨大な神獣たちとあまりに小さすぎる黒い龍との対比が遠近の感覚を狂わせた。
その黒い龍は手のひらに乗るサイズだった。
何度か目をこすって見直した。
太いミミズかと思う小ささで間違いは無かった。
幼いと断じた理由がソレだ。色は違うが親子だろう。
こちらを警戒している様子だった。
白い狼は息絶えていたが、臨戦態勢は続いていた。俺がいたからだ。
(手負いの獣……それも神獣だ)
油断せずにいた。視線も外さなかった。
だが俺に敵意はなかった。むしろ意気消沈していた。
ここに来るずっと前から。
人の悪意と前世の悪意に晒されて心が荒みきっていたからだ。
自分から敵意を剥き出しにして誰かを傷つける事などもとより考えていなかった。
だからこちらから警戒心を龍の親子に差し出した。
「おい……捕って食ったりしない。警戒は解いて良い」
――神獣と言っても千差万別だ。あふれる力を振りかざして恐れ神となる獣もいれば豊穣の神として崇敬の念を集める獣もいる。
『禁足地』『人外魔境』と言われるここで一年近くも野生児をしてきたから魔獣の気配や感情には敏感だった。その確度は高い。眼の前の龍たちを察するのは訳無いことだった。
(この母龍とその子は荒神なんかじゃない。むしろ遠くで感じた荒々しさは白狼か)
「ぐあぁあ」
「きゅー」
(どうやら理解を得られたな)
だが母龍はその間も血を流し続けていた。傷は深そうだった。
あちこち抉られ、食い千切られていた。絶え間なく赤黒い血潮が噴き出していた。
俺の足元にまでその血溜まりが届いていた。
(『血の池』だ)
鎌首をもたげる力も残されていないようだった。その場にゆっくりと体を横たえさせた。
「ぐうううぅぅはああぁぁぁ……」
母龍は深い深い息を吐ききった後、もう身じろぎもしなかった。
瞳の中にはいつまでも小さな龍を映していた。
近寄って大きな瞳を閉じてやった。
(残念だけど癒やしの力も……もう……)
傷は塞がった。だが本来の白く美しい姿が今は紅く染まっていた。
赤く《《汚れた》》ままだった。
(……赤は嫌いだ)
せめて顔だけでもと服を脱いでそれで拭ってやった。
心の中は忸怩たる思いでいっぱいだった。
血溜まりには何度も目が行った。
視線を逸らしてみても何度も心に思い浮かんだ。
その都度、血溜まりに沈みゆく自分が脳裏を過った。
大量の血が、遠い記憶の誘い水となった。
エルフの美しい少女がその純白を真紅に染める光景だ。
冴え冴えとした白の軽甲冑が俺の血で赤く汚れていた。
透き通った真珠のような肌さえも俺が汚していた。
そして沈痛な叫びを上げ続けるのだ。凶刃に斃れた俺のそばで。
それはどこぞやの王だった時の記憶だ。
(その記憶は『過去』じゃなく遠い『前世』だ)
――頭を振った。
そこからしばらく――あいつが別れを惜しんでいる間に水場を探してみた。
結局は見つけられなかった。
体の方の血は諦めるしかなかった。
(魔力が枯渇した俺にできることは…………大きな穴を堀ることだけか……)
土をかぶせると夜の帳が降りてきた。月明かりだけが俺と小龍の距離を感じさせていた。
「おい、悲しいな」
「……きゅあああ……」
小さな黒い龍は小さく声をあげ、すり寄ってきた。
(慰めが必要か?)
最初、そう思った。
黒い龍はポケットに突っ込んだ俺の手を引き抜いた。
そして爪の無くなった俺の指を舐めた。
ずっとそれが続いた。ずっと気丈に振る舞い続けていた。
…………察するに余りあった。
俺の人生には誰かとの永遠の別れなど無かった。
他人の記憶でならその経験は数え切れない。
(これ以上悲しみを押し付けてくるな!)
初めて自分の経験とそれが重なった。
(他人の記憶なんて必要ない! 俺にはいらない!)
そんな物は邪魔でしかなかった。自分で見た光景、自分の体、自分で磨いてきた技だけで十分だった。
(返したい……天職ごと……スキルごと……)
それがあったから俺は山に……。少し体が強張った。
「……きゅぁああ?」
「いや、何でもない……ありがとう」
気付くと両手の傷は綺麗に無くなっていた。
爪は……しばらく素振りに苦労しそうだと思った。
◇◇◇
この黒い大きな友達とはそれからの付き合いになる。
今では当時の母龍を七がけしたくらいの大きさになっていた。相当に大きくなっていた。
(だから一緒には行けない……)
今もこうして心配の視線を向けてくれてるこいつは頭がいいんだ。
いつも意を察して先回りしてくれる。
(今は別れを惜しんでくれてるようだな……)
その瞳の前では……弱さを隠せなくなる。
(アニマルセラピーとは少し違うか…………)
黒い龍の名前はつけていない。
男なのか女なのかがはっきりしていないから……と言うのは建前で仲間たちの中には性別がはっきりしているのもいる。
その論理は破綻しているが誰も気にしちゃいない。
野生の魔獣は互いに名を呼び合ったりしないからだ。
そこに人の価値観を押し付けるのもどうかと思うのだ。俺は、特に。
(本音は自信がないからかもしれないな)
一部思うところはあった。だが概ね落ち着きを取り戻せた。
その頃にはたくさんの仲間たちが見送りにきてくれていた。
毎年恒例の行事みたいになっていることが非常に情けなくもあるが正直嬉しい。
仲間と言っても当然人ならざる者たちだ。
ここは弱肉強食の世界。黒龍と同じ様なシーンは月一回以上はあった。
だからというわけではないが、いま俺の周囲には百以上の魔獣・神獣・幻獣たちがその身を寄せていた。
皆が皆、俺を心配してくれていた。
俺は肉が好きだったが今は『菜食主義』だ。
当初は魚も食べたが今は食べられなくなっている。
理由は同じだ。
(野菜はその身を差し出してくれているヤツがいるから……逆に抵抗感もあるが)
自分のこと。
仲間のこと。
これまでのこと。
これからのこと。
事の大小に関わらず、四六時中葛藤しながら毎日を過ごしてきた。
だが今日こそ本当に別れを告げようと思う。毎年、誕生日に思ってきたことだが今日こそだ。
ようやく決心が固まった。
時間は五十五分と三十二秒と十三・三秒しか残されていないが間に合った。
「みんな心配をかけてすまない。もう大丈夫だ…………そうだな……もう大丈夫だ。心配ばかりかけていられないからな。…………俺は山を降りるよ」
『今』を逃せばまた停滞の一年を繰り返してしまう。
だから『今日』しかなかった。名残惜しさはあるがこのままではいられなかった。
俺は震える身体を抑え込む。
肩の強張りを抱いたまま、そのまま山を駆け降りた。
空は淡い紫の色をしていた。
それは五年前のあの日と同じ色だった。
その道中は覚えていなかった。
追憶を振り払うことで必死だったから。
気が付いた時には……朝靄に覆われたいつもの湖畔に立っていた。
素振りを繰り返した『腰掛岩』の前にいた。五年前のあの日と同じ光景だった。
ただ少しだけ、目線の高さが変わっていた。
(俺だけが変わってしまったのか……)
空は蒼穹に変わっていた。
面白いと思われた方は、お星さまをお恵みください。
それだけで毎日更新がんばれます。(●´ω`●)
超嬉しくなって爆速で更新しちゃいます。
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