台風
環の放ったシュートが肩口を襲う。激痛に顔をゆがめ膝をつく洋介。
「もうええって洋介、パス」洋介が立ち上がり箒を振る。飛ばされた牛乳瓶の蓋が僕の足下に届く。「ヘイ、理、来いよ」僕の放ったシュートが環まで届かず、風に飛ばされ渡り廊下から落ちていく。仕方なく辺りを掃き始めた時、放送が鳴った。「台風が近づいています。すぐ教室に戻りましょう。」
牛乳瓶の蓋を蹴りながら教室に戻ると僕らが最後で席に座った。「風が強くなってきたので、保護者に迎えに来てもらいます。これから連絡するので教室で待つように。」井口先生が職員室に下りて教室は大騒ぎ。体育館の屋根が飛びそう、ポプラが折れそう、何を話しても楽しくて仕方がない。先生が戻って来たのは窓からビニール袋を飛ばして遊んでいた時だけ。親への連絡で忙しいのだろう。
「今津、下駄箱に下りろ。」隣のクラスの先生が呼びに来た。一人目のお迎えで歓声があがる。「あいつ家近いもん」「一番は嫌じゃない?」「うちの親、遅そう」とにかく皆楽しそうだ。数人が来始めると、学校に近い地区、働いていない親などが来て、すぐに教室は半数ほどになった。「時間がかかりそうな人は、体育館とか図書室に行ってもいいぞ。」井口先生が伝えに来た。「グランドは?」「アホか」数人が立ち上がる。「絶対に一人で帰るなよ」後ろから声がかかる。
体育館には誰もいなかった。洋介、環とバスケットボールを取る。「お前の親すぐに来そう?」「来そうやけどな」風で屋根が音を立てている。「これ、体育館におってええんかな」「井口、のんきやからな」「女子は結構減ってたな」適当にリングに投げる。ボールの弾む音が体育館に響く。「環しか入ってないやん」「そう?」「3ポイント勝負しよ」「誰も入らんやろ」「いけるて」「順番ジャンケンな」
環一投目。「何賭ける?」「負けたら最後まで残る」「親来てもか?」「それ無理じゃない」「入れた人の質問に何でも答える」「あー」「とりあえずそれで」
環投げる。シュパッ。「マジか」「じゃー、定番。好きな人」「洋介は?」
「うそ。マジ?西田さん。」「誰?」「スイミングで同じ級の子」「知らんやん」「次、理」
「おらんよ。」「それナシ」「谷やろ?」「違うって」「はいはい」「いやマジで」「じゃー、次な」
ガンッ。全然入らん。「意外と遠くからの方が入るんちゃうか」「そんな訳ないやろ」「洋介だけそうしろよ」
シュパッ。「イェー」こいつはいつも訳が分からん。「じゃー、中学で入る部活。環は?」「俺は入らんかも」「内申あるから入らなあかんらしいで」「そう言われたら何か余計に」「理は?」来た。嫌な話題ふってきやがって。「理、私立行くんやろ?」「そんなん分からんし」「毎日塾行ってるやん」「行かされてるだけや」「でも、行くんやろ」「分からんって」「何怒ってんねん」「怒ってないし」「ええやん。俺なら私立行きたいけどな」「もうええって、環」「じゃー、次な」
「おい。坂倉、増田。教室戻って、荷物取ってこい。」井口先生が来た。「理どうする」「もうちょっとここにおるわ」「じゃー、お先」「またな」「んー」
屋根の音が激しくなる。柱がきしんでいる気がする。3ポイントシュート。シュパッ。苦笑。中学受験の事、真正面から聞いてくるのは洋介らしい。誰もあまり聞かないのに。私立に行きたい訳はないけど多分親の言う通りに行くだろう。あいつらだって分かってるはず。ボールを片付けて体育館を出る。階段を上がり教室に向かって歩く。突然、目の前の扉が開き、人が出てきた。
岸本だった。目だけ合って岸本は教室と反対方向に歩いていく。それだけで胸の鼓動が自分で聞こえる気がする。岸本が出てきた図書室に入る。電気も点いてないし図書の先生もいない。体育館で好きな人を聞かれたとき、ドキドキして、そして戸惑っていた。すぐに頭に浮かんだ顔が岸本だったからだ。岸本とはほとんど話したことはない。ただ一度だけ二人で下校したことがあった。洋介も環も知らないし話すつもりもない。特別な事は何もなかったのだから。少し場所が動いた椅子を見つけて座る。暗いまま掛け時計の秒針の音だけが聞こえる。窓際の棚だけが明るく照らされている。立ち上がり窓際に立つ。一冊の本に目が止まる。「南極犬タロとジロ」
岸本と二人で下校した時の唯一の会話。「どんな本読むの」「え」「たまに図書室にいてるやん」「タロとジロ」もうちょっと違う本を言えば良かった。なんで「タロとジロ」やねん。親に買ってもらった読書感想文の本。全然いけてない。そう思いながら本を手に取ってページをめくる。この本が好きなのは本当。犬も冒険も好きなわけでもないが、気がついたらよく読んでいる。犬の首輪をきつく締め直すシーンなんて辛いと分かっていても何度も読んでしまう。最後のページをめくった時に手が止まった。
「岸本 那緒」図書カードの最終行に名前がある。僕が言ったから読んだのか。元々好きな本だったのか。体の全ての動きが止まり、胸を押さえつけられるように呼吸が出来ない。窓ガラスの揺れる音に気づき、体も呼吸も少しずつ戻ってくる。本を棚に戻し窓の外を見た。校庭のポプラの木が大きく揺らいでいる。その根元に目が止まる。誰かいる。女子。岸本だ。嘘やろ。
思ったときには走り始めていた。階段を駆け下り上履きのままで校庭を走り出す。風に押されてとんでもない速さで走っている気がする。息を切らし砂場まで来て、ゆっくりと立ち止まる僕。岸本が僕の方を見た。来ることが分かっていたかのように。
「どうしたん?」「え」「なんで来たん?」「いや、見えたから」「そっか。見えたんや。」
岸本はジャングルジムにもたれている。ここだけ風が止んでいるように感じる。職員室や教室からは見えていないのか、そんな事を考えていた。「行こっか」「え、どこに」「向こう」コーラ工場の方向を指さす。「うそ、あかんやろ」「ここに来たのに、なんで行けへんの?」僕が返事できずにいると、岸本は裏門を開けて歩き出した。ゆっくりだが立ち止まる気配はなく砂利道を歩いて行く。僕は動けずに背中をずっと見ていた。やがて岸本は野草の陰で見えなくなった。
そこから先、その日の事はぼんやりとしか記憶にない。翌日、井口先生に呼び出され多目的室の端から端まで無言で胸を突き飛ばして叱られた。前日、祖母が僕を迎えに来てくれたのに、僕は黙って裏門から帰ったらしい。雨風のなか、祖母はしばらく僕のことを待ち一人で家に戻り僕にも親にも何も言わなかった。僕が裏門から帰って何をしたかったのか。岸本を追いかけたのか、どこまで行ったのか、いつ帰ったのか。きっと何もなかったのだと思う。翌日、岸本も学校に来ていたが何も話さなかった。
あれから僕は中学受験をして私立中学に行った。洋介、環とは卒業して何度か遊んだが、数年経つと連絡もなくなった。岸本とはあの日から一言も話したことはなかったし、今どうしているかも知らない。
小学校の裏門は今もあるが、裏門から出て広がるのは野草が生い茂った広大な空き地ではなく高架の高速道路が建っている。コーラの工場跡地には住宅が並んでいて、たくさんの子供たちが砂利道ではなく歩道橋を通学している。