序章「誰にでもトクイなことの一つくらいはない」
註)この物語本文中に登場する人物の名前、家名、役職、店舗名などは一切実在する、もしくは実在した人物や名称などとは一切の関係がございません。異世界を舞台にした時代小説です。
誰が一番最初に言ったのか、「誰にでも得意なことは一つくらいある」と人は励ましについそんなことを言ってしまうものである。しかしその言葉が落ち込んでいる者には何ら意味のない、気休めにもならない言葉だという事は失念しがちだ。しかし人は遅かれ早かれ、自分が何が得意かを見つけて喜ぶものだ。勉学が得意な者、武芸が得意な者、演芸が得意な者、魔法が得意な者……得意なことを上手く生業にして生活する者はいつの世にも、どの場所にも存在する。
では『特異』なこと……ひとつの事に抜きん出た才能を持つ者はどうだろう。それは誰にでもある物ではない、百人に一人かもしれない、千人に一人かもしれない、はたまた万人かも……善悪を問わず、歴史に名を遺す偉人は大抵そういった類稀な才能を持っていたと言われている。
先日友人が貸してくれた歴史書の巻末を読み終え、書を危うく本棚に戻しそうになりながらも文机の上に置く。分厚い三巻分の書を包めるだけの風呂敷を傍の箪笥から探し、見つけた藍染めの風呂敷を畳に敷いて、書を重ねて風呂敷の対角線に平行するように気をつけながら真中に置く。風呂敷の四角を対角同士結んで、結んだ所を持てば小脇に抱える必要も無く手に提げて楽に持って運べる。風呂敷は極東ではどこの家でも何枚かは有るくらいには便利な布だ。適当な木の棒と組み合わせて骨折した手足を固定したり、冷える時は頭から被るように首で巻けば多少なりとも暖をとれる。
友人の所に書物を返しに行こうと玄関で下駄に片足をつっかけた所で、会いに行こうとしていた友人の声が外から聞こえてきた。子供の時分から散々聞いた声を、私が間違えるはずもない。
「シャチ、居るかー?」
お淑やかのおの字も無い大声。シャチと言うのは彼女が幼少に私に付けた所謂渾名だ。
「……居る」
私は彼女に気付かれない位の大きさで溜息を一つ吐いた後、その無遠慮な呼び掛けに返事をした。
「何だ、居たのか」
がらりと引き戸が開いて、萌黄色の着物を着た友人がこれまた我が家のような無遠慮さで敷居を跨いで入ってきた。極東では世間一般的に貞淑で教養のある女が良い女と言われているが、アキは医者の娘で教養こそあれど貞淑という言葉は似合わないと私は数年来思っている。その癖この辺で一番と誰もが認めるくらいには顔が良いので本当に困る。そんな美人が男一人住む屋敷に毎日のように出入りしているとなれば噂になるのは至極当然、お陰様で私までちょっとした有名人になってしまった。ご近所さんに会うと2回に1回はアキとの関係を訊かれる。一体近所の井戸端では何を会議しているのか……大抵ロクでもない事なのだろう。
シャチと言う渾名は私の苗字が社、名が置丞の丞の字を取ると漢字の音読みで社置と読めるからで、アキは苗字が花岡、名が秋なのだが名前を訓読みすると秋と読めるからである。私が幼少まだ漢字がさほど分からなかった頃に名前の読みを間違い、勉強ができたアキは私の姓名をもじって、お互いがお互いに渾名をつけて今の今までこれが定着しきっているのだ。父同士仲が良く親交のあったせいかこれに父も、花岡先生___アキの父は町医者で敬意を込め皆こう呼ぶ___も特に咎めなかったのだ。
結果我が家に自分の家の感覚で当たり前のように出入りして三食作って洗濯掃除までしてくれる通い妻同然の美人幼馴染が完成してしまったんだけどね……内心で喜んでいいのか悪いのか判断に困っていたが、その悩みに結論が出ることはない。
「2人も3人も一緒だから、家で晩飯にしないかい、シャチ」
アキの家で晩飯を食うのは今に始まった事ではなく、父が死んで屋敷に独りになってからはほぼ毎日のように晩はアキの家で食べている。花岡先生曰く、
「置丞君は私の義理の息子も同じ、剣士こそ健康に気をつけなくてはいかんぞ」
との事で、お陰様でここ数年風邪のひとつもひいたことはない。この辺の町医者で一番と言われているだけある。先生も今年70になるというのに腰も曲がらず、立ってすたすたと歩くし、毎朝飼い犬の寿太郎を連れ散歩に行く程生き生きとしているのだから流石としか言いようがない。
先生は私がアキに連れられて醫院にやって来ると、丁度最後の患者を見送ろうとしている所で、何やら患者とおぼしき刀を差した立派な身なりの侍と話していた。見た目齢30か40か、少なくとも身なりからしてどこかの旗本らしき侍はこちらに気が付いて、私もアキも軽く会釈をする。
「……もしやと思ったので尋ねますが、そちら社どののご子息でありませんか?」
深みのある声で侍は私の事を尋ねてきた。聞く限りでは父に縁のある人らしい。
「確かに、私は綴一の子ですが」
父は方々の武家に剣術指南役として仕えた剣客であった。晩年は道場を開いて子供にも剣を教えていたが、侍は見るに前者の方の筋だろう。
「やはりな、雰囲気が似ておる。この後そちらを尋ねようと思っていたのだ」
どうやら何か私に用があったのだという。すると先生が
「では儂の家の広間で話すと良い。置丞君は私の義理の息子も同然でしてな、娘を遣って夕食でも、と誘ったところだったのですよ」
と侍に提案し、
「おお、先生が良いとおっしゃるなら、お言葉に甘えて」
と侍はそれを二つ返事で了承した。どうやら夕食はもう少し後になりそうである。それはそうと、と侍は私に自らの名を漸く初めて明かした。
「名乗るのをすっかり忘れていた。俺は小松築山、極東将軍家剣術指南役を三年程勤めておる」
極東将軍家というのは、この国で最も格式が高い武家の家門である。大昔この国は神州という島国であった。大昔、国の中で内紛の状態にあった神州を海の向こうの華国という大国が平定、以後数百年自治を認められた属国のような立場にあり、神州は華国から極東と呼ばれ、此処を管轄する最高職として極東将軍家が存在する。単に将軍家の上に華国の皇帝が更に立っているだけで、かつての神州でいう幕府の統治構造はそのまま続いている。髷の文化はこの頃に廃れたと言われている。
それはともかく、そんな要職にある人が私に何の用なのだろう。父が私を自分の跡を継ぐ剣客となるよう厳しい鍛錬をつけたのは知っている人ならば知っているだろうが、今の私は父の道場と寺子屋を継いだだけの旗本でも何でもない貧乏浪人である。父の恩恵で顔が広いというだけだ。
先生の半ば勉強部屋と化した仏間に通され、アキが茶を淹れている間に私の隣に花岡先生、向かいに築山殿が座るかたちで向かい合った。部屋の傍らにおびただしい数の書物が山積みになっているがこの際気にしないことにする。アキがいつも言っているようだが一向に改善されるどころかここ数年書物の数が増えて一向に片付く気配がないのは私もよく知っているので。
「実は置丞殿に一つ頼まれて欲しい事があってな」
と、築山殿が私に書簡を手渡してきた。手紙を他の紙で包んで上下の余分を真中に向かって畳んだ、所謂熨斗袋擬きの封筒を元の様に展開し、山折り谷折りに畳まれた手紙を広げる。本紙という、普通内容が綴られている方と、それの裏に添えられた礼紙という、本紙で書ききれない内容を続けたり、本紙で内容が終わっていても形式上白紙のまま添える二枚の紙で手紙は構成されており、今回は本紙だけではどうやら内容が書ききれていない様子であった。全紙で書かれているという事は格式高い者が書いた手紙だとすぐ見当がつく。庶民同士であれば折紙という幅が狭い薄紙を使うのが一般的だ。字も丁寧で墨も濃く掠れが少ない上に字列が殆ど傾げていない。職業柄僧侶が書いた字列は少し傾げると父から聞いたことがあったが、僧侶が書いた文でも無い様である。しかし肝心の手紙を書いた送り主の名が何所にも見当たらない。武家であれば花押が、町の問屋であれば番頭の判が有る筈である。
手紙を預かった人物、送り主の分からない書簡、見事な筆跡、手紙の格式高さ……私は確証のない予想を築山殿に投げかける。
「これは……送り主はもしや上様ではありませんか」
私の問いに、築山殿はほう、と唸るような声を出して
「綴一殿のご子息だけあるようだ、如何にも、これは上様が直々にしたためられ、託された書簡だ」
感嘆を他所に私は内容に目を通す。父とかつて竹刀を打ち合った思い出話に始まっていたが本題に関しては至って簡潔な内容であった。
「……築山殿はこの後またお城へ往かれるのですか」
「お主の返事を上様にお伝えに上がってから自分の屋敷へ帰るつもりだが……」
日が暮れつつある。一寸思案して、私は築山殿へ結論として、
「……では、上様には明日にでも参上するとお伝え下さい」
と伝え、
「……そうか。わかった、明朝また此処を訪れる故、支度をして待っていてくれ」
と築山殿は私に言い、
「では、花岡先生もこれで。くれぐれも身なりだけはしっかり頼むぞ」
とアキが出した茶を一息で飲み干し、急ぎ上様の所へ往くために早々に醫院を去っていった。その背を花岡先生と見送って、ぐう、と先生の腹の虫が泣いたところで夕食前だったことを思い出し、早々といい匂いのする醫院の中へ入っていった。
酒は百薬の長というが、ではいくらが薬として適量なのかは誰も正確な量は分からない。花岡先生は夕食の後、毎日一杯だけ薬酒を猪口で飲む。アキも私もこの先生お手製の薬酒があまり得意ではない。華国伝来の生薬を何種類か酒に漬け込んで作るのだそうだが、これが本当に苦いのである。しかしこれが実際効くともっぱらの評判らしい。一杯だけの晩酌に付き合い、得意ではないそれを花岡先生と縁側で呷る。
「……苦い」
「良薬は口に苦し、昔から本当に効き目のある薬は苦いと決まってるものさ」
渋い顔をする私にはっはっは、と笑いながら平気な様子の先生。まだ余韻と共に残る薬草の苦さを我慢し、私は先生に話を切り出した。
「暫くの間、此処を離れることになりそうです」
先ほどの書簡を先生に手渡した。先生は先程の私同様にそれを読み、少しすると私の言葉の意味を理解した様子だった。とうに白髪になった短い顎鬚を右手で扱き、
「……やはり、御上は社の血筋を手放すことはしないか……」
と言い、溜息を一つ吐いた。父の代で終わったと思っていた“役目”は終わりなどではなく、音沙汰なくなって暫く経つというだけで勝手に私がそう思っていただけに過ぎなかった。
「綴一君が死んで、約束をした先の将軍が死んだ。代が替われば約束など個人がしたものだから、という事なのだろうねぇ……」
仮に誰かがうちに代わって役目を背負う事は不可能に近いだろう。
誰にでも得意なことの一つくらいはあるが、特異なことは誰にでも備わっているものではない。兎に角、将軍が私を呼ぶという事は理由は一つしかないという事だ。
「……もしかしたら、二度と帰ってこれないかもしれない」
私は生きて帰れなかった前例が有る事を身をもって体験している。先生も、そしてアキも、それは同じ。母はこれのせいで死んだ。骨も帰ってこないまま、墓だけが作られた。先生は私の言葉に何も言えず押し黙ったまま、微風が庭の木を揺らす音がざわざわと鳴った。
その重い一言を、アキが聞いているとは、この時私は露程も思ってはいなかった。
言っても信じられないかもしれないだろうが、社の血筋を引く人間は呪いや幻術、幽霊や妖怪といった魔に関わるモノを見たり触れたりする力があり、かつそういったモノの影響や作用を一切受けることはない。例えば誰か恨みを持った人間に呪いをかけられても失敗し全てそれがかけた者にはね返るし、妖怪が居たとすればそれが見える上に物理的に退治することも出来る。私は物心ついた頃から既にこの異能が表れていた。母由来の異能であるが、母自体は神職に一切関りがない。父に至っては何ら異能はなく、剣の道を究めた剣客というだけ。その間に生まれた私は、母以上に将軍家からすれば有用なのは想像に難くない。利用したい魂胆は理解はしたくないが理解できる。
『所用につき 暫く出かけます故 寺子屋道場休みます 御用は花岡醫院へ』
子供たちとその親御さん達には申し訳ない気持ちでいっぱいだが、今は一軒一軒挨拶に回る時間も、手紙を書いて遣る暇も、それらに対しあまりにも割く時間が足りない。しかしこの張り紙も半分は嘘みたいなものだ。
「……御免」
日が峰から顔を出して早々、小さく謝罪の言葉を吐いて、私は門に鍵をかけた。
父が始めて私が継いだ道場と寺子屋を、いつまた再開できるかもわからないのに、暫く、としか書けなかった己が情けなかった。
「何が御免だって?」
突然声を掛けられて驚いて振り返った。私としては一番今会いたくない奴がそこに立っていて、微笑している。そいつは表の貼り紙を前にやってきてまじまじと見ると、その微笑を顔に張り付けたままに私を見た。そこで私は理解した、昨日の会話をアキが聞いていたという事を。
「……行っちまうのかい、シャチも。お前の母上の様に」
アキはどうやら、私に行って欲しくないのだろう。アキの母は早くに病気で亡くなり、私の母はアキの母代わりと言っても過言ではない存在であった。その母が今の私の様に、暫く家を空ける、と往ってしまったきり二度と生きて帰って来なかった。子供だった私とアキは現実を受け止めるまでに長い時間を要したのは言うまでもないが、アキには今でも心の傷になって残っているのだろう。
「……ああ」
私はそれでも行かなければならない。あの場で仮に断っていても私はこの家を離れることになっていたのは想像に難くはない。御上に逆らえばそれ即ち己の身を滅ぼすに同じ事である。昨日の時点で実質選択肢は1つしかなかった。
「でも、母さんの様になるつもりはない」
私はアキにたった一言そう言って、向こうに見えた築山殿の方へ足を一歩踏み出した。さよならも、また会おうとも言う気はない、これがアキとの永遠の別れとも思わない。
「必ず生きて帰る。だから帰るまで、此処を守っていてくれ」
私は振り返らないでアキにそう言った。生きて帰れる確証はないのにこの時私は不思議とそう言える気がして、しかし決心が鈍るのが嫌で彼女の方を振り返らないまま旅立つことにした。この時アキが何を思っていたのかは分からない。寂しがる様子もなく自分の所から去ってしまう私を薄情と思ったのかもしれないし、私の母の様に今生の離別となってしまうかもしれないのに根拠もなく無責任なことを頼む私を今すぐにでも殴りたかったのかもしれない。
「……出来るだけ、早く帰って来るんだよ……生きて」
しかしアキはただ私の背にそう言っただけで、私を引き留めることは諦めた様であった。私は右手を軽く挙げて返事の代わりとし、それ以上はお互いに何も言わなかった。
心の中で、行って来る、と彼女にそう短く返した。
そよ風が、私からアキの方へひとつ吹いた。
(次話に続く)