鏡の境界線(かがみのきょうかいせん)
初めまして。
のまいとです。
ひとつの愛の物語。
気に入ってもらえたら嬉しいです。
雨が夕暮れの匂いをともなって降っていた。
冬の土曜日の静かな喧騒。
季節は少しだけ駆け足で、頬を撫でる凍えた風を運んで来ていた。
ビートルズの「Let It Be」が僕の部屋に流れて、カーテン越しの雨音と交じり合っている。
瀬那さんが好きな曲。
室内にたゆとう歌声は、淋し気なあの人の背中を僕の脳裡に描き出す。
抱きしめる腕に力がこもる。
僕にもたれて亜里沙は壁のポスターの写真を見つめている。
彼女の髪からシャンプーの甘い薫りが、鈍色の空より降り始めた粉雪のように漂って、僕はそれに顔を埋めた。
ポスターの何処か外国の街の運河をゆく真っ白な帆船。
此処ではない別の場所を求めて、僕らの心はいつも浮遊する。
亜里沙の肩を抱いた僕の手に彼女の指が、そっと触れる。
亜里沙の掌は驚く程に冷たい。
触れる物を全て凍らせてしまう童話の雪の女王のように。
作り出す氷のオブジェたち。
そして、誰よりも哀しそうな瞳で、彼女はそれを見つめていた。
僕らは17歳で、まだ何者でもなくて、今在るのは急速に大人になろうとしてゆく軀と、戸惑い揺れている心だけだった。
「私のこと好き?」
遠い外国の運河を行く白い帆船を瞳に映しながら、乾いた声で、亜里沙は訊く。
「好きだよ」
そう言って僕は彼女を優しく抱く(いだく)。
何処かへ去ってしまわないように。
その綺麗な心の羽が傷つかないように。
彼方の空に翔んで行ってしまわないように。
瀬那さんは亜里沙の3歳年上のお兄さんだった。
繊細な整った顔立ち。
細身の体躯に少し長めの髪。
いつも淋し気な優しい微笑みを浮かべている人だった。
幼馴染の僕たちは、いつも3人で遊んでいた。
記憶のなかの空はよく晴れていて、澄んだ青は何処までも広がっている。
公園のブランコを漕ぐ(こぐ)お下げ髪の亜里沙。
小さな体が揺れている。
その背中を少年の瀬那さんが、そっと押していた。
はしゃいだ声が青空に響く。
もっととせがむ亜里沙の髪を、瀬那さんの指が笑いながらくしゃくしゃにする。
ブランコの鎖をしっかりと握った彼女の手を、瀬那さんの掌は優しく包んでいた。
僕はそんな2人を眺めている。
Tシャツの胸の奥で鈴の音が鳴るような微かな風が吹き抜けた。
俯く(うつむく)僕の背中に温もりが置かれる。
振り向くと瀬那さんの柔らかな微笑みがあった。
そのまま、その掌は僕の髪をやっぱりくしゃくしゃにする。
澄み渡る青い空とゆっくり流れていく雲が、僕たちを祝福してるみたいだった。
雨はまだ降り続いている。
その音は激しく強くなり室内の僕と亜里沙を包む。
彼女の瞳のなかに僕は居て、その表情は言葉にすることの出来ない何かを湛えて(たたえて)いた。
そっと唇を触れ合わす。
彼女のキスはとても甘くて僕の唇を巧みについばむ。
温かい舌は優しく僕を搦め(からめ)取ってゆく。
胸の奥の深い場所に痛みが疾る(はしる)。
僕らが初めてくちづけを交わしたあの日。
君のキスは最初からとても上手だった。
遠い昔からまるで誰かと経験を重ねて来たように。
瀬那さんが大学進学を機に家を出て行ったのは、僕らのキスの2日後だった。
亜里沙のことを時々、小部屋みたいに感じることがある。
綺麗で清潔な、でも何ひとつないがらんどうの小部屋。
其処では良く磨かれた木製の床だけが、陽射しを反射して煌めいた光を放っている。
旅立った大切な人だけを、沈黙のなか待ち続けるワンルームの綺麗で小さく静謐な部屋。
僕はポスターの写真を見つめる。
外国の街角。
其処には見知らぬ無数の人々が存在して、誰に語られることもない物語を紡いで(つむいで)いるのだろう。
おそらくは懸命に。
亜里沙が僕を仰いで優しく微笑む。
染み入るようなその微笑は瀬那さんと同じで、僕の胸の奥に温かな灯火を燈してくれるそれが大好きだった。
強く、壊れてしまうかもしれない程に強く、亜里沙を包む腕に力をこめた。
「僕のこと……好き?」
震えている声で、そう訊きながら何故か脳裡に遠い街並が浮かんだ。
幼い日、眺めた彼方へずっと伸びている鉄路。
微かな汽笛の音がする。
揺れている風景のなか僕は堅く熱い枕木を踏み締めている。
到り着く(たどりつく)場所が何処なのか、懸命に探しながら……。
「……好きよ」
そう応えた彼女の瞳には僕が確かに映っている。
僕はそれを見つめた。
「貴方のこと……好きよ……」
陽炎のなか亜里沙の微笑みが揺れていた。
僕らは唇を合わせた。
傷つけあうように熱い舌が絡み合う。
何処かで遠い汽笛が鳴っているような気がした。
世界が夕暮れから夜へと移ろってゆく。
僕らの全部みたいな部屋を、僕と亜里沙と瀬那さんを、もう永遠に止まないかも知れない雨音と匂いが包みこんでいた。
愛はどんな形でも、やっぱり愛だと思います。
人は人を愛することだけは止めることは出来ません。
この物語が好きになってもらえますように…。
ありがとうございました。