プロローグ
「それで、なんでまた心理療法医の外山先生が今回の『第一次色彩口腔摂取検査会』の責任者に?」
事務員の男が問う。視線の先に見据えるのは、白衣を着ながらも、カウンセリングで得た情報やら子どもたちの雑談の内容やらを書き起こした紙束をまとめる男、外山だ。
「人手不足とか?」
「それは慢性的にあるね。だがもっと別の理由さ」
そもそも人手不足でなければ、外山だって子どもたちの心のケアを担当していないはずだ。彼は本来、薬等によって身体的な面から心のサポートをする医者なのだから。
親代わりとなり、薬だけでなく、日常の不安なことを相談されたり会話で癒してあげるというのも仕事の一貫なのは、もはや学校の保健室の先生だ。
「単純なことだ。この検査がリスクが高いものであり、なおかつ私が言い出しっぺなのさ」
男はびっくりした様子で、床を掃く手を止めた。
「あんたさんは悪魔なのか?」
「誤解はしないでいただきたい。リスクが高いなんて言われているのは、仮に子どもが死んでしまったとしたら親御さんから訴えられる可能性があるだとかそういうことだ。組織はそこを恐れているんだよ」
外山はコーヒーカップを手に取るも、掃除で舞い上がった埃が浮かんでいたのでやめた。
食べた離乳食の色に皮膚が変色する赤子が現れたのは、ここ20年で8名。彼らのその原理はわからないまでも、とにかく赤や黄などの色を摂ると身体に悪影響があることだけがわかっている。皮膚の変色の他にも鼻出血、腹痛、湿疹、嘔吐……など症状は様々で、予防策としては「白い食べ物のみを摂取する」他にない。
病気と呼んでいいのかさえわからないほど症例は少なく、今こうして彼らのために作られた施設も国のものではない。詳しいことを話すと時間がかかるため省略するが、ボランティア団体が運営している施設及び支援プロジェクトの総称が「透明な家族」である。
透明な家族は私を含めた四人ぽっちで発足した。
ーーまずはじめに、頼りになる男がいた。金のツテに困らず、温厚で優しい情に溢れた男だ。そいつがここを建てた。
「視覚からの摂取も毒になる」と、壁も床も窓枠も真っ白な施設を作った。
一階には学校の教室二つ分ほどの広さの部屋があり、普段彼らはそこで過ごすようになっている。部屋にある遊び道具は白い積み木に白い鍵盤だけのオルガン、白い毛糸と編み道具など……本に至っては白い紙だけを使うのは勿論、文字までもが灰色で構成されている。出来るだけ色に弱い子どもたちが健やかに暮らせるよう、様々なアイデアが施されていた。
一階にあるのはその部屋とふたつの洗面所(男女別の仕様である)、それに子どもは立ち入り禁止なキッチンと簡単な設備の病室。
教室の外、廊下から見えるのは白石や白い造花の小さな庭である。その向こうにはやっぱり白く高い壁があり、外の世界とは隔てられている。
地下に降りると一階よりもさらに広い部屋がある。真っ白な殺風景なのは一階の部屋と変わらないが、違うのは床に体操用のマットが敷き詰められていることだ。彼らはここで週に二回レクをしており、また自由に走り回る為の部屋でもある。学校でいうところの体育館である。
地下にあるのは体育館と小さな倉庫、それから職員の部屋と化した客室……そしてテレビ室。
それらの部屋からなるこの施設は、前述通りボランティア団体が運営するもので、頼りになる男が建てたものだ。
……だが永続的に彼らをここに閉じ込めておくのは、金銭的にも親の心情的にも無理があった。
「まさか今井さんがお亡くなりになるなんて思わなかったでしょう」
頼りになる男……今井康太は外山の昔からの友人であったが、1ヶ月ほど前に不慮の事故に遭い他界してしまった。彼からの支援なくしてここは運営できない。外山は悲しむ間もなく、透明な家族のこれからのことを考えねばならなかった。
「頃合いといえば頃合いだったのかもしれない。……子どもたちも、いつまでも閉じ込めておくわけにはいかないだろう」
「だから今回の検査会を提案した、と?」
問いに頷く。事務員はいつの間にか掃除の手を止めていたが、外山は何も言わなかった。
「でも、子どもたちは物心つく前からここにいたんでしょう?外の世界に出たいなんて思うものなんですか?」
「思うさ。色慣れのためのテレビがあるだろう」
彼らがいくら子どもと言えど、テレビの向こう側にあるのが、この家の外の世界だと気づかないはずがない。
ましてや親と連絡を取れる子どももいるのだ。自分達が小さな真っ白な施設のなかに暮らしていて、外の鮮やかな世界に憧れるのは全くもって普通のことである。
「残酷なものですね、外を知らなければ外に出ることを望まなかったかもしれないのに」
事務員のぼやきに外山は首をかしげた。事務員はさらにああ、と付け足す。
「だから、外に出たいなんて思わなければ、死ぬかもしれない食事会なんてしなかったのにって話ですよ」
それを聞いて外山は不気味に微笑んだ。
「君は何故、子どもたちの未来が暗いものだと決めつける?これは過去に例のない病だ。何をしたって結果はわからないんだ。彼らはひ弱な赤子から立派な青少年に育った。彼らが色つきの物を食べたとしても、私は特に問題ないとみているよ」
「そんなこと言って、万が一子どもが死んでしまった時、責任はどうやって取るおつもりですか」
「保護者と本人の許可は取る。保護者が望まないならそれは実行しない。だから責任は私一人だけでは取らないよ、あくまでも私は提案者であり、それを望むのは"彼ら"だ。」
事務員は口をつぐんだ。
「今井に頼れなくなった以上、金のツテが継続してここを支援してくれるかわからないんだ。募金の類いも試しているが、聞いたことのない症状の病なんてそう取り持ってくれない。国に頼れば子どもたちは今以上に自由を縛られる」
決断の時が来たんだ、とまで言い、ハンカチで自らのでこを拭う。
しばらくの間、沈黙が流れた。そのしばらくの後に、事務員は気を抜くように小さく息を吐いた。
「……貴方が真剣なことはわかりました。悪魔だなんて言ってすみませんでした。全部うまくいくといいですね」
外山の勢いに気圧されたのか、眉をハの字に下げて掃除を再開する。
もうお喋りは終わりか、と外山も手に持っていた紙束をとんとんとまとめ直す。その手は汗をかいており、紙束の端がしなってしまっていた。
やがて掃除を終えた事務員は、コーヒーを淹れ直すとおずおずと差し出し、外山の顔色を伺った。数秒かけて両者ともかたまっていた口角をほぐし、男二人で微笑みあうなんとも言えない空気が漂う。
「……検査会の結果によって、子どもたちはどうするんです?外に出して終わり、ではないでしょう」
現実的な質問。
外山は貰ったコーヒーをすすろうとして、やめた。かちゃりと陶器のカップが直にデスクへと置かれる。
「両親がいるものは両親の元へ返す。いないものは本人の希望も聞くが、基本的には里親の下へ出すつもりだ。万が一病室暮らしになった場合も両親に支援してもらう、いなければ私が支援する」
万が一、という言葉に事務員はもう突っ込まなかった。
彼も恐れてはいるのだ、子どもたちを失う可能性がゼロではないことを。
問題ないとみている、だなんて口では言っても、自分でも解けなかった病なのだ。
むしろ病ですらないのかもしれない、よくわからない現象を一番間近で研究してきた彼がこの決断をするのに、どれだけ苦しんできたことだろう。友人をなくし、金に困り、追い込まれた末の苦渋の決断なのかもしれない。
彼を責める権利など自分にはないのだ、と事務員は気づく。
「……もうすぐ三月ですね。無事に全員ここを出ることが出来たとしても、お花見会くらいは一緒にしましょうよ」
外山はぬるくなったコーヒーをくっくと煽り、空にしたカップを男に手渡すと困ったような顔で笑った。
「そうだな」
それだけ言って、よれた紙束を手に取り仕事へと戻った。
さいた、さいた、チューリップのはなが。
ならんだ、ならんだ、
しろ、しろ、しぃろ。
「エニモニ、あまり外にいると風邪を引くぞ」
ご機嫌に歌を歌いながら花を眺める少女に声をかける少年。開けた窓から入ってきた風で、細く結わえた白い髪が揺れた。
「和香くんご機嫌よう!久しぶりのくもりだったから、お庭に出れるのが嬉くって!」
陽気な少女のふわふわの白い髪が揺れる。
今現在、子ども達が唯一出れる外の世界。
それがこの小さな庭だ。
庭自体は白い壁に囲まれているが、その壁と施設を繋ぐ天井は磨りガラスでできていて、曇りの日なんかは白いもやもやとした光が降り注ぐので、上を直視しても問題ない。
エニモニはこの庭が好きだった。
「今は白いお花しかありませんけど、お外に出たらいろんな色のお花が見れるんですわよね、それにお洋服だって……」
キラキラと瞳を輝かせる少女と対照的に、少年の瞳は濁りを増していった。
「なんでもいいけど、はやくうちに入りなよ。いつまでもそこにいたら寒いでしょ」
言い終わるとほぼ同時に、エニモニは小さくくしゃみを飛ばした。
言わんこっちゃない、と少年は外に手を差し出し、その小さな手を握って引いた。
和香のすぐ後ろにはまた別の子どもがいたらしく、背後から小さく「わっ」という声が聞こえた。振り向くと気弱そうな男の子が胸の前で両手を擦り合わせていた。
「……どうしたの、いぶき」
「や、えっと、その……色んなお花……」
もじもじと後ずさりする彼。
そのままうつむくので、和香は小さく息を吐いた。
それに気づいたエニモニはにこりと笑い、彼の手に摘んだ白い花を握らせた。
チューリップのような形をしているが、茎も白色で粘りはない。
「いぶきくんも、お外に出たら一緒に色んなお花を見ましょうね!」
いぶきがはっとしたように瞳を輝かせ顔を上げると、その細く白い髪も一緒に揺らめいた。
「ありがとう、ございます……。あと、その、そろそろ夕ごはんみたいです……」
小さな声でおずおずと二人にそう伝えると、ぎこちなく笑ってみせた。
「そう、じゃあ他の皆も呼ばないと。……二人は先に部屋に戻ってて、僕は他の皆を呼んでくる」
「茶太郎くん、とても上手じゃないか。それは何て名前のお魚だい?」
いぶきとエニモニが部屋に戻ると、からだの大きな男の子二人とからだの細い女の子一人が床に座って何かをしていた。
「名前?こいつには魚って名前があるから、オイラは名前はつけないぞぉ」
「ふふ、確かにそうだったね。茶太郎くんは相変わらず賢いなあ」
茶太郎はもこもこの白い髪を揺らしながら笑ってみせた。
「よっしゃオレも完成!でっかいサメだぜ!」
もう片方の大きな男の子が手をばちんと鳴らす。
「おや、ぼくにも見せてごらん?」
少女が耳に白い髪をかけるも、それがこぼれて揺れる。気にせず紙をすくって見ると、そこには灰色のクレヨンで描かれたダイナミックな魚がいた。
「せいがは本当に絵が上手だね、ぼくは本当にキミの絵が大好きだよ」
少年は顔を火照らせ、頭を勢いよく掻いた。
白いヘアバンドから覗く短い白色の髪の毛がバラバラと揺れる。
「まあ!せいがくんも茶太郎くんも素敵な絵ね!」
いぶきの手を引きながら三人のもとへ駆け寄るエニモニ。それに気づいた細身の少女は、はたと視線を部屋に巡らせた。
「そうか、そろそろ夕ごはんの時間か。ここを片付けて机と椅子を出そう」
「さっすがラミルちゃん、話がはやいですわ!」
「力仕事はオイラの出番だねぇ」
皆それぞれ声を出しながら準備を進めていく。
その様子はやはり昔からずっと一緒にいた仲なのだと誰もが見てとれるだろう。
「なー、あと三人くらい足りなくねえか?」
せいがが間延びした声でそう呟くと、いぶきがその三分の一ほどの声量で返す。
「そ、そろそろ、来ると思います……」
おうそっか、とだけ返し、重たそうに机を引きずるいぶきにひょいと両手で助け船を出した。
チーズ入りクラムチャウダーのいい匂いが、施設中に漂っている。
「……やっぱりここにいた」
テレビ室では二人の少女が身を寄せあっていた。……片方はどう見ても寝ているようだったが。
「ちょ、ちょっと、幸はなんで腕輪してないのさ」
和香が慌ててドアを開けて二人を問いただすも、起きている方の少女がしぃと指を立てるだけであった。
「そない大きな声だしたら、幸ちゃん起きちゃうやん」
「そろそろ夕ごはんなんだけど」
「わーってるって、今ちょうどエンタの女神がいいところなんや、あと五分」
テレビ室は唯一外の世界の色んな色を視覚的に摂取することが許されている部屋で、1日1時間までという縛りがある。
一時間経ったらアラームで知らせてくれる腕時計を必ずつける決まりなのだが、少女の肩でぐっすり寝ている彼女の腕にはそれがなかった。和香は起きている少女をじっとりと睨む。
「約束破っていいわけ?来海」
「最初の五分で寝てるんやからノーカンや」
忠告などおかまいなしにテレビから目を離さない来海。和香は今度は大きなため息をついた。
「……なあ和香くん、なんで今度の色つきご飯会、反対なん?」
突如として飛んできた予想外の問いに、目を丸くしながら来海を見つめる。本人は「なんか飽きてしもたわ」とテレビを消し、手持ちぶさたの手で幸を撫で始めた。
「別に反対なんかしてないけど……命が関わることに対して、来海が能天気すぎると思ってるだけだよ」
「いろーんな食べ物、いろーんな匂いがして、いろーんな味がするんやで。気になるのが普通やん、それに……」
撫でる手を止め、優しく背中を叩いて幸を眠りから覚まさせた。
「くるちゃんは結構楽しみやで!外の世界でもしたいことたっくさんあるねん!」
あまり上手ではない関西訛りで喋る。和香は「知ってる」とだけ返して幸に視線をずらした。
「……くる、みちゃ……わかく、ん……」
寝起きだからかびっくりしたからなのか、目にじんわりと涙を浮かべてぼうっとした表情でぽつぽつと呟く幸。だぼだぼの袖で前髪を整えていた。白色のふわふわした髪が揺れる。
「……夕ごはんの時間だって。行くよ」
「よし、幸ちゃん行こか」
来海は幸の手を引いて勢いよく立ち上がった。
耳の位置で結ばれた、やっぱり白色の髪は、寝起きの相方を気にせずきゃっきゃと走り出す少女の足音に合わせて揺れた。
いつもの日常。
いつも見ている風景。
いつだって白色に埋め尽くされていて、彼らが知っている色は己の瞳の色と、色慣れのためにそれぞれに所持することを認められたほんのひとにぎりの色しかない。
あの画面はどうだろう。
あの画面の向こうに広がる、鮮やかなものたちは。
ここにいる子どもたちとなんら変わらない形をしていながら、その色だけが違う。
……違う、けれど、そうではない。
まだ彼らは色を知らないだけだ。
知ってしまえばなんてことのない、素晴らしい世界の仲間入りができる。皆一様にそれを望んでいるしそれを信じている。
きっとそうなのだ。
きっとそう。
「エニモニ、来海、いぶき、和香、せいが、らみる、幸、茶太郎。それに今井も……そう思うだろう?」