ある恋物語の祖 ~食人鬼辺境伯と無痛症の令嬢~
・あっさりにしたつもりですが食人描写、死ネタがあります、ご注意下さい
・グールの設定はwikipediaより
アンソロ=ポファジズム辺境伯二十八歳は、自分を遠巻きにしてひそひそと囁く優雅な貴族達にいらついていた。アンソロが何もせずとも怯えるものたち、少しでも近づけば情けなく声を漏らして震え上がり逃げてゆくものたちに、この上無く苛立ちを覚えていた。これだから王都に戻るのは嫌だったのだ。
自分が畏怖の対象であることは十分過ぎる程分かっていた。
アンソロは食人鬼である。食人をたしなむ人間の比喩ではなく、グールという種族そのもので、体色と姿を変えられる悪魔であり、それに何より人間を食べる。
恐れられない訳が無かった。
せめて外見だけでも恐れられないようにと、アンソロは昔からすらりとした細身で美しい、黒髪に紫の瞳の姿を取ってはいるが、その美麗な見目により何も知らないご婦人に気に入られることはあっても、いざアンソロがグールだと知るや否やすぐさま逃げられ二度と近づく事を許されなくなる。
アンソロはグールだが、食事が人肉なだけで他は人間として育ち、心は人間のつもりでいた。心が傷付かない訳ではなかった。
故に怯える貴族たちに文句の一つでも言いたくなった。一体誰のお陰で自分達が安穏と暮らしていられると思っている……!
アンソロは辺境伯であるゆえに辺境を守護している。領地は王国の最南端で、代々、もっと南の砂漠より王国支配をもろくみ侵攻して来る蛮族どもを退ける役目を果たして来た。時に蛮族どもを捕縛しその肉を喰らい、時に片腕、片足などのみ喰らって逃がし我が領土への畏怖の気持ちを植えつけ戦意を喪失させる。そんな日々をアンソロも過ごしている。
国防という意味で、ポファジズム家は無くてはならない存在である。
だがこの扱いはどうか。
王国ではポファジズム家はじめグールはきちんと一国民として認められている。だが一個人がグールに向ける態度まで国が何かをしてくれる訳ではない。
無き父は『人々に忌み嫌われても、ただひたむきに国を護り、誰より忠実に王に尽くし御使えしなさい』と言葉を残すのみ。アンソロとしてもそれに異論は無い。人を喰らうものが他に存在を許されるところなど無いのだから。何よりアンソロは現国王を崇拝していた。学徒時代を共に過ごした方であるが、人としても王としても尊敬に値する素晴らしいお方だ。剣を捧げるに相応しい。
だが、アンソロは切実な問題を抱えていた。
嫁がみつからないのである。
アンソロは辺境伯で、この国では辺境伯と言えば異民族と接しているため、他の地方領主よりも広大な領域と大きな権限が与えられており、身分と言えば他の伯爵家より格上、伯と付いてはいても侯爵家に相当している。決して悪い家柄ではなかった。
だが、一体どのような女性が、皿に人肉入りのスープを盛る者と同じ食卓につきたいと思うだろうか?
王に所用で召還されて、たまにはと舞踏会に強制参加させられるがこの通りである。会場を歩けば人が割れ、ただ遠巻きにひそひそと不快なささやきが聞こえるばかりだ。嫁探しの場にすらなりようがない。
アンソロの足は自然と、他人の邪魔をせぬように庭に出る事を選んだ。人の中で恐れられるよりは孤独でいたほうがまだ良い。
少し頭が冷えてきた。彼等が悪い訳ではない。自分だとて、もし誰かにグールの肉を食べろと言われれば鳥肌が立ち怖気が走るだろう。だから、彼等がアンソロに感じている感覚は生物として当たり前のごく自然な感情だ。恨むな、怒るな、ただひたむきに誠実に利益を供給すれば、見てくれるものは必ずいる。父はそう教えてくれた。
頭の中でそう考えながら月の光の下ふらふらと時間をつぶしていると、ふと血のにおいがした。グールの嗅覚は人間より敏感だ。――特に血の匂いに対しては。
――こんな場所で、何だ?
万一賊でも潜んでいれば大事だ。アンソロは暗闇に目を凝らす。
庭の先に、一人の令嬢がいた。手を負傷しているようだ。
夜の庭のベンチに座って、レースのハンカチに包んだ手を反対の手で圧迫しながら高く掲げているが、それでも止血が間に合わず赤いしずくがぽたぽたと滴り落ち地面に吸い込まれている。少し困り顔の若い女性。だがこの美しさはどうだ、月の光の下で長い金の髪がゆらめいて、まるで神話の中のひと幕のように見えた。
数瞬見惚れていたアンソロは、はっと気を取り直して声を掛ける。
「失礼、お怪我をなさっていますねお嬢さん、私は治癒魔法が使えます、手当てをさせていただいても?」
アンソロは不躾を承知で名乗らずに治癒を申し出た。自分の顔を覚えられているかは知らないがグールの辺境伯の名は有名だ。怯えられて逃げられてしまっては治せるものも治せない。
「あら、ご親切にどうもありがとうございます」女性は柔和な笑顔をアンソロに向けた。「空気を吸おうと庭を歩いているうちにいつの間にか怪我をしてしまいまして、助かりますわ」
暖かな雰囲気の声だった。アンソロがあまり掛けられた事の無いような和やかな声の様子に、心が少し温かくなる。アンソロはこの令嬢に好感を持った。
傷を見せてもらうとぱっくりと綺麗に長く切れていた。そこにアンソロが手を翳すと、ほわり、と薄黄色の光が現れ、令嬢の傷をふさいだ。暗くてよく分からないが、痕も残らないはずだ。
「まああ……、綺麗に治りますのね、本当にありがとうございます、このままではドレスを汚してしまう所でした」
アンソロは自分のハンカチを取り出し水魔法で濡らして令嬢の肌の汚れをぬぐった。
アンソロは彼女の指の、腕の、血を見て。
絶対にいけないとよく分かっているはずなのに、まるで重力に従うように引きつけられてその指を咥えて舐めてしまった。後で考えれば信じられないような突飛な行動を取ったと思うが、何故か自分で自分に抗えず、その時はそうしてしまった。
グールの舌にその血は甘くとろけまろやかで、いつまでも舐めていたくなる味で。
数瞬、幸福に浸り続け、はっと我に返って失礼! と反射的に謝る。一体自分は何をしていたのだ!
「申し訳ありません! 若いお嬢さんに大変な失礼をしてしまった。このお詫びは……」
普段から自分を律している筈なのに、なんということだ。自分の迂闊な行動のせいで、グール全ての評判を地に落としてしまうかもしれない。アンソロは顔を青くして誠心誠意謝罪した。良き国民であろうと、人間から認められようと日々努力する誠実な他のグールの生き方に、後ろ脚で砂を掛けるような行為だ。
「もしかして、グールでいらっしゃるの?」興味を持った瞳で尋ねられた。
「はい、そうです」アンソロは眉根を寄せて頷く。
「まあ! 凄いわ!」 何故か令嬢は感激した。
「申し訳ない、つい無意識に、血を舐めるなどという非道をしてしまいました。いつもは気をつけているのですが、どうかしていたようです。どうぞお許し下さい、レディ」
「まあ、貴方様はわたくしをお助け下さったのですよ、どうか謝らないで下さいませ」
アンソロはほ、と胸をなで下ろす。グール全体の評判を地に落とす事態は避けられたようだ。
「その……、わたくし、グールの方とお会いするのは初めてなのですけれど、人間をお召し上がりになるというのは本当なのですか?」
「……本当です」アンソロは誹られる覚悟をしながら答えた。
「あの、武人でいらっしゃるのですか? 治癒魔法はお得意で?」
「得意です、戦いの中では必須ですので」
「まだ魔力がおありですよね」
「ええ、先程のでは消費したうちには入りません」
「ちょっと、私の指、お召し上がりになってみて下さいませんか?」
「は?」
何の効き間違いだ? 自分の耳はどうにかしてしまったのか? 思わぬ内容にアンソロはあらゆる可能性を考えた。
「いえ、あの、私世間知らずなものでして、人間を召し上がるのは本当なのかな、見てみたいな、と思いまして」
「駄目ですよ! 痛いでしょう」
「それがわたくし、無痛症という病でして、生まれつき痛みというものを全く感じませんの」
令嬢は自分の体質のことを語った。痛みを全く感じず、暑さ寒さも感じない、味覚も辛みは感じず、治る見込みは無く、痛みを感じないので危険を学習する力がひどく弱く、よく分からないうちにいつの間にか怪我をしてしまう。
普段は怪我をしないように家のものが常に傍にいるが今ははぐれてしまい、人に酔って外の空気を吸いに庭を歩いていると、植物ででも切ったのか、いつの間にか手がぱっくりと切れ血が流れていて困っていたと。
「わたくしの血を舐めた貴方様のご様子、とても美味しそうにしていらっしゃるわと思いましたの。空腹でおありではなくて?」
「確かに今日は何も口にしていませんが」
「痛みを感じないので、治してさえいただければ少し位お召し上がりになって頂いてもいいの。それに見てみたいのです、なんと言いましてもグールの方にお会いするのは初めてなんですもの!」
変わった体質の娘は変わった考え方をしていた。
こくり、とアンソロは無意識に喉を鳴らした。
そして、きちんとした意思の確認も取らずにかぷり、と彼女の指に噛み付いた。何故かそうするのが自然のことのように感じたし令嬢も許した。
その味はやはり蕩けそうに甘やかで、アンソロを何とも言えない幸福感で満たす。
いけない、と思って口を離して治癒魔法を使う。令嬢は指を第一関節分失っていたがみるみると再構成された。
「し、失礼しました。つい」アンソロは再び顔を青くして謝罪した。
何をしているのだろう。本人に言われたとはいえ、これではまるで犯罪者の行いではないか。誰かに見られでもしたら身の破滅にまで繋がるかもしれないのに。
この国では、南の蛮族の死体以外では、きちんと申請して許可された希望者や死刑囚や奴隷以外を食べるのは硬く禁じられていて、普通の人間に噛みつけば勿論犯罪だ。令嬢がどう言おうと彼女の父親はその気になればアンソロを訴える事が出来る。
「まあ、本当に人間をお召し上がりになるのですね!」しかし何故か彼女はこちらが拍子抜けする位に楽しんでいる。好奇心で瞳がきらきらと輝いていた。
「それに本当に指が治りましたわ、凄い! 治療魔術の腕が素晴らしいですわね、まだまだ魔力はお有りになるの?」
「ええ、まだまだ、消費したうちに入りません」
「随分美味しそうに召し上がっていらしたけれど、そんなに美味しいもなのですか?」
「ええ、貴女は、その……、――至高の味でした」
「まあ、この場合お上手、と言う言葉は当てはまるのでしょうか? まだお腹は空いていらっしゃるのですよね?」
「ええ、欲を言って良いならば勿論もっといただきたい、……ですが、御家の方がお探しなのでしょう? お帰りになったほうがいいのでは」
「あの、わたくしルジージア家の長女、アナと申します」
令嬢はたたずまいを落ち着け淑女の礼をして、名乗った。そう言えばまだ自己紹介もしていなかった事にアンソロはここで気づく。
「此方こそご紹介が遅れまして申し訳ありません、アンソロ=ポファジズムです。辺境伯の位を頂いております」
恭しく紳士の礼を返す。ルジージアは確か伯爵家だった筈だ。家の歴史もポファジズム家程ではないものの中々に古い。
「その、あの、女の身でこんな事を申し上げるのは大変不躾なのですが」
「はい」
「わたくしと、結婚して頂けませんか」
「はい?」
驚いて声がいつもより高くなってしまった。
まさかの求婚だった。
いわく、痛みを感じないゆえに危険を回避する力がつかずよく怪我をして、昔から家のものたちには大変な迷惑をかけ続けて来た、誰かがついていなければ自分は知らず知らずのうちに怪我をしていて家人は心が休まらず、そんな様子では当然のごとく縁談も無く嫁き遅れてもう二十一歳なってしまった、けれども嫡男である弟は適齢期を迎えていて、だがこんなこじゅうとめがいては嫁も来づらいであろうし可哀想だと。
「その、わたくし、痛みをさっぱり感じないので、本当に治癒していただければ幾らお召し上がり頂いてもかまいません、手軽なお食事の手段として、いかがでしょう? その変わりに、体質のために出来ない事だらけの女ですが」
「それは、その、こちらにとっては大変ありがたいお話ですが、本当によろしいのですか? 痛みはなくとも、気持ち悪かったり恐ろしかったりするのでは?」
「いえ、あの、その。――わたくしの血を舐めていらっしゃる貴方様のお顔、素敵でした」
本当に変わった令嬢だった。
赤く染まった頬を手で抑え、羞恥で目をそらして言う彼女を見て、アンソロの胸が高鳴った。美しかった。魅力的だった。惚れそうだ。いやもう既に惚れてしまったんじゃないだろうか。
だがグールの結婚は、相手に告げなければならない事がある。
「あの、断られるつもりで正直に申し上げますが」アンソロは言いにくそうに告げる。
「はい」
「グールは卵性です。グールである私の子は卵で生まれて来ます」
勇気を出して真実を告げる。彼女が発する次の言葉を聞くのが恐ろしい。
卵を産むなど、女性に取っては恐怖だろう。例えやっぱり結婚を断られる事になろうが、予め告げておかなければならないことだ。彼女を傷つけないために。
「まあ。わたくし陣痛に気づける自信がございませんの。わたくしにとっては、かえって助かる事だとと思いますわ。赤ちゃんより小さい卵ですわね?」
何でもなさそうにあっけらかんと令嬢は言った。
「そうですね、赤ん坊より小さいです」
「では、わたくし何も問題を感じませんわ」
ころころと鈴のように笑う。
こちらに都合が良すぎるとアンソロは戸惑ったが、同時に運命のようなものを感じこの胸が踊り続けている。彼女以上の相手など、この世界に存在しないのではないだろうか?
*
アナの母が二人を見つけるまで、二人は色々な話をした。アンソロが話した限り、アナはころころとよく笑い明るく、人格も考え方も何も問題無い、それどころか容姿だけではなく人格もとても魅力的に思えた。
じきにアナの母が彼女を発見して、アナはアンソロを母に紹介した。アンソロはアナが負傷していたので治療した事をアナの母に告げると、丁寧な礼を言われた。幸いにもアナのドレスは血で汚れていなかった。
明かりの元で見る彼女の瞳の色は暗いブラウンで、この色なら砂漠に近い我が領土でも目を痛める事はないなとアンソロは安心した。薄青や緑の瞳では砂漠の光は強すぎて目を開けていられない。明るい未来が急に現実味を帯びて近づいて来て、アンソロの心は羽根が生えたように浮わついていた。
++++
日を改めてルジージア家にアナとの婚約を申し込み、だがグールと言うことでアナの父にさんざん渋られたものの、誠意を込めて求婚に通い続け、「御息女がお怪我をしてもすぐに完全治癒出来ます!」という熱のこもった言葉と、彼女の腕に出来ていた古い傷の名残を綺麗に消して見せるパフォーマンスでとうとう許された。
それからは早かった。一度辺境に戻りはしたが、留守の間に溜まった仕事を片付け花嫁を迎える準備をしているうちにあっという間に結婚式の日になってしまった。式は華やかに王都でして、今、花嫁と馬車で辺境に向かっている。
使用人数人と、荷物を乗せた幾つかの馬車、そしてこれまでのアナの行動により負った怪我を説明したリストと、どんな行動をした場合どういう未来が予想されるのでさせないで欲しいという要望リストをアナの両親から渡されアンソロは苦笑した。
外に出れば怪我をするので、アナはこれまでの人生の中、あまり外に出るのを許されて来なかった。
なのでアナは今、見るもの全てを新しがって感激し続けている。この美しい新妻が何かに興味を示すたび、アンソロはそれに付き合い解説し気が済むまで眺めさせていた。ともすれば煩わしく感じるような頻度で上げられる「あれは何ですの!?」の声だったが、彼女のきらきらと輝く目が眩しくて実に楽しかった。
喜ばれれば、このグールの身も楽しくなる。彼女との旅は、彼女につられて何だかこちらまでうきうきと胸が弾むような旅だ。
アナはたまに、いつのまにか怪我をしていたが、それを治癒する事くらいアンソロには造作もない事だった。
そして辺境までの道中、彼女に与えてもらう肉のなんと美味い事か! 犯罪者である若い女性の肉を食べた事はあったが、こんなに極上の味はしなかった。アンソロは食事の時間がとても楽しみになった。彼女が食事をした後、アンソロが彼女を食す。比喩でなく。それはとても幸せな時間だった。
辺境にたどり着き、こちらでも披露宴をした。蛮族の脅威を知っている領民は、強く頼りになるグールの領主の結婚を心から祝福してくれた。
アナは新しい暮らしにもすぐに馴染んだ。それどころか新しいものを見聞きするたび、新たな体験をするたびに幸せそうで水を得た魚のようだと、こんなに活動的で幸せそうなアナ様を見た事はございませんとアナと共について来た使用人たちは皆言う。
* * *
何かの話の拍子にアンソロが砂漠の朝焼けは美しいと漏らせばアナが見たがり、風の無い夜に光魔法で足元を照らしながらアンソロは愛しい妻を連れ駱駝で砂漠に来た。
光魔法を消すと真の闇だったが、程なく少しずつぼんやりと世界の端がオレンジになり、夜の帳が少しずつ水色の空に変わり始め、見る間に空に金色が育ち始め、やがて姿を現す砂漠の太陽。
言葉通り息を呑む位美しい朝焼けに見蕩れる妻を日除けの布ごと後ろから抱きしめ、アンソロは妻に語りかける。
「本当に君は僕と結婚して良かったのかい? アナ」
「ええ、わたくし、とても幸せです」抱きしめたアンソロの手にアナは手を重ねる。「あなたと結婚しなかったら、砂漠の朝がこんなに美しいなんて知ることができなかった」
アナはアンソロの手の中でアンソロの方に向き直り彼の顔に手を当て、ふふ、と笑う。
「それにね、他の方から見たらとても奇妙なのでしょうけれど、わたくし、あなたが美味しそうにわたくしを食べるのを見るのがとても好きなのです」
「君は実際に、物凄く美味しい」
「わたくし、ほとんどの事を禁じられて育ちました。刺繍をすれば指を刺すから駄目、料理をしたいなんてとんでもない、知らずに火傷をしたり指を失ったりしたいの? と止められ、ダンスの練習も一度何故か足を酷く腫らしてからは母が見ている時以外禁じられてしまって、何も出来ないし何もさせてもらえないただのお荷物で……。
だから、アンソロ様がそんなに喜んで下さって、とても嬉しい。わたくしを咀嚼し血を啜っている時の貴方は本当に幸せそうで、わたくしまで幸せになるのです。
わたくしを必要としてくださってありがとう、わたくしという存在に価値を、役割を与えて下さってありがとう。大好きです、愛しています」
にこりと幸せそうに、白い薔薇が咲き零れるように笑うアナを見てアンソロは、この妻のすがたを、砂漠の朝焼けと同じくらい、いやそれ以上に美しいと思った。
そして、アンソロは何故か涙をぽろりぽろりとこぼした。
いい年をした大の男がである。
あらあらとアナに頭を引き寄せられる。
「アンソロ様もお寂しかったのですよね」よしよしと、この年下の妻に頭を撫でられる。
「貴方様が人を食べるように出来ているのは貴方様のせいではございませんのにね。忌避されるのは嫌ですわね。わたくし、良い家族はおりましたが、わたくしもどこかで寂しかった。――アナでよろしければ、ずっとお傍におりますよ」
「……ありがとう、いてくれ、アナ」
そうだ、自分は寂しさを感じていたのだ。
グールと恐れられ忌避される生活に。
決して人間から愛されない人生に。
それが今、この、こころにじんわり染み入る幸福はどうだ。
アナによって全て満たされた。
自分は、この美しいひとに愛されている。
グールだと知られても、許され、愛されて、あろうことか優しく微笑まれながらその肉を与えられる。
きゅ、とアナを抱きしめる手に力を込め、愛を込めて口付けをする。
「……愛している。君を放さない。君が望むなら、僕の知る世界をすべて見せてあげる」
言い慣れていない、だが心からの愛の言葉を、アナは綻ぶように、慈愛に満ちた瞳で喜んでくれた――――。
++++
アンソロはアナと約束したように、アナに出来るだけ色々なものを見せて廻った。アナはそんなアンソロの見せてくれる世界で思うさま好奇心を満たしその茶色の瞳を輝かせた。
領地視察の際には必ず妻を伴う領主、二人は大変仲の良い夫婦として領地の人民に広まった。
アンソロとアナはその後ずっと仲睦まじく過ごし、三男一女に恵まれ幸せな家庭を築いた。月日は過ぎ彼等の嫡男が辺境伯の座を継ぎ、さらに孫たちにも恵まれた。
* * *
アナが六十一歳のある日、アナの身体に病が見つかったが、魔術で治癒するには遅すぎ、アンソロの手には負えなかった。
「アナ、アナ、済まない。もっと早くに気付けていれば」
寝台に横たわるアナの頬に手を添えるアンソロ。
アンソロはグールなので変身能力により年若い姿も取れるが、相応のしわのある外見を取るようにしていた。アナと共に少しずつ年を重ねたその歴史を我が身に刻んでおきたかった。
「悲しまないで下さいアンソロ様。わたくし長く生きられないと言われていたのに、貴方様のおかげでこんなに長く生きる事が出来ました。
貴方様が見せて下さった世界は本当に素晴らしくて、籠の中の鳥のようだった結婚前のわたくしは、貴方様と結婚出来て、初めて羽ばたくことが出来て広い世界を知る事が出来た。本当に幸せものです」
「そしてね、そして、貴方様には悪いのですけれど、わたくし、貴方様がグールで本当に良かったと思っていますのよ。もし貴方様が人間だったなら、すぐに怪我をしてしまうわたくしのような女は、きっと見向きもされなかった」
「そんなこと……」あるだろうか。もし自分が人間であったとしても、アンソロはアナに恋をするような気がした。
「そして、わたくしもこんな体質で良かった。結婚前は我が身を疎ましく思った事もありましたけど、煩わしいでしょうに貴方様は嫌な顔一つせず、こんなわたくしの傷を何でもないことのようにすぐに治して下さって。
もしわたくしが普通の体質だったら、そんな貴方様の良さなんてきっと気付くことが出来ずにただ世間の噂のまま恐ろしがっていた事でしょう」
「だから、貴方様には本当に悪いのですけれども、もしまたこの世界に産まれる事が出来るなら、わたくしは今と同じ同じ体質で、貴方様も同じグールであったらいいな、なんて思ってしまうのです。貴方様がグールであることでお苦しみなのを知っていてですよ、酷い女でございましょう?」
「ああ、ああ、アナ、アナは酷い女だから、だから次もまたこのグールの妻になりなさい」
「ええ、きっと」
二人は少しだけ泣きながら笑いあった。
* * *
数週間後、アナは静かに息を引き取った。
故人の希望にも寄るがグールの近親者の人間の死体は、葬儀の終わりに身内で分け合いながら皆で食べるのが慣例だ。そうすることで故人は皆とともにあれる。
だがアンソロは、葬儀が終わるとアナの死体をどこかに隠し、子や孫に分け与える事もせずに独りで全て食べてしまった。そしてアンソロはそれ以後決して何も口にしようとせず、すぐに弱り、愛する妻の後を追うように息を引き取った。享年六十八だった。
グールの辺境領主と痛みを感じないその妻の、睦まじい恋物語はこの地方の昔語りとして後世に長く伝えられた。
読みにくいテーマでしたが、お読みいただきありがとうございました。自己満足でごめんなさい。
キャラ名をあまり目にしてない英単語からつけることが多くて、後書きに書こうとしてるんだけどいつも忘れます
analgia; analgesia アナルジア:アナルジージア 無痛(症)
anthropophagism アンソロポファジズム 食人