天竜出撃せよ!
昭和20年6月、日本の敗戦はもはや避けえぬ状況になっていた。そんな中、いまだ比較的空襲を受けていなかった北海道の標津飛行場で、新しい航空隊が開隊した。陸海軍混成第207飛行隊である。
同部隊は、ある航空機を運用するために編成された部隊である。その航空機とは、陸軍名キ93。海軍名陸上攻撃機「天竜」である。
後の時代、日本の陸海軍は内部対立が激しく、終戦に至るまで有効な協力関係を築けなかったと言われた。ただしこれは正確ではなく、大戦後期に入ると航空部隊などで陸軍の部隊が洋上作戦のために海軍の指揮下に入ったり、兵器の開発で協力し合うなど、全く協力しなかったわけではなかった。
陸海軍混成207飛行隊の編成と、「天竜」攻撃機の開発成功はそんな陸海軍の協力が非常に上手く行った例の一つである。
「天竜」の開発は、これより2年以上前の昭和18年初頭に遡る。当時陸軍の地上戦闘支援可能な機体としては、主力襲撃機として固定脚の99式襲撃機があり、他に双発軽爆撃機の99式双軽爆撃機や98式直協機があった。
しかしこれらは登場から既に3年以上が経過している機体ばかりで、性能面での見劣りがしていた。特に爆弾搭載量など、パンチ力の不足は深刻だった。この頃陸軍では、ヨーロッパ戦線でソ連軍が登場させた襲撃機IL2やドイツのJu87の改良型の情報を入手しており、さらにソロモンやニューギニアで対峙したB25やA20など米攻撃機の大きな爆弾搭載量も、身をもって体験していた。
そのため、帝国陸軍ではより大きな打撃力を搭載した襲撃機の設計に取り掛かった。しかしながら、この頃戦局は日本側に不利になって来ていた。そんな情勢下であるため、兵器の開発にも効率化が求められ始めていた。
航空機の陸海軍における開発の統合もその政策の一環であった。ただし、そもそも日本の陸海軍はそれぞれ源流とする航空技術がそれぞれフランスとイギリスと違い、航空機の艤装や航空機に求められる性能や構造も根本的に違っていた。
一方で、作戦の都合上から陸海軍がそれぞれの機体を融通し合ったあり、計画したことはそれまでもあった。例えば陸軍は海軍に零戦や「彗星」の供与を受けようとした。海軍は97式司令部偵察機や100式司偵を自軍の装備に編入して運用していた。
だから、新たに計画された襲撃機を陸海軍共用機として計画することは、困難が伴うことであったが、決して不可能な話でもなかったのである。
キ93と言う陸軍式の開発記号が割り振られたこの機体は、特徴として日本の機体では珍しい大口径砲搭載機として計画された。それまで二式双発複戦の「屠龍」が胴体下に37mm砲を搭載した例はあったが、キ93ではこれが一気に57mmにまでスケールアップした。
海軍がこのような機体の開発に協力する理由に首を傾げる人もいるかもしれないが、このキ93は確かに大元の計画では襲撃機であったが、そのコンセプトには多用途機としての開発も含まれていた。すなわち、攻撃機や双発戦闘機へ転用が容易ならしむることである。
日本海軍では双発の攻撃機としては、96と1式陸攻が使用されてきた。さらにこの時点で陸上爆撃機「銀河」が既に開発中であった。しかし、これらはいずれも攻撃機や爆撃機であり、他の用途への転用は利かないものであった。
また既に運用中の夜間戦闘機「月光」はあくまで間に合わせの機体であり、やはり他の用途への転用は困難であった。
キ93は大砲を降ろして雷撃機や夜間戦闘機として運用できる見込みがあった。大砲を積んだとしても、対爆撃機用の重戦闘機や対舟艇戦闘に投入できるなど、使える幅が広いと見込まれていた。だから海軍としても、大いに魅力のある機体であった。
キ93はこうして陸海軍双方の技術によって開発が進められた。すなわち、陸軍の第一航空技術研究所と海軍の航空技術廠双方から技術者が派遣され、また設計に関してのデータを得る設備も、双方の設備が使用された。このため、機体の設計と試作の開始は他の機体に比べて早いペースで進捗した。
同機にとって幸運だったのは、設計開始が昭和18年前半と、戦局は悪化しつつあったが、まだ致命的な影響が出るところまで行っていなかったことだ。このため、同機は他の設計機が人員や資源不足で開発スケジュールが遅延する中、なんとか設計開始から10ヶ月後の昭和19年初頭には初飛行を行うことが出来た。
この時点でキ93には愛称として「天竜」と言う名が付けられていた。天と言う名前を付けているのが、この機体に対する陸海軍の期待の高さを窺わせる。実際、同機は昭和19年3月のテスト飛行では、最高速度624kmと、同じく開発が進んでいた四式戦闘機「疾風」なみの速度を記録した。
この結果に狂喜した陸海軍上層部は、同機の大量生産を下令した。しかし、同機の受難はここからが本番であった。
キ93は新型機で高性能を狙ったゆえに、新型の発動機であるル214を採用、プロペラも日本機としては異例の6枚翼を採用していた。しかしながら、こうした新機軸は当然ながら初期不良を頻発することとなった。
キ93は最高の状態では素晴らしい性能を発揮したものの、その後の実用試験ではトラブルが頻発し、戦力化がなかなか出来なかった。
こうした状況に、一時期は試作中止も検討されたが、幾つかの理由から見送られた。一つに、昭和19年中ごろから本格化した本土空襲があった。敵の主力爆撃機であるB29には、在来機の性能では明らかに不足しており、対戦車砲を搭載して強力な発動機を搭載したキ93はその迎撃機としても有望であった。
さらに海軍としては米軍の侵攻が本土に近づき、水際での敵侵攻軍への反撃戦闘が頻発するようになると、そうした沿岸部における対舟艇攻撃に57mm砲が効果を発揮すると見ていた。もちろん、陸軍とともに、自軍戦車や速射砲での撃破が困難な敵M4戦車へ強力な一撃を放てると言う点も大きかった。
このため、実に初飛行から量産型機のロールアウトまで8ヶ月あまり、さらに部隊配備後の実戦参加まで3ヶ月と言う長きの時間を要した。
キ93が最初に配備されたのは、フィリピン戦線における陸軍航空隊の3機であったが、この内1機は早期に空襲で消失。さらに1機が前線の劣悪な環境を起因とする事故で、短期間で残存1機となった。
しかし、この1機は喪われた2機を部品取りとしてその後長く米軍戦車部隊や沿岸部の小型艇への襲撃に用いられて、かなりの戦果を記録している。
一方海軍としては、横須賀海軍航空隊に実用試験機4機が11月に配備され、B29や艦載機への迎撃に用いられた。こちらも、当初想定した性能を発揮するのに苦労するなどしたが、短期間にB29を20機近く撃墜するなど、大活躍した。
こうした大戦果に加えて、本土決戦すら間近になったとあっては、大量生産しないはずがない。陸海軍は製造元に立川飛行機を指定して大量生産に掛かった・・・・・・のがあまりにも遅すぎた。本格的な生産を開始した昭和20年初旬は、既に戦局の悪化は目を覆わんばかりのレベルであった。
空の戦いに目を向けても、燃料の不足からパイロットの養成は進まず、資源不足や相次ぐ天災、さらには本格化した本土空襲によって航空機の生産は地に落ちていた。
昭和20年2月時点で生産を完了していたキ93こと「天竜」はわずか20機あまりに過ぎず、もちろんこの数では戦力化など不可能だった。
それでも、「天竜」は戦闘機に次ぐ最優先生産機として、生産が急がれた。そして、なんとか部隊運用可能な48機が揃ったのが、昭和20年7月であった。
この部隊運用可能な「天竜」が集結した部隊が陸海軍混成207飛行隊であり、展開した飛行場が標津飛行場であった。
どうして帝国陸海軍期待の新鋭機が北海道などという戦線から離れた基地に展開したかと言えば、まず第一に前線から離れているため敵の襲撃を受けにくいこと。陸海軍上層部の考えとしては、10月以降に実施される連合軍による本土上陸時にこの部隊は運用する予定であったから、それまでの部隊の錬成を、本土では残り少ない安全地帯で行う腹だったのだ。
この1年ほど前、本格的な本土攻撃を警戒した陸海軍では、マリアナや中国本土からのB29の来襲を警戒し、疎開ならびに訓練用の基地を北海道に整備していた。標津飛行場もその一つであった。
同基地には潤沢とは行かないまでも、この時期としては比較的恵まれた量の航空用ガソリン、燃料、機材、弾薬が航空隊の運用開始までに備蓄されており、また集められた人員も残り少ないベテランや、若手でも成績優秀者で占められていた。
ちなみに陸軍出身のパイロットは主に双軽や複戦からの転科者が、海軍からは主に夜間戦闘機のパイロットや水偵出身のパイロットが転科して充てられた。
さらに、護衛戦闘機として陸軍からは四式戦闘機「疾風」が12機。海軍からは「紫電改」12機が提供された。こちらもこの時期としては比較的まとまった数の機体数とパイロットが集められたのである。
第207混成飛行隊は、来るべき連合軍の本土上陸の際には、本土各地に設置された秘密飛行場を移動して敵の航空攻撃を回避しつつ、房総半島沖に上陸する敵、或いは上陸後の敵陸上部隊を襲撃する予定であった。
このため、同部隊の訓練は主に陸上目標や、湖に浮かべられた舟艇を模した標的への攻撃訓練が主となり、これに対戦闘機訓練などが従として行われた。
この時期の航空隊であるがゆえに、特攻も想定されていたが、九州を拠点とする「芙蓉部隊」と同じくそれはあくまで最後の手段であり、部隊の主戦術としては反復の通常攻撃が想定されていた。
帝国陸海軍上層部の認識としては、この混成207飛行隊は「芙蓉部隊」や厚木の302航空隊、大村の343航空隊、疎開中の244戦隊などとともに本土決戦時の決戦兵力として期待されていた。
しかしながら、既に日本を巡る状況は最悪な所まで来ていた。日本本土は連日のように押し寄せるB29やP51、さらには本土周辺を遊弋する機動部隊から発進する艦載機の空襲にさらされ、都市、軍需工場は壊滅の危機に瀕しており、交通網もズタズタになっていた。
南方からの資源ルートは途絶えて久しく、わずかに満州国や朝鮮、黄海沿岸部の占領地域などから日本海経由で資源を運び込むのが精一杯と言う所まで追い込まれていた。
そして7月下旬には北海道も室蘭や函館が相次いで爆撃や艦砲射撃を受け、もはや安全地帯とは言えなくなっていた。それでも、標津飛行場は空襲を受けることもなく、第207飛行隊の隊員たちは貴重な燃料をやり繰りして、臥薪嘗胆の想いで訓練を続けていた。
そんな207飛行隊が、いよいよ戦う時が来た。と言っても、それは想定していた本土に上陸する連合軍が相手ではなかった。脅威は突如として、来たからやって来た。
8月8日、米英との密約の下で満を持して侵攻準備をしてきたソ連軍は、中立条約を一方的に破棄すると満州や樺太南部へと侵攻を開始した。
満州をこれまで守ってきた関東軍は既になく、国境周辺の日本人移民は軍の庇護をほとんど受けられず、悲惨な状況を呈することとなった。そしてこの満州に侵入したソ連軍に対して、もはや日本軍がとり得る増援はなかった。
一方、同じくソ連軍が侵入した南樺太については、少しばかりの希望があった。この時北海道には一部の戦力が展開していたからである。そしてその中には、当然ながら標津飛行場の第207飛行隊も含まれていた。
さらにこの時、千島列島の幌筵島には戦艦「長門」と重巡「利根」、空母「隼鷹」が、択捉島単冠湾には軽空母「龍鳳」と軽巡「酒匂」が。根室には軽巡「北上」。稚内にも4隻の海防艦が停泊していた。いずれの艦艇も、やはり本土決戦に備えた戦力温存のため、予め疎開されていたもの。或いは満州や樺太、千島列島からの通商路保持のために残された、最後の海上戦力であった。また一部の艦艇は、皮肉なことにソ連に和平仲介の見返りとして売却を前提にしていた艦まで含まれていた。
もちろん、これらの艦艇が停泊する各泊地には、各艦艇が本土沖合いまで最低1回は航行できる燃料と1回戦分の弾薬が備蓄されていた。
だから、これらの戦力が一斉に動き出せば、ソ連軍の撃滅は不可能にしろ、一矢報いることは充分に可能であった。
しかしながら、大本営は当初このソ連参戦に対して北海道や千島周辺の戦力を動かそうとはしなかった。その理由は、当たり前だがこれら戦力が本土決戦に用いるための戦力だったからだ。
だが9日に長崎に原爆が投下され、さらに昭和天皇がポツダム宣言の受諾の意思を示されると、状況が変わり始める。大本営内に残存戦力の積極的使用を唱える声が抗戦継続派ならびに和平派双方から出始めたからだ。
抗戦継続派としては、本土決戦を前にしてソ連軍が本土の目と鼻の先の樺太に侵攻していることは、非常にマズイ事態であった。ここでソ連軍を止めないと、来るべき本土決戦は当初の計画に齟齬を来たす事態となる。
一方和平派からしてみれば、ここでソ連軍に樺太を取られると、降伏後の領土保全に大きな禍根を残す可能性がある。
加えて、双方ともに条約を一方的に破った上に王政を否定する共産主義者への嫌悪度と警戒度は高かった。
その他にも色々と理由はあったが、そうした理由が総合して幾つかの部隊に対して樺太方面に侵攻したソ連軍への出撃命令が出された。もちろん、対戦車攻撃機としての性能を持つ「天竜」を装備する混成207飛行隊にも出撃命令が出された。
8月12日黎明、稼動する「天竜」31機は護衛の「疾風」と「紫電改」14機に守られて標津飛行場を離陸し、まずは樺太の最大都市豊原近郊の飛行場へと進出した。この時点で、豊原周辺の制空権はまだ守られていた。
豊原の飛行場には、当然ながら207飛行隊のための砲弾や爆弾の備蓄はなく、燃料の補給と連れて来たわずかな整備兵による簡単な点検しか行えなかったが、それにもめげず207飛行隊は南下するソ連軍への攻撃のために、北の空へと飛んだ。
8月12日午後。ついに、第207飛行隊によるソ連軍に対する攻撃が開始された。
「露助に鉄槌を下してやれ!」
パイロットたちは、ソ連軍の車列や車両を見つけると、容赦なく57mm砲による砲撃と搭載してきた爆弾による爆撃、さらには機銃による銃撃を見舞った。
「ヤポンスキーのシュトルモビクだ!」
全く想定していなかった日本軍の襲撃機の登場に、地上のソ連兵たちはショックを受けた。特に対戦車火器が貧弱であったため、ほぼ無敵であった戦車や装甲車が意図も簡単に爆砕されていく光景は、悪夢に近かった。
さらにソ連軍にとっての不幸は、地上部隊を守る戦闘機の数が少なかったことだ。と言うのも、多くの機体がこの時樺太東岸に現れた日本艦隊への索敵と攻撃に狩り出されていたからだ。
この日本艦隊とは、幌筵を出港した重巡「利根」、駆逐艦2、海防艦1のグループと、択捉島を出港した軽巡「酒匂」駆逐艦1、海防艦2、敷設艇1からなるグループであった。
いずれも往時の連合艦隊から比べれば、ささやかな希望の戦隊と言うべき部隊であったが、最大で巡洋艦しかもたず、主力は駆逐艦や砲艦、フリゲートしかないソ連海軍にとっては、こんな小艦隊ですら大きな脅威であった。
そして、この部隊が出撃した報が潜水艦から入ると、沿岸部で活動していたソ連軍艦船はパニックに陥った。何故ならこの時、巡洋艦に抗せられる戦力が樺太周辺になかったからだ。
そのため、ただでさえ貴重な空軍力はこの日本艦隊の発見と攻撃に割かれてしまい、主に地上部隊を援護するのは戦闘機だけとなった。その戦闘機さえも、航続距離の弱さが泣き所となり、長時間は上空に張り付いていられないと来たのだから、ソ連地上軍はほぼ丸腰でキ93「天竜」の攻撃を受けることとなった。
キ93「天竜」は先にも述べたとおり、57mm砲を搭載した襲撃機としても利用可能だが、同砲を搭載してもなお500kg程度の爆装が可能であり、さらに同砲を降ろした場合は最大で1t程度の爆装が可能であった。また機銃も装備しており、戦車から歩兵に至るまで攻撃可能であった。
さらに、夜間戦闘機などへの転用も視野に入れていたため、爆撃機程度の相手なら、充分に空戦で対処できるポテンシャルも秘めていた。
そのキ93「天竜」が約30機。毎日ソ連軍への襲撃に出撃した。たかが30機。されど30機。国境線を突破し、雪崩のごとく進撃していたソ連軍は「天竜」の空襲の前に進撃速度を大幅に落とさねばならなかった。
一方一時的にせよ航空優勢が出現した間に、民間人は次々と大泊・豊原方面へと避難を始めた。また現地駐屯の守備隊は、再編成や陣地構築を行い、航空援護の元での反撃を果敢に行った。
樺太上空に舞う「天竜」が南下する味方避難民や、戦い続ける守備隊将兵にとって、自分たちの頭上を守る竜のごとき存在となった。
そして出撃した水上艦隊も、ソ連軍の爆撃で駆逐艦1隻を喪うなど犠牲を払ったが、樺太沿岸に展開してソ連軍艦艇や輸送船、さらには沿岸部の敵陸上部隊に対する艦砲射撃まで実施し、ソ連軍に大打撃を与えた。特に多くの舟艇や輸送船を撃沈されたことは、この後に計画されていた千島侵攻に支障を来たすものだった。
8月15日、天皇の聖断によって日本はポツダム宣言を受託、実質的に戦争はこの日で終わったと言えるが、一部の戦線ではなお激しい戦闘が引き続いていた。主に米英軍と対峙する各部隊は、米英側の攻撃が止んだこと、さらに大本営からの停戦命令によって次々と戦闘が終結していた。
しかしながら、ソ連軍と戦闘を行う満州や千島では事情が違っていた。こちらでも、日本側は戦闘停止を行った部隊はあるにはあった。しかしそうした部隊の多くは、戦場から離れた場所に位置する部隊ばかりで、ソ連軍と戦闘を行っていた部隊は、なおも戦闘を続けた。
と言うのも、これはソ連側が戦闘を止めようとしないのが主たる要因だった。日本側は無線や軍使の派遣などで停戦を申し入れたものの、そもそも樺太や千島を実力で奪い取ると決定していたソ連軍は、そんなもの守る気などなかった。むしろ、今回の日本の降伏宣言はあくまでポツダム宣言を受けいてると宣言したに過ぎない。正式な降伏調印をしたわけではない。だからソ連側としては、この正式な調印までに少しでも領土の占領を既成事実化したかったのに加えて、まだ日本は正式に降伏していないという無茶苦茶な論理をかざして戦闘を続けたのであった。
こうなると、日本側も手を挙げていられなくなる。そもそも火事場泥棒よろしく宣戦布告し、あまつさえこちらの降伏宣言を無視して銃口を向けてくるのだから、もはや日本側将兵の怒りは頂点に達していた。
「自衛のための戦闘はまだ許可されてる。こうなったらあるだけの物資を投じて、露助どもを北に追い返してやれ!」
北海道を中心に、ソ連軍と対峙していた陸海軍各部隊は、本土決戦が回避されると分かった今、もはや後顧の憂いなく惜しみなく残りの物資や機材を対ソ戦に投入した。
このため、8月16日になると千島や樺太の戦場における日本陸海軍による反撃はより激しくなった。北海道の飛行場には、本土からソ連の傍若無人ぶりを聞いて駆けつけた航空隊が次々と終結した。もちろんそれらは、本土決戦用にいまなお温存されていた戦力であった。
そして207混成飛行隊の展開する標津飛行場にも次々と各種戦闘機や爆撃機が到着し、「天竜」とともに宗谷海峡を超えて樺太のソ連軍を攻撃し始めた。
この時点で「天竜」の稼動機は20機弱までに落ち込んでいたが、57mm砲を搭載した同機の活躍は、なおも帝国陸海軍航空隊が健在であることを内外に印象付けた。また17日には工場を出たばかりの機体がわずか3機であるが標津に到着し、翌日の攻撃に加わっている。
こうして、日本側の総力を上げた反撃により、ソ連軍の侵攻は止まった。それどころか、制空権を喪ったために後退を余儀なくされた。そして、8月19日にはソ連軍は国境線の向こうへと押し戻されてしまった。
もちろん、この事態にスターリンは激怒したのだが、再度の戦力投入には時間が掛かりすぎる。そこで、アメリカに協力を要請したが、これはのらりくらりと交わされてしまった。アメリカ軍は日本側の予想以上の奮戦でソ連軍の勢力が少しでも削がれること、また一度は約束した千島や樺太の占領を反故に出来る事態を歓迎したのであった。
8月21日。日本側は全ての部隊への戦闘停止を下達し、ここに北海道や千島に展開した部隊の戦闘も終わりを告げた。しかし、樺太の空で活躍した「天竜」にはまだ仕事が残されていた。それは今後進駐するであろうソ連軍の魔の手から民間人を逃がすため、機内の空間に人間や物資を詰め込んでの飛行であった。
最終的に、彼らが命がけで守ろうとした樺太南部は、その後ソ連軍が進駐して占領下に置かれてしまった。しかし、千島列島の方は米軍が船舶の不足で兵を送り込めない米英軍が代わりに上陸して占領したため、後に米軍軍政下に置かれたものの、辛うじて日本領として残された。
また多くの樺太の一般市民を本土に避難される時間を稼いだのも確かであった。
降伏後北海道に進駐した米軍は残されたキ93を調査し「最高レベルの地上攻撃機」と賛辞を送り、2機を米本土に輸送した。この機体は現在もスミソニアンならびに米国内の博物館で健在である。
それ以外の機体は全て焼却処分され、戦争終結直前に大活躍した名機は歴史の彼方に消え去った。だが、この機体の活躍は多くの民間人に目撃されたこともあり、後に漫画で登場したりプラモデル化されると零戦には及ばぬにしろ、高い人気を誇っている。
そして、この機をなおも伝説にしたのは、終戦から70年も経過した2015年春。旧標津飛行場に近い農場内の納屋から、胴体と主翼はわけられていたものの、非常に良い保存状態で丸々1機のキ93「天竜」が発見された。
占領軍が接収する前、第207混成飛行隊のメンバーがひそかに隠匿した物であった。周囲の納屋や倉庫からはやはり分解された97艦攻や25mm機銃なども発見された。
これら兵器はとりあえず自衛隊や警察の手で回収されたが、調査後の処遇が物議を醸している。もともと国有物なのだから国が収納して保存するべきと言う意見や、即刻スクラップにするべき、海外の兵器収集家に売却するのがいいと言う各方面から様々な意見が出ている。
かつて決戦兵器と期待されながら、当初の予想とは違う場面で働き、国家や国民に報いた救国の機体は、今なお多くの人の注目を集めている。
実際この夏、同機のプラモデルの売り上げは久々に増加したとのことだ。
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