the rainy season
津軽あまに様主催による1時間SS企画で6/15に出題された『梅雨』というお題を元に書い(てしまっ)た1週間SNです。1時間SSにおける自分ルールを守るためと、リハビリのためにほとんど勢いで書き殴ったものです。
『the rainy season』
1/
雨が降っていた。
ざぁざぁ、と。ばらばら、と。
四方から響くその音は、まるで不協和音。
決して止むことのないそれは、狭い室内に響いていく。
彼女だけが濡れていた。
雨に打たれ、濡れていた。
ただ一人、小さな教室の中で。
◆
気が付いたときから、彼女は一人きりだった。
新しい学校。そんな響きが空気にまとわりついていたのは、せいぜいひと月がいいところだった。
初めはぽつりぽつりと、同じ中学からの知り合い同士で纏まっていた程度のグループは、ゴールデンウィークも過ぎた頃からは、混じり合ったりばらけたりして、一つの大きな『一年五組』というコミュニティを作り上げていた。
「そんでさー、昨日の番組がねー」
「うはは、ありえねー。なにそれ」
「げぇ、まじかよ。宿題やってねぇよ」
クラスメイト達は思い思いに雑談を交わす。全ての授業が始まる前、登校してきてから目に入る何気ない風景。
「うっす」
「おっす」
教室に入るや否や、クラスメイトの男子(名前は覚えていない)が手を挙げて挨拶してくる。僕も同じように手を掲げて返事をする。
やり取りはそれだけで、僕は自分の席に着き、その男子は別のクラスメイトと会話を再開した。それが、当たり前の光景だった。
人付き合いは取り立てていい方ではない。寧ろ、苦手だった。
なんでもない会話にアンテナを立てて、相手の機嫌を損ねないように気を使うのは、疲れてしまう。かといって、それを無視してまで話したいような話題を自分が持ち合わせているわけでもない。
それでもクラスメイトとの関係は、最低限は維持している。「おはよう」と挨拶されれば返事はするし、話題を振られれば当たり障りの無いようには答えるようにしている。それが僕にとっての、最適な距離感で、心を落ち着かせることができる身の振り方だった。
黒板の上に据え付けられた時計を見上げる。少し黒ずみかけた硝子の向こうで、針は八と十二を差していた。授業の開始まではまだ時間がある。
僕は一時間目の授業の準備をする振りをしながら、辺りへと目を配らせた。
同時に音が降ってくるような、感覚がした。
ばらばら、と。
ざあざあ、と。
教室の喧騒はまだ続いていた。そして、これから二十分は止むことがないと知っていた。
くらり、と軽い眩暈を覚える。自ずと机に片肘を付き、頬杖を作っていた。
僕の席は、窓側の一番後ろの席だった。席替えではもっぱら一番人気の席になると思われる場所だが、狙ったわけではない。単純に名前順で座席が決められただけだった。
席からは教室が一望できた。頬杖をついたまま、窓に背を預けるようにして、教室を眺める。
複数人のグループが、幾つも点在していた。男子だけ、女子だけ、男女混合。考えられるあらゆる組み合わせがあった。それらみんなが時間を忘れたかのように、いやこれから始まるつまらない勉強の時間を考えないようにするためにか、楽しそうに喋っていた。
だから、その姿はとても目についた。
僕は、いつものように、視線を教室の中心へと向ける。
黒い、墨を流したかのような髪が目を引いた。それはぴたりと、絵画のように静止していて、まるで教室の中央にそのまま墨が塗られているようだった。
(今日も、一人なんだ)
ぽつり、と心の中で何度目か分からない呟きを吐く。
彼女はいつも一人だった。決して、他の女子と一緒になって、昨日のテレビが面白かったよね、だとか、あの男子かっこいいよね、だとか話すことはなかった。
あんな風に、教室の中央にある自分の席で、静かに肩を揺らすことも無く、まるで人形が置いてあるかのように、座っているのだった。
一度、彼女が何をしているのか気になって、ごみを捨てるふりをして、前を横切って行ったことがある。その時、彼女は本を読んでいた。小さな、それでも彼女の手の大きさと比べれば大きく見える文庫本を持っていた。文庫本には、布製のカバーが掛けられていた。
それ以降も、何となしに彼女の前を通りすがりつつ覗きこんだりした。彼女は同じように本を読んでいることもあれば、その日の授業の予習をしていたりしいていた。
真面目な生徒。一言で言い表すと、彼女はその通りだった。
実際、入学して初めて行われた試験では、彼女はクラスでも上位にその名前を連ねていた。(ちなみに僕が彼女の名前を知ったのもその時だった)
先生から指名されれば、言い淀むことなくすらすらと答えるし、宿題を忘れて何人かのクラスメイトが教壇に上がらされた時も、そこに彼女の姿があることはなかった。
それから頬杖をついたまま、彼女をぼんやりと眺めていた。ただ彼女だけを見ているだけでは、変に勘違いされかねないので、視線を揺らしたり、頭を伏せたりしながら見ていた。
別に、僕は彼女に特別な感情を抱いているわけじゃない。
「えー、うっそ、それ絶対狙ってるって!」
「ほんと? でも、ちょっと話しただけだよ?」
「違う違う。自然な振りを装ってるだけだって」
甲高い女子の声が耳に響く。聞くつもりがあったわけではない、そんな台詞を頭の中で反芻させる。
気にならない、と言えばたぶん嘘になる。僕は彼女の事が、気になっていた。
でも、そこに恋愛感情があるか、と云われれば違う。少なくとも、僕は違うと思っている。
何しろ、彼女とは一度も話したことが無い。彼女の名前こそは知っているが、きっと彼女は僕の名前なんか知らないだろう。それぐらいに、彼女と僕は接点らしい接点を持っていない。僕がこうして授業の始まる前の時間に、彼女を後ろからぼんやりと眺める。それだけの、なんてことのない、時間つぶしがある程度だ。
ただ、考えるのは――
(なんで、彼女は一人なんだろう)
人この事を言えた義理でもないのに、そんな事を思う程度だった。
――この時は、それだけの関係だった。
◇
そうして、その日は恙無く、至極平凡に――とは終わらなかった。
とても些細な変化だった。それに気が付いたのは、きっと僕だけだったと思う。他のどのクラスメイトも、先生たちも、気が付いてなかったと思う。
だって、彼女の事を見ていたのは、僕だけだったからだ。
最初、その違和感に気が付いたのは、二時間目の授業中だった。
二時間目は現代文で、担当の教師は毎回のように教科書を生徒に朗読させる。基本的には名前順。でも、前回の授業で誰に読んでもらった、などとメモしていないのか、初めの一人は基本的にランダムだった。
その最初の一人に、彼女が当てられた。
その時僕は、ああ、また朗々と何でもないかのように読み上げるんだろうな、なんて思っていた。彼女は何でもそつなくこなしていた。小説の朗読も、英語の読み上げも、数式の展開も、どれも詰まっているところを見たことが無かった。
先生に指名されて、彼女が立ち上がる。最初の引っ掛かりはそこだった。
いつもは、すぅと音もなく初めからその行動が決められていたかのように立ち上がる彼女は、その日は少し手間取ったかのように立ち上がった。膝の裏で蹴飛ばしてしまった椅子は、教室に耳障りな音を立てた。その音に驚いたのか、彼女は困ったように視線を慌てて教科書へと伏せた。
その後に続いたのは、妙な静寂だった。どこかで、かち、かち、とシャーペンをノックする音が響く程度。彼女は教科書に目を伏せたまま、固まっていた。
僕はその沈黙に喉の焼けつくような感覚を覚えた。知れず、体を窓側に押し付けて、彼女に視線を釘付けにしていた。
ややあって、先生が「大丈夫か? 八十七ページの冒頭からだ」と声を掛けて、沈黙は破られた。
「……あ、はい……」
彼女のか細い声がくぐもって流れた。それでも、彼女が読み始めるまでは時間がかかった。
その間、ぴんと張りつめた糸が切れたように、教室はざわざわと声が飛び交っていた。
ばらばら、と声が降りしきる中、彼女はしばらく教科書に目を落としたままだった。
それからの授業も、同じだった。
彼女は先生たちに指名されては、立ち尽くした。
だが、その彼女が返すのは、人が変わってしまったかのように困ったそぶりを見せる沈黙だった。
その度に、教室にはざわざわと、ばらばらとクラスメイトの声が打ちつけられていた。
教室の中央で立ち尽くす彼女は、一人きりだった。
雨が降っていた。
◆
次の日。僕はいつもと変わらず、八時ちょっと前に教室に入った。
「うっす」
「おっす」
同じように、クラスメイトの男子と簡単な挨拶を交わして、自分の席へ。
もう六月。窓側の席は、じんわりと湿気た匂いがした。鞄を机の上に置いて、一時間目の準備をする振りをしながら、教室を見渡す。
いや、違う。彼女を目で探していた。
教室の中は、何も変わっていなかった。一昨日のテレビだったものが、昨日のテレビへ。昨日の宿題だったものが、今日の宿題へ。そんな風に話題が変わっている程度。
だから、彼女は今日も一人だった。
彼女の黒い墨を流したような髪は、微動だにしていない。まるでそこだけ時間が停止しているかのようにも思える。ああ、どこかで見たことがある。そうだ、スクランブル交差点だ。その真ん中で、一人立ち尽くしている。そんな絵を前に見たことがある。彼女の姿は、まるでそれと同じだ。
教科書を机の上に出して、時計を見上げれば、長針はまだほとんど動いていなかった。
ぼんやりと教室――彼女を眺めながら、考える。頭の中を廻るのは、昨日の事だ。
昨日の彼女の様子は、いつもと違っていた。
最終的にそれは、少なからずみんな気が付いていたようだった。でも、話題にする程度の事でもなかったのが、事実だった。先生から「調子が悪いのなら保健室にでも行ったらどうだ」と言われて、その件は全て終わっていた。
でも、僕の頭の中ではまだ蠢いている。
ずっと彼女を見てきた。だなんて云うわけではない。そりゃストーカーだ。
僕は、単に彼女に気が付いていただけだった。だから、彼女が何でもできることも、一人なのも知っていた。それだけだった。
いや、それも言ってしまえば別に珍しい事じゃない。そんなことは、クラスの誰もが知っていたことだった。たぶん、知っていたけど、話題に出すほどではないと思っているだけなのだ。
だから、昨日の事も僕は取り立ててピックアップする必要なんてないんだろう。そんな風に考える。
(……でも、気になるよな)
ぼそり、と心は呟いた。理由も理屈も分からないが、きっと、それが本音だった。矛盾しているようだけど、僕にはそれが分かっていた。
「……ふああ」
わざとらしい欠伸をして、僕は伸びる。そして、何も書いていないノートの一ページを破って、ぐしゃぐしゃに丸めた。
「ゴミ捨てよ」
誰にともなく呟く。がたりと椅子を引いて、僕は丸めた紙を握ったまま教室を前に歩いて行く。誰もその光景に注目なんてしていない。まぁ、僕はその程度の人間さ。クラスメイトその十五、ぐらいの。モブなんだ。
教壇に足を掛けて、上る。ほんの十センチも無い高さなのに、そこからは教室が見渡せるような気がした。
「わり」
「あ、ごめんごめん」
教卓のあたりでたむろっていたグループの後ろを通り抜けて、黒板の前を歩く。その際に、ちらり、と教室の中央――彼女へと目を向けた。
ぽとり、と丸めた紙切れが落ちた。
紙のボールは教壇からころころと転がって、教室を駆けて行った。ころころ、とさ。机の脚にぶつかって止まる。
「……」
僕はそれを、見てはいなかった。見れていなかった。
僕の視線は、彼女に向けられていたからだった。
朝のこの時間、彼女はいつも本を読んだり、授業の予習をしたりしていた。それがいつもの光景で、いつもの彼女の姿だった。
でも、今日は違った。
彼女はいつものように、自分の席に座って――いるだけだった。
何もしていない。微動だにせず、まるで人形が置かれているかのようだった。視線は宙に縫いとめられ、何かを見ているようで何も見ていない。
紙のボールは、彼女の机の足元に転がっていた。僕はようやくそこで、そのことに気が付いた。でも、彼女は気が付いていないようだった。
「…………」
教壇を静かに下りて、彼女の元へ。一歩ずつ彼女へと近づいていく。周りには誰もいない。だから、その行為は目立っていたかのようにも思えた。それなのに、彼女が僕に目を向けることはなかった。黙って、ただじいっと、虚空を見ていた。
「……あ、ゴミ落としちゃった」
沈黙に耐え切れず、僕はそう呟きながら、彼女の机の前でしゃがんだ。そして、手早く紙のボールを拾い上げる。少しだけ彼女の白い膝が見えた。慌てて目を逸らした。
呼吸を一瞬だけ整えて、立ち上がる。耳に流れてくる教室の喧騒は何も変わらない。きっと、僕や彼女に目を向けているクラスメイトなんていないんだろう、とどこかで理解できていた。
「――」
ただ、彼女だけは違っていた。
「……あ」
ようやく、そこで彼女は僕に気が付いたようで、僕が立ち上がった時、宙に浮いていた視線を僕に向けていた。彼女と目が合う。
黒い、大きな瞳だった。それ以上の、何もかもが僕の頭からは消えていた。
「……」
「……」
何も考えられなかった。理解とか、理屈とか、そんなものじゃなかった。それは、僕の許容量を超えていた。
慌てて目を逸らす。ぎゅっと、手に握り込んだ紙くずが音を立てる。
教室の端っこに置かれたゴミ箱に向かうと、紙のボールを投げつけるように捨てた。
僕は、そのまま教室の前ドアから廊下に出た。彼女の方を振り向くことは、無かった。振り向けやしなかった。
授業開始まで、あと十分近くはある。先生が来るまで、時間をすこし潰そう。そんな事を無理やり考える。教室の喧騒が、ドアの向こうから聞こえていた。壁一枚を隔てただけなのに、遠い世界に来てしまったような気がした。目を閉じて、頭を振る。早足で、手洗い場へと向かった。用なんて、無いのに。とにかく、気を紛らわしたかった。
そうでもしなければ、彼女の瞳を思い出してしまいそうだった。
拭い去ることなんてできないと分かっていても。
彼女の瞳は、雨に濡れたかのように、揺れていた。
◆
それ以降、僕は何も考えないようにして、一日を終えた。
あれ程に向けていた彼女への注目も、今日は行う気にならなかった。寧ろ、それが活けないことのような気がしていた。
まるでストーカーだよな。
なんて、自虐する。別に、好意があるわけでもなんでもないのだ。ただ、一人きりの彼女が気になって、興味を持っただけだったのだ。
――だから、見てしまった。
喉の奥がきゅうと締まる。息苦しさが胸をそのまま押し付ける。
彼女の濡れた瞳を、振り払うことは結局できなかった。
どうして。なんで。続けて考えてしまうのは、そのことだった。
答えなんて分からないというのに、ただそれだけを頭に反響させていた。
その日の彼女は、昨日と同じだった。
注意を向けるまでもなく、彼女が様子を変えていたことは、既に教室中に伝わっていた。それは、言葉であり、空気だった。先生たちにも同じように伝わったのか、昼過ぎの授業では、彼女を指名することはなくなっていた。
SHRを終えて、僕は立ち上がる。
帰ろう。これ以上何も考えたくなかった。家に帰って、部屋に閉じこもって、今日の事を忘れたかった。
鞄を引っ手繰るように掴み、窓から目を離す。その時、一瞬だけ、教室の中央へ目が向いてしまった。
彼女も、同じように鞄を持って、立っていた。長い黒髪が、柳を思わせて揺れる。髪に隠れる華奢な肩がぴくり、と動いた。そして、振り返った。
縫いとめられたかのように、僕の足が止まる。彼女の足も止まっていた。
教室の中には、喧騒が渦巻いている。
ばらばら、と。ざあざあ、と。
まるで、雨だ。
決して止むことのない、雨。
彼女の大きな瞳が濡れているのかどうか、遠目には分からなかった。ふい、と彼女は何でもないかのように目を逸らして、足を進めると教室を出て行った。僕は、それを黙って見つめていた。
それが、この教室で彼女を見た、最後だった。
2/
一日、二日と日々は変わらずに過ぎたかのように見えた。
勿論、そんなわけもなく。小雨から本降りへと移り変わるように、教室内の空気は次第に変わって行った。
そして、一週間経つ頃には、彼女の噂は広まり切っていた。
「――さん、病気だって」
「うそ。何の病気?」
「さあ。そこまでは分からない。先生たちが話してるの聞いた程度だもん」
そんな言葉が飛び交う教室の中で、ぽつり、と彼女の机は浮いていた。
そこには誰もいない。居るべきはずの彼女の姿がないのは、誰もが知るところとなっていて、だからこそ、誰も近寄ろうとはしていなかった。まるで、池に石を投げ打って漣が立つように、人の輪ができていた。
「うっす」
「おっす」
一通り教室を眺めたあと、ルーチンワークめいた挨拶を交わし、席に着く。
そのまま鞄の中身を出しながら、彼女の事を考える。
……いや、深く考えることなんて、特にあるわけでもない。
僕と彼女の接点なんて、無いのだ。言葉すら交わしたことのない関係。彼女がどんなふうに喋るのか僕は知らないし、その逆の、僕がどんなふうに喋るのかも彼女は知らないだろう。
ただ一度――いや、二度、視線を交わしたことがあるだけ。
「……なんだったんだろう、な」
つい声が漏れていた。ほとんど無意識だったそれに、さして驚きはしなかった。
思考の波に浮かぶのは、深淵を思わせる漆黒の月。そこに映るのは僕の姿だ。そのシルエットも雨に打たれているかのように、ゆらりと揺蕩って定まらない。
泣いていたのだろうか。
僕は、今更ながらにそんな事に気が付いた。授業の開始を告げる、ベルが鳴った。
◆
当たり前の事だが、例えクラスメイトの一人がいなくても、授業は滞りなく進む。
社会に出たら「歯車となって働く」なんて言うけど、まだ子供の僕たちは、その歯車ですらないのだろう。
授業は退屈だった。彼女がいなかったからなのか、なんて考えてしまって、すぐに否定する。彼女がいつも通りに、あの教室の真ん中に座っていれば授業が面白くなるか、と考えても、そうは思えなかった。退屈なものは退屈だ。
つまらないと思ってしまうと、時間の進みは遅くなり、疲労も増す。終業のベルが鳴っても、僕はすぐに立ち上がることができなかった。
少し薄汚れたサッシに体重を預け、ベルの残響を遠くに聞きながら、僕は教室をぼんやりと眺めていた。足早に部活動へ向かう者、友人と談笑するグループ。いつもと変わりない光景。
担任の先生はまだ教壇に立っていた。
先生は教室をぐるりと見渡して、誰かを探しているようだった。その相手が誰かを、僕は知っている。そして、クラスの皆も知っているだろう。すぐに先生は目的の生徒を見つけたようで、声を掛ける。
「今日も頼まれてくれるか?」
短い言葉だったが、その生徒はそれで十分に伝わったようで、隠すことない苦い表情を顕にした。
「部活動もしていないんだろう? あと、お前が一番近いんだ。帰り道だろ?」
「……そーですけどぉ」
実際に、そんなやり取りがはっきりと聞こえたわけじゃなかった。その口の動きや表情で予想することはできただけだった。何しろ、ここ一週間は同じやり取りが行われているからだ。
学校を休んでいる彼女の元へ、プリントなどを持っていく。
それには家の近い、あの生徒が選ばれた。
たったそれだけのことだった。
だからだろう。ほとんどの生徒は興味ないと言わんばかりに、教卓の前で行われるそのやり取りに注意を向けていなかった。それを見ていたのは、僕だけだった。
先生は申し訳程度に頭を下げ、女生徒は変わらず苦い顔をする。
ふいに、喉の奥に苦味を覚えた。胸焼けのように、軽い吐き気が込み上げる。
これは――
似ている。いや、同じだ。
一人きりの彼女を知った時の気持ちと。
(気持ちが、悪いな)
ぷい、と顔を背けて、窓の向こうへ。空は曇天に塗られ、今にも泣き出しそうな昏い色をしていた。遠くでは、部活動をしている威勢のいい掛け声が聞こえてくる。彼らはどうするのだろうか。雨が降ってしまったら。
そして、僕はどうすればいいのだろうか。
雨は、まだ降っていない。
◆
次の日、雨が降った。
土砂降りの雨だった。ざあざあ、と地面を叩く音は機関銃めいて、それ以外の音を全て掻き消していた。
「うっす」
「おっす」
いつも通り、僕は教室に入ると、自分の席に向かう。
ルーチンワーク。机の上に置いた鞄から、一時間目のテキストを出す。一通り準備し終わって、教室を見渡す。
でも、そこからは違う。
観察もそこそこに、僕は頬杖をつくように教室に目を背けて、窓の外を見た。
ばちん、と窓を大粒の雨が叩く。大きな水滴が弾けて、王冠のような絵を描いたが、次から次に訪れる雨粒にあっという間に流されていった。空は昨日見た鈍色を越えて、墨を零したような、まるで夜を思わせる黒色に染まっていた。時たま、ごろごろ、と真っ黒い雲は空気を震わせる。やがて、雷も落ちるだろう。近くには山も多い。見える場所かもしれない。
そんな事を考えながら、僕は同じように彼女の事を考えていた。
空の色は、彼女の黒髪と似ていた。そして、猛烈な勢いで雨を落としているそれは、彼女の揺れる黒い瞳を彷彿とさせた。
今日も彼女は登校していない。変わらず、教室の中央には彼女の机が浮いていた。
(…………)
焦点も定まらず見やる窓の向こうに、彼女の姿が見えるような気がした。
ぺたり、と床に腰を落とし、天を見上げる後ろ姿だった。長く伸ばされた髪は、背中を多い隠し、床に届きかけていた。いつものように、彼女はぴくりとも動かない。まるで、人形のように。呼吸すら、諦めているかのように。
濡れているようにも見える、髪の向こう側で、彼女はどんな表情をしているのだろう。それを窺い知ることはできない。
そして、実際に今頃、彼女はどうしているのだろうか。
同じように、この大泣きする空を見上げているのだろうか。
もしそうだとしたら、彼女はどんな気持ちでいるのだろうか――。
僕には、とても想像できなかった。
一日の始まりを告げる、ベルがいつしか響いていた。
◇
一日が終わりに向かっても、外を暴れる雨が収まる気配はなかった。
だから、すぐに帰る気にはなれず、帰りのSHRを終えても、僕はそんな外を見てしまっていた。
教室の中には、同じように考えるクラスメイト達が多くいた。野外の部活動もこれだけ酷い雨だと中止か、場所を変えての練習なのだろう、いつもは見かけない顔もそこにはあった。そんな中に、これまでと同じように担任の先生がまだ立っていた。
「――。ちょっといいか」
そして、同じように、女子生徒を捕まえていた。
短いやり取りが行われていた。細かな会話は変わらず聞こえなかったが、二人の様子を見るにそれも変わっていないようだった。
しかし、今日はどこか成り行きは違っているようで、先生が形だけの頭を下げるも、その女子生徒は不服そうな顔をそのままに、外を見やっている。その視線の先にあるのは、言うまでもない。先生は女子生徒と同じように苦い顔を浮かべる。
要するに、この雨の中寄り道をしたくない、と云う旨を言ったのだろう。
ばらばら、と雨は窓を打つ。見るだに、豪雨と云って差し支えの無いものだ。
それと変わらずして、教室の中には喧騒が満ちている。それぞれが、楽しげに笑い合い、じゃれ合っている。
ばらばら。ざあざあ。
雨はきっと、止まない。止むことはない。
ばらばら。ざあざあ。
稲光が視界を埋める。続くのは、轟音。近くに雷が落ちたのだろう。教室から短い悲鳴が上がる。
ばらばら。ざあざあ。
それでも、――は止まない。
女子生徒の表情は渋い。先生も苦い。
轟音は続く。
閃光。轟音。ざあざあ。ばらばら。閃光、轟音。
一つ雷が落ちる度に、楽しそうな悲鳴が上がる。それに反比例するように――
僕の心は冷めていった。
「――――――――」
しん、と耳鳴りがする。
全てが遠くなったような気がした。音は消え、空気は厚い布を隔てているかのように、現実味を失っている。自分の呼吸音が妙に大きく響く。なのに、舌は何の味も感じない。視界は自分を頭の上から見下ろしているようにすら思える。人の中に居るのに、近くに誰もいないような気がした。周囲で繰り広げられるのは、まるでテレビの中の出来事のように他人事に思える。
クラスメイト達は騒いでいた。何がそんなに面白いのだろう。何も理解できない。情報は、何も耳に入らない。
視界に映ったのは、教卓を挟んでやり取りする二人だった。
瞬間、喉の奥に何かを感じる。それに突き動かされるように、僕は鞄を持って立ち上がった。
談笑するクラスメイト達を掻き分ける。こつり、こつりと足音が響いているような気がした。誰も僕を見ていなかった。僕も誰も見ていなかった。
教壇に足を掛ける。十センチも無い段差からは、教室が見渡せる。でも、それは、今日は必要ない。真っ直ぐに、教卓へと向かう。
二人は近づいてくる僕に気づいていなかった。いや、気づいていても、単に生徒が一人帰るだけだと思っていたのかもしれない。実際、僕も意識の半分はそのつもりだった。
教卓の前で立ち止まる。そこで、ようやく二人は僕に気がついた。
手を伸ばす。その先は、プリントを持つ先生へ。
「――僕が行きます」
半ば無意識の、その言葉が吐き出されていた。
3/
雨はその勢いを衰えることなく、泣きやむことはなかった。
軒下に潜り込み、足元を軽く払う。ズボンの裾は既にびしょびしょに濡れていた。足も水に浸かっているような気分。既に、靴の中も浸水しているのだろう。
小さく息を吐く。それは後回しだ。僕は正面を見据える。
シックにいくつかの彫りが彩られた扉があった。玄関の――彼女の家の、扉だった。
彼女の家は、僕の家とは反対方向にあった。周囲には彼女の家と同じような綺麗な家が軒を連ねている。いわゆる、ちょっとした高級住宅街だった。
ふと、時計を見る。時刻はもう六時に近かった。先生に教えられた通りに来たのだが、初めての場所という事もあり、時間がかかってしまった。ましてや、豪雨とも云える中を歩いて来たのだから仕方の無いことだった。
ばらばら、と玄関の屋根越しに雨音が響く。雨樋を伝わって、大きな滴が落ちていた。
もう一度、小さく息を吐いて、僕は手を伸ばす。指先が、インターホンに触れる。
電子音が扉越しに響いた。瞬間、僕の心臓が高く跳ねる。
どうして、ここに居るんだろう。
今更ながらに、そんな事を考える。
だが、熟考する間もなく、インターホンは屋内との接続を示す様に、くぐもった音を届けてきた。
「――はい。どちら様でしょうか」
ほっ、と。強張っていた足から力が抜ける。
インターホン越しに聞こえた声は、女性の声だった。でも、それは聞いたことのある彼女の声ではなかった。それよりは少し年齢を帯びた、おそらく彼女のお母さんと思われる声だった。
「あ、あの――」
僕はインターホン越しに自己紹介をする。彼女と同じクラスのもので、今日のプリントなんかを任されてきた、と。最初は男子が来たことに驚いていたようだったが、話に納得したのか「ちょっと待っててね。今開けるわ」と言って、インターホンの通話が切られた。
とたとた、と雨音に交じって足音が聞こえた。その音が扉の向かいまで来ると、がちゃり、と鍵の開く音が続いた。
「……あ、すみません」
扉の目の前に立っていては開けないと察して、僕は半歩だけ後ろに下がった。ふと真後ろを振り返れば、雨がまるで壁のようになっていた。
「ごめんなさいね。こんな雨の中」
「あ、いえ」
手招きをされて、玄関の内側に入る。そこで僕はようやくその人をちゃんと見ることができた。彼女と同じ、黒いストレートの髪に、大きな黒い瞳。その人が彼女のお母さんで間違ってなかったと、改めて理解する。
「……あ、これ、預かったプリントです」
小さな静寂にはっとして、僕はそう言うと鞄の中からクリアファイルを取り出して、それを彼女のお母さんに手渡す。
「――君。ありがとう」
「あ、いえ……」
優しく微笑まれて、目を逸らしてしまう。
どうして、僕はここに来たんだろう。
忘れていた疑問が、改めて蘇ってくる。でも、すぐには答えが出るはずもない。
「……あ。それじゃあ、僕は」
それ以上何も話せず――自問自答に答えることもできず――僕は頭を下げて、殆ど逃げるように玄関を飛び出した。彼女のお母さんは何も言ってこなかった。
外は、相変わらずの酷い雨だった。
濡れるのも構わず、軒下から飛び出す。二・三歩進んで、ふと、引き寄せられるように、後ろを振り返った。雨粒が、頭を濡らしていく感覚。それに引き上げられるように、視線は上へと向く。
落ち着いたカーキ色の壁。それを登って行くと、窓があった。窓の向こうには、カーテンがかかっていた。淡い紫色のカーテンだった。カーテンは、少しだけ揺れていた。
次の日も、全部何もかもを焼き増ししたかのように、同じだった。
土砂降りの雨。彼女の家。頭を廻る自問自答。
違うのは、そこに至るまでの経緯ぐらいだった。昨日、僕が率先して彼女の家に行く、と言ったせいだろうか、全ての授業が終わるや否や、先生は僕を呼びつけて彼女の家にプリントを届けてくれ、と言ってきたのだった。
自分から言い出した手前もあり、僕は断ることはできなかった。
小さく息を吐いて、扉を見据える。
そもそも、考えれずとも断る理由なんてなかった。自分がどうしてここに居るか、それを説明できないのに、それだけははっきりしている。
家が逆方向だとか。雨が酷いとか。そんな事がすぐに思い浮かぶが、それが断るに足る理由だと、どうしても思えなかった。
そんな、自分の矛盾さに軽く笑ってしまった。おかげで少しだけ、肩の力が抜ける。
軽くなった腕を上げて、昨日と同じように、インターホンを押した。
彼女の家を訪れるのは、一週間続いた。
ずっと、雨は止むことが無かった。
ぽつぽつ、と。ざあざあ、と。ばらばら、と。
その勢いを日によって変化させながらも、ずっと降り続いていた。
「――君。こんにちわ」
「こんにちわ」
玄関を潜り抜けて、彼女のお母さんとほんの少しだけ慣れた会話を交わす。
「これ、今日のプリントです」
「はい。ありがとうね」
受け取って、彼女のお母さんは優しく微笑んだ。その笑顔は、見たことはなかったけど、彼女のそれに似ているような気がした。
「……それじゃあ、僕は」
「あ、」
いつものように、玄関を出ようとした時、背中に投げられたその小さな声に、僕は動きを止める。ドアノブに伸ばしかけた手を下ろし、声の主へ向き直る。
「あの、こんなことをお願いするのも、変だと思うんだけど」
歯切れ悪く、彼女のお母さんが呟く。膝立ちになった体勢で、僅かに俯いている。その様子から、何か申し訳なさを感じているように思えた。
「――君、良かったら……で、いいの。あの子に、声をかけてくれないかしら」
彼女のお母さんが言い終えて、顔を上げる。黒い、大きな瞳が僕を見ていた。そこに映る僕の姿は、揺れていた。
「――」
彼女と同じ瞳だった。
あの時の、彼女と同じだった。
――僕が、見ないふりをした、あの時と同じだった。
「……ごめんなさい。無理にとは、言わないわ。でも、あの子、――君が声をかけてくれたら……話をしてくれたら、少し、良くなるかも、って思ったの。前まで別の子が来てくれてたけど、――君は、あの子と何か違う気が、したから。ごめんなさい、変な話よね」
「……」
僕は知れず息を呑む。
鼓動が早くなるのを感じていた。
呼吸をするのが難しい。
眩暈がするような気すらした。
でも――
喉の奥に感じていた、苦味は無い。
どうしてここに居るんだろう。
どうしてここに来たんだろう。
自問自答が、頭の中で駆け廻る。
雨の音。
教室の喧騒。
あの日の、揺れる黒い瞳。
そして、彼女と同じ瞳。
正面にあるのは現実だ。
答えなんて無い。
「――、」
口の中に息が溜まる。躊躇せずに、そのまま。
「僕からもお願いします」
4/
ぽたり、と汗が流れる。
からり、とグラスの中の氷が崩れた。
どれくらいこうしているのだろうか。時間の感覚はもう無かった。正座を極める足は、痺れてきている。
正面には、木でできた扉があった。その中央には、同じく木でできたプレートが下げられている。そして、そのプレートには、彼女の名前がアルファベットで刻まれていた。
「……」
周囲の湿気とは裏腹に、喉はからからに渇いていた。傍に置かれたグラスを見やる。レース編みのコースターの上、グラスの中では剥き出しの氷が溶けて、氷水を作り出していた。ふらふらと手を伸ばし、グラスを掴む。冷たさが、手の芯に染みる。そのまま口元へ運ぶと、ぐいと傾けた。それでも、喉の渇きは収まらない。
彼女のお母さんへああは言ったものの、こうして彼女の部屋の前まできても何を話すべきか定まっていなかった。声に出せたことは、自分が来たことを知らせるぐらいだった。
結局のところ、僕と彼女に特別な接点はなかったのだ。あったと言えば、二度視線を交わしただけ。
「……」
彼女の部屋前――廊下にいるのは僕だけだった。彼女のお母さんは気を利かせてくれたのか、飲み物だけを置くと「下にいますね。何かあれば呼んでください」と言って下がっていった。
頭の中では言葉が駆け巡っている。
ぎゅっと握り締めた手の平は、汗でびっしょりと濡れていた。
何て、声を掛けるべきなんだろう。
扉は無機質に、形式としての壁を作っている。その向こう側を窺い知ることは、できやしない。
そもそも、彼女が聞いてくれるのかどうかすら、分からない。眠っているかもしれないし、ヘッドフォンに耳を閉ざしているかもしれない。
なら、意味がないかもしれないじゃないか。
僕の中の僕が言う。
汗が流れる。足が痺れる。喉が渇く。
それでも、僕はこの場所から離れることができない。
そんなことは――無駄になるかもしれないことは、百も承知だ。
じゃあどうして。彼女にとって意味がないのなら、他に何の意味があるというのか。
その自問自答は、自問自答に足り得ない。自明なのだ。僕がここにいて、それを選択したことから、明らかなのだ。
彼女の為なんかじゃない。僕は、きっと僕の為にここにいるんだ。
あの日、目を逸らしてしまったことから、もう目を逸らしたくなかった。
だから、ここで何を話すべきかを考えていた。
彼女の為に意味がないとしても――
――僕にとって意味があるように。
「……僕は、ときどき夢を見るんだ。雨が、降る夢」
ぽつり、と。雨音のように、言葉が落ちた。そして、降り出す。
「雨は、嫌いじゃないんだ。雨の中にいるのは、どこか気持ちがいい気分がするんだ。雨は色んな音を立ててくれる。ばらばら、とか。ざあざあ、とか。ぼたぼた、とか。それを聞いているのは、楽しくて。自分も雨の一部になったような気がしてくるんだ。だから、夢の中で、僕はずっと雨の中にいる。目を閉じて、雨音に耳を傾けている」
廊下に僕の声だけが木霊する。返事はない。それでも、僕は続ける。
「でもね、ある時ふと、気がつくんだ。そこには、僕しかいないんだ。誰もいない。雨は雨で、僕は僕でしかなくて。急に寂しくなるんだ。そうすると、さっきまで心地良かった雨音も、煩わしくて、耳触りになってくる。好きだった、って分かっているのに、知っていたのに、嫌になる。離れたくて、走り出す。でも、雨は止まない」
からり、と音を立てた氷が現実を訴える。
遠く、窓の向こうからは雨音が響いていた。
「……ごめん、何だかよく分からない話になったね」
小さく扉に話しかける。返事は無かった。
ざあざあ、と。雨は降りしきる。そこに終わりは伺えない。今から帰っても、雨に打たれるだけだろう。
そんな事を考えながら、僕は「また来るよ」と声をかけて、その場所を後にした。
――それからも、僕は毎日彼女に話しかけた。
ほとんど、取り留めのない内容だった。雨がひどいね、とか。かたつむりを見たよ、とか。紫陽花が咲いてた、とか。
学校の話はしなかった。彼女がそれを望んでいないような気もしたし、何より僕がそれを話せるだけの話題を持っていなかった。
返事はない。それでも構わず続けた。
どうしてここに居るのかなんて、もう考えていなかった。考える必要がなかった。
帰り道、彼女の家を出てから窓を見上げる。あの窓が彼女の部屋のものだとは、もう分かっていた。雨のカーテンの向こうに、薄紫色のそれ。心臓の鼓動のように小さく、揺れていた。
◆
「――、今日も頼む」
先生からいつものようにプリントを預かり、教卓に背を向ける。
慣れたやり取りだった。ルーチンワークめいて、それをクリアファイルに仕舞い込む。
教室は変わらず騒がしかった。ざわざわ、と。外を濡らす雨粒に負けないほどに、それぞれの声が反響している。
人の塊を避けるように、教室を出ようとドアに手を掛ける。そこで、声を掛けられた。
「――なあ」
「……ん」
声のする方向へ、顔だけを向ける。そこに居たのは、比較的よく喋るクラスメイトの男子だった。彼の傍では何人かの男子と、女子が輪を作っていた固まっていた。彼らの視線は、好奇のそれを隠そうともせず、にやにやとしていた。奥の女子はそれが特に露わで、くすくすと小さく笑っていた。
「何?」
平坦に、それでいて淡泊になり過ぎないように言う。
「お前ってさ、今日もあいつの所に行くの?」
始めに声をかけて来た男子がそう言って、奥の女子がまたくすくすと笑う。
ああ、なるほど。
間を持たず、僕は理解する。彼らが言いたい事や、彼らが面白がっていることを。
彼女がこの教室を去ってから、もう二週間近く経っていた。もうしばらくすれば、月も変わってしまう。そして何より、部外者だった僕が関わってしまっている。それは先の先生とのやり取りで分かる様に既にクラス全体が知るところとなっていた。噂が大きくなるのも無理のない事だった。
「そうだけど?」
だから、僕は用意していた答えを口にする。取り繕おうとは思わない。そんなことは、きっと、どこにも意味がないから。
何人かの男子が意表を突かれたようにぽかんとしていたが、それ以外のクラスメイト達にはその答えが面白かったのか、声を上げて笑っていた。特に女子は顔を緩ませてきゃあきゃあ言っていた。更に、興奮を抑えきれないのか、身を乗り出してくる。
「ねぇねぇ。もしかして~」
「付き合ってるの?」
きゃー。やだー。普通そんなストレートに聞くぅ? えー、だって気になるじゃん。なんて、口々に言い合う。次々に吐き出されるそんな言葉は、鼓膜の音に纏わりつくように響いた。
「違うよ」
どこか自分が遠くにいるような感覚を覚えながら、僕は短く答える。その答えはある種予想していたようで、おそらく謙遜だとか、照れ隠しだとかに勝手に受け取って、再び彼女たちは盛り上がっていた。
「――うん。それじゃあ、僕はそろそろ。じゃあね」
軽く笑って、平坦に吐きだすと僕は視線を外す。女子たちはまだきゃいきゃいと騒いでいた。男子は驚きが勝ったようで、場に乗り切れていなかったようだったが、何か適当な相槌を打っているようだった。
そんな声は、もう、聞こえていなかった。
今日も、雨が降っている。
「――そんなことがあったんだよ」
彼女の部屋の前、すっかり座り慣れた廊下のフローリングの上で胡坐をかいて、僕はさらりとそんな事を話していた。
彼女に学校の話はしない。そう決めていたのに、どうしてかこの日はそれを破りたい気分だった。
麦茶の入ったグラスを持ち上げる。からり、とグラスの中で氷が揺れた。その音は静かな廊下に、短く響いてすぐに消えた。雨の音はしなかった。小雨になっているのだろうか。
「雨、止んだのかな」
考えていたら、ついそんな言葉が出ていた。
「ま。まだしばらくは続きそうだけどね」
だから、そう考えることなく続けた。
視線を彼女の部屋のドアから、手元のグラスに向ける。からから、と意味もなく揺らして、ぐいと傾けた。
そろそろ、帰ろう。
理由はなく、そう思い立ち上がろうとした。その瞬間、とても小さな気配を感じた。一度瞬きをして、視線をドアへと戻る。
「――」
「……」
確証があるわけじゃない。理由も、理屈も「ただなんとなく」でしかない。それなのに、ドアの向こうに、彼女がいるような気がした。
僕は帰ろうと立ち上がることをやめて、ドアを見つめる。
決して短くない時間が過ぎていく。からん、と溶けた氷が落ちて、音を立てる。いつまでこうしているんだろう、なんてふと考えて、すぐにどうでもよくなって止めた。
「……ねぇ」
くぐもった声が、届いた。
「なに?」
「……」
返事は無かった。だから、またしばらく待つことにする。同じぐらい時間を持って、もう一度声がした。
「なんで?」
「なにが?」
「……」
同じように返事を待つ。
「……私の所に、来ること」
今度は早かった。
「来よう、って思ったから、かな」
僕は変わらずに、すぐに答える。
「だから、なんで?」
「ちゃんと説明するのは、難しいなぁ」
「……馬鹿にしてるの?」
「馬鹿になんかしてないよ。というかできないよ」
「うそ。どうせ、あなたも他の人と一緒でしょ」
「どういうこと?」
言いたいであろうことは、何となく分かっていた。でも、敢えて僕は聞き返していた。彼女は言い淀んだのか、短い沈黙を返して、
「……みんな、私の事なんか見てないようにしてるのに、影で色々言ってる」
「僕はそんなんじゃないよ」
「じゃあ、何? なんで? どうして? ねぇ、なんで毎日毎日、ここに来るの? 私の情けない様子でも見に来て、笑いに来てるの?」
「違うよ」
「うそ。うそうそうそ。みんな、そう言ってるのに、裏ではいろいろ言ってるの」
「信じてもらえないなぁ」
「全部薄っぺらいの。なにもかも。一度見えてしまえば、向こうが透けて見えるぐらい、全部。もういや。馬鹿にするのなら止めて。帰って。もう来ないで」
「きみが本気で来ないで、って言うのなら、もう来ないようにするけど」
「けど、なに?」
「そうじゃないなら、僕はまた来るよ」
「ストーカーじゃない」
「かもね」
「まさか、本当に私に気があるとか、言うの?」
「かもね」
小さく、僕は笑う。面倒くさい考えはもう止めてる。思うままに、話していた。彼女の前で、取り繕うだなんて思えなかった。
「……馬鹿じゃないの」
「僕は、誰かより頭が良いだなんて、思ったことないよ」
「そういう意味じゃなくて!」
「じゃあどういう意味?」
「……私に、気があるから、って、普通、家まで来る?」
「まぁ、それだけじゃないし」
「はあ? 意味わかんない」
「そりゃそうだよ。自分の気持ちとか、考えをさ、全部一つの言葉で言い表すなんて、無理だよ」
「……じゃあ、他にどんな理由があるの」
「分からないよ」
「……」
「僕自身、どうしてここにいるのか、居ようと思うのか、きみと話したいって思うのか、はっきりとは分からないよ」
胸の中にはいろんな気持ちが渦巻いている。それは全部、僕の中にあるもので、どれもが嘘偽りのないものだ。それらが大きくうねって、溶け合って、時には反発して――今、僕がここに居る。既に結果として、固まってしまっている。だから、中身を細かく一つずつを掴みとるなんて、できるわけがない。
拾えるのは、その中でも大きな欠片だけ。
「たぶん、僕はきみに惹かれてたんだよ。ずっと。それは嘘じゃないと思う。でも、それが全部だとは思えない」
「……」
「きみの涙目を見たことかもしれない。最後にきみがいなくなる時、また同じように涙目を見たからかもしれない。誰もきみに関わろうとしなかったからかもしれない。きみの噂話がこれ以上広まるのが嫌だったからかもしれない。きみのお母さんに単に頼まれたからかもしれない。単純に気まぐれかもしれない。弱っているきみに取り入ろうとしているだけかもしれない」
「……」
「きみが一人だったことを、知っていたからかもしれない」
「……」
「そこに、僕と同じ雰囲気を感じたからかもしれない」
「……」
「まだ、いっぱいあるよ。きっと。探していけば、いくらでも出てくる。でも、どれが本当かだなんて、決めれないよ」
「……」
妙に心は落ち着いていた。初めから、そうするべきだったと、分かっていたかのように、するりと気持ちが地面に足を下ろしている。
「まぁ、強いてまとめるなら。きみと話したかったんだよ、たぶん」
「……気持ち悪い」
「はは、そうだよね」
「押しかけて、部屋の前に居座って、だなんて最悪」
「否定はできないなあ」
すっかり小さくなっていた氷は、もう溶けて消えてしまっていた。中には、薄茶色の液体が残されている。
「……ねぇ、まだ、雨は降ってる?」
「さあ、ここからは見えないよ」
「私、雨は得意じゃないの」
「そうだね。僕もだよ」
だから、こうして静かな場所にいるんだろう。僕達は。
「止むかな」
「いつかは」
もう六月も終わる。もう少しすれば、この長い雨も終わるだろう。
「それでも、また、いつか降り出すよね。雨がなくなることなんて、無いんだから」
「傘ぐらいなら、貸せるよ。狭いけど」
「……無いよりは、マシかな」
ざあざあ、と。
ばらばら、と。
耳にそれらはこびり付いて残っている。きっと、消えることはないし、また新しく流れ込んでくるだろう。
なら、少しだけでも受け止めよう。一人で難しいのなら、二人で。
傘を差して。雨の中を歩いて行こう。
「the rainy season」 fin






