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二日目、春喜という男

 雪はまず、自分がうつ伏せでいることを認識した。いつもと違うすっきりした目覚めだった。

 頬を押し付けた柔らかい枕から嗅ぎなれないにおい。体を横向きにし、被せられた毛布をずるずると抱き込む。枕と同じにおいがした。久しぶりに深く眠れたのは、このにおいに包まれていたからかもしれない。とても落ち着く、いいにおい。

 そっと目を開ける。

「――」

 スケッチブックに視線を落とす男がいた。春喜だった。けれど雪は、彼に名前を教わっていない。

 食事を済ませた後、すすめられるままベッドに入ったところまでは覚えている。それからすぐに眠ってしまった、ということだろう。子どもの体は正直だった。

 雪は、記憶が途切れる直前までのことを振り返る。鮮明なのは、耐え難い空腹と睡魔――睡眠不足は幾分前から続いて、丸二日ほど絶食を強いられていた。なまじ一般の子どもが受ける待遇ではない――に足をとられた瞬間のこと。壊れた人形のように膝を折り、崩れていく自分の体。目と鼻の先に、酷く恐ろしげな洋館があったのを思い出す。おそらく、今いる部屋はその一部なのだろう。となると、行き倒れた自分を拾い、食事と寝床を与えてくれた命の恩人は、ここの住人に違いない。

 そっと様子を伺う。長い鉛筆を握る右手が、不規則に動いている。し、し、とスケッチブックに描く音。

 ――邪魔をしてはいけない。

 雪は息を潜め、身動きを控えた。反射的だったとはいえ、これで完全に、挨拶のタイミングを逃したことになる。

 静かに何かを形作っている春喜の横顔は痩せていた。鉛筆を握る手も、スケッチブックを支える左手も、細い上に真っ白だ。あまり外出をしない雪も色白だが、彼のそれは段違いだった。自分より、彼にこそ雪という名は相応しいと思った。

 ――不思議な人。

 今にも倒れそうなのに、描く様はブレがない。絵を描くという行為が、春喜にとってどういう位置づけなのか、その姿勢を見るだけで分かるような気がした。


「起きてたの」

「……おはよう、ございます」

 春喜は少し目を丸くし、すぐに「おはよう」と言った。

 雪は久しぶりに朝の挨拶をした。言葉の違和感は、負けず劣らず久しぶりな――事実、忘れようとさえしていた――春喜の挨拶によって打ち消された。ただし、場に残ったぎこちなさを、居心地の悪さとして捉えたのは雪だけだった。春喜の神経はパイプ管のように図太く、そして中身がないので傷つきもしない。

「声、かけてくれてよかったのに」

「描いていました」

「ああ、うん。唯一のできることで、したいこと」

「……絵、好きですか?」

「好きじゃなきゃ描かない」

 ふと窓際を見る。完成直後に放置されたようなキャンパスは、鮮やかな空が写しこまれていた。

「……空」

 写真とは違う現実味を帯びながらも、一線を画した幻想世界。

 雪は絵が好きだ。けれど触れる機会が少なかった。ここ数年に限っては、子どもの落書きさえ目にしていなかった。

 だから、というわけではない。そうでなくとも、これは必然なのだ。

「きれい」

 雪は、春喜の絵に魅せられてしまった。

 あの絵の中に入り込めたら、どれほど幸せだろう。

「ただの空だよ」

「でも、きれい」

 飾らない直球すぎる褒め言葉。打算もなにもない子どものそれは、春喜がもっとも苦手とするものだった。

 春喜は子どもが苦手だ。人生の中で、もっとも純粋な生命力に溢れている。たくさんの未来を持った、眩しい存在。かつての自分に、彼らのような輝きはなかった。

 当時、人の寿命は20年ほどで、同じ季節を十数回迎えれば死んでしまうと、幼かった春喜は心の底から信じていた。近所の子どもたちがあまりに無邪気で、不思議に思ったのを覚えている。

 気付いたのは9歳くらいの頃。年齢に伴う外見の変わり方を知った時だった。両親や担当医師、顔なじみの看護婦たちは、とっくに20歳を過ぎていた。だから分かった。欠陥だらけのこの体は、20歳まで生きられるか分からない。自分は、たくさんの大人や近所の子どもたちより、ずっとずっと早くに死ぬのだ。

 それ以来、見える世界が形を変えた。タイミングを計ったように絵画を勧められ、自分が見ている世界を形にした。数年後、子どものらくがきは世間から高い評価を受け、鬼才の少年画家という称号を得た。

 今にしてみれば滑稽な話だ。どこの陳腐なドラマだろうと思う。けれどそれは紛れもない、自分が辿った道筋で。

「……まあ、琴線に触れたから描いたんだけど」

 ひどく閉鎖的な生活は今もって変わらず、むしろそれが当然であるかのように感じている。ようは偏屈なのだ。それも、死ななければ治らないほどの筋金入り。

 雪が魅せられた空の絵も、スケッチブックに溢れ返った整合性のない断片たちも、春喜が一人で見て、一人で感じて、一人で形にしてきたものだ。彼は死ぬまで変わらないだろう。変わらず、一人で世界を描くだろう。

「すごい、ですね」

「すごくは、ないよ」

「でも、僕の目には、そういうふうに見えます」

「……あ、そ」

 絶賛である。参ってしまう。

「……、……朝食、取ってくるから」

 口実だった。逃げるように部屋を出る。露骨すぎたかとも思ったが、いまさら引き返せやしない。

 春喜は大人しく、小型エレベータを呼び出した。届いたクーラーボックスを開けてみると、二人分の料理が三食分、きっちり詰め込まれていた。

 連絡をいれたのは昨日の晩。日付も変わろうかという時分に、はたと気付いてのことだった。送ったメールのタイトルは「食事は二人分」、本文は白紙。理由どころか操作の手間まで省いている。急いでいたから、というのは建前で、本音は単に面倒なだけだった。急な話でどうなるかと気をもんだが、いらぬ心配だったらしい。兄の不純な動機を見越して、理由も聞かず仕事をこなした弟のよく出来たこと。日頃から貧乏くじを引いてそうだ。

 心持ちゆっくりとした足取りで部屋に戻る。どうがんばっても十数歩で着いてしまうため、悪足掻きにもならない。

 雪を見る。整えたベッドの上に、ちょこんと座っていた。

 改めて思う。女の子である。どこからどう見ても、逆さに振ったって女の子である。春喜は自分の目を信じたかった。しかし、そこで引っかかるのが先ほどの会話。雪が発した一人称。

 ――僕、ね。

 いよいよもって厄介な雰囲気に気落ちする。とはいえ、今のところストレスは皆無――ベッドまで貸し出しておいて、これほど不思議な話はないのだが――なので、放り出しはしない。春喜は人を嫌う偏屈者だが、広義での迷子を捨て置くほど鬼ではないのだ。


 朝食分を二皿まとめて電子レンジに並べる。温めている間に雪を呼び寄せた。彼女は昨晩と同じ席に座った。

 電子レンジが気の抜けた音を鳴らすまで、室内には物音ひとつ立たなかった。呼吸の音さえ聞こえないほどの静謐。雪は少しの居辛さ以外にも、不思議な安心感を覚え始めていた。彼女にとって、恩人である春喜に関わることすべてが不思議に満ちているようだ。

 春喜が両手に皿を持つ。片方を雪の前に、もう片方を手元に置く。メニューが、食べやすさを重視した健康志向であることは言うまでもない。

 春喜が席に着く。自然、昨晩と同じ配置になる。

「いただきます」

 まず春喜が言った。

「いただきます」

 それに雪が続いた。

 食べ始めるのも、春喜が先だった。雪は、彼を真似るように動いた。

 ――本当に、躾がよく出来ている。

 客人ないし居候という身分を理解しているのだろう。何においても、まず家主にあたる春喜から。子どもが知らなくていい優先順位を、雪は不自然なほど自然に実行している。よほど念入りに教育されたのか、あるいは常日頃から似たような環境に身をおいていたのか。どちらも望ましくない結論だ。

「おいしいです」

「……それはよかった」

 昨日よりは気の利いた答え方ができた。そう春喜は思う。けれど一般人の大半は、彼の対応を素っ気ないと感じるに違いない。

 特異な経歴と看板がなければ、この世界で生き続けることなどできなかった。いつの社会においても、地位や身分といったレッテルは重視される。それらは時に、人の本質をも霞ませるのだ。


 薄情、非情、それらの特性は悪であっても罪ではない、というのが春喜の持論だ。そもそも悪である確証さえないのだから、罪であろうはずもない。今も昔も、人々が良心の働きによる行動を徳とするから、一般に負と区分される感情や性質が排斥されるのだ。彼の思考も、行動も、天才画家というオブラートを溶かしてしまえば、十二分にその対象である。これは確定的だ。なぜなら、彼が自他ともに認める偏屈者だからだ。

 春喜が偏屈であることは仕方がない。世間もそれを許容する。彼が素っ気なくて、時に薄情な面を見せても、排斥されることはない。世間では、彼と偏屈がイコールで結ばれているからだ。彼を許すのなら、それは彼の偏屈さを許しているのと同意だ。薄情も偏屈も似たようなもので、延長上にあるといっても過言ではない。しかし世間は、それを悪と断じないのだから、これほどの矛盾はないだろう。

 雪は春喜の看板を知らない。おそらく、彼女の中の春喜像は「絵が上手で偏屈な命の恩人」といった具合だろう。しかしこれは、あくまで春喜の予測に過ぎない。実のところ、彼が思うほどマイナスイメージは持たれていないのである。

 春喜が持つ静けさは、人によって――とくに子ども全般――は苦手だろう。表情はあまり変わらない。反応は薄い。口数が少なく沈黙も多い。話は弾まないし、明るさとは無縁の雰囲気しか生まれない。怖がられたり、敬遠されたりすることが多いタイプである。

 雪の場合、少し気後れしているようだが、安心もしている。時間が経てば、きっと後者しか残らない。ようするに相性がいいのだ。彼女にはまだ、それが理解できない。反対の感情が並行するなんて初めてで、どうしたらいいか分からず、不思議という形容しかできないのだ。

 知り合って1日弱。休息分を差し引くと、対面していた時間など些細なもの。まだ互いの特性や内情を測りかねている段階だ。

 眼前で静かに食事をする、厄介そうな少女を見る。

 ――この子は、僕の絵を褒めてくれた。

 春喜は、理由さえあれば動く男だ。適当な理由が定まった今、決断に迷いはない。どうせ、これから終わりに向かう身だ。最期までの一時くらい、慈善活動に精を出してもいいだろう。

「ねえ」

 本当は、単に気になってしまっただけ。それを白状できるほど、真っ直ぐな生き方をしていないだけ。

 後悔とは、後に悔いるからこそ後悔という。それまでは、この決断を貫いてみようか。


「これから続く長い人生の、ほんのひとつまみでいい。君の時間を、僕に売って」

最後の台詞を言わせたいがために。

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