一日目、厄介な子どもを拾う
「なにしてるの」
這いつくばったまま動かない子どもに声をかけた。返事はない。しゃがみ込んで頬に触れる。つんと肌を刺す冷たさに、死ぬのではないかと思った。
「なにしてるの」
どうしようか。どうすればいいだろう。ぼんやりと考えながら、同じ問いを口にした。
こんなところで死なれては困る。なにせ洋館のまん前だ。このまま置くと、いろいろ問題があるだろう。手始めに、毎朝その日の食事を配達に来る人が腰を抜かす。高い確率で警察沙汰になるだろう。場所が場所なだけに、巻き込まれるのは必至である。厄介だ。面倒だ。これから死のうという時に、身近で騒がれるのはごめんだ。
「……」
気付けば、理由ができているではないか。
――それなら、いい。
理由があれば、すんなり動ける。春喜はそういう男だった。
「触るよ」
頭を撫でる。
「抱えるよ」
貧弱、軟弱といった言葉がよく似合う体つきをしている自分が肉体労働か。
だるそうに溜め息をこぼし、冷え切った小さな体に腕を回す。重くはないが、軽くもない。相手が10歳そこらの健康優良児だったら、間違いなく重いと文句を言った。最悪、抱えきれなかっただろう。
袖をめくる。のぞいた腕は細く白い。幼い頃の自分を彷彿とさせる不健康さに、自然と表情が硬くなる。嫌な予感は、倒れている姿を見つけた時からひしひしと感じていた。こんな辺境に落ちている時点で、厄介な事情を抱えていて当然だ。加えて、この見るからに栄養不足気味な体。
「はあ」
厄介だ。本当に、厄介だ。もうすぐ終わると分かっていなければ、誰が背負いたがるものか。
前面に押し出された不快感の傍らで、息を潜める期待があった。出所は自分の心。この厄介事が、あるいは大切ななにかを与えてくれはしないか。
は、と嘲笑。
こんな子どもに、いったい何を求めているのだろう。落ちぶれている。馬鹿馬鹿しい。
そうやって、思いつく限りの自虐的な言葉を繰り返しているうち、唯一の活動場所である居間に到着した。開かない窓から差し込む光が、青空を閉じ込めたキャンパスに降り注ぐ。眩しさと、久方ぶりの肉体労働に眩暈がした。
乱れっぱなしのベッドに子どもを落とす。文字通りの乱暴な扱いだったが、まったく起きる気配をみせない。相当深い眠りについているのか、はたまた気絶しているのか。どちらにせよ、少女の目が覚めない限り、春喜は何の対処もできないのである。
はあ、と溜息。現状が不幸の極みなので、幸せの一つや二つ逃しても気にならない。これ以上失えるほどの幸せがあるのかどうかがまず問題だが。舞い込んできた不幸は、言わずもがな。
時計を見る。正午を少し過ぎていた。いい時刻である。創作は一段落――というか、少女の一件でスイッチが切れてしまった。タイミングとしては悪くない。
廊下に出てすぐの小型エレベータを呼び出す。軽やかな到着音とともに、金属製のドアがスライドする。そこにはクーラーボックスがあった。内訳は、冷凍処理が施された三食分の料理である。ただし献立は毎日変わるので分からない。
クーラーボックスを持ち上げる。昨日より重く感じた。中身のせいかもしれないし、重労働をしたせいかもしれない。
一分もかからない距離を歩き、居間に戻った。換気の名目で開け放ったままのドアは、あってないようなものである。そもそも春喜には、鍵をかける習慣がない。半年前から蔦で覆われ始めた洋館は、半透明な何かが出そうな雰囲気だけは抜群にある。現代の空き巣が好みそうにないので、防犯意識は必要ないのだ。
物好きな空き巣いて、偶然ここを見つけたと仮定する。春喜の死因が病死から事故死になって、用途不明の財産が一部削られるだろう。しかし、それだけだ。一般的には大層なことだが、彼にとっては無害も同然。自身の死を見つめ続けた者に、もはや怖いものなどないということである。
閑話休題。
居間に入ってすぐ、簡易キッチンに近づいた。クーラーボックスをキャビネットに置く。一息ついたところで、偶然視界の端に映ったベッドを、そして、そこに沈む少女を見た。起きる気配は、やはりない。
電子レンジを使って、昼食にあたる分を解凍し始める。
身の回りには、ボタン一つで動くものが多い。しかも、居間周辺に限り親切設計となっている。すべては心配性な弟のおかげだ。些細なことを面倒だと切って捨てる兄が気がかりでならなかったのだろう。
弟は優秀だ。人と関わりたくない、静かに過ごしたい、できるだけ動きたくない等々、我侭放題な兄の言い分をひとつとして聞き逃さなかった。たとえば食事の問題は、小型エレベータを設置し、冷凍加工品を毎日配達することで解決した。現に人と会わず、階段の上り下りもせずに済んでいる。そうした先進的なバリアフリーの数々が、春喜の行動範囲内に散りばめられているのだ。
不満はない。しかし、なぜ先のない画家に無条件で投資するのか。
春喜は裕福である。金がかかる病人自身が金持ちというのは、珍しいケースかもしれない。彼はもともと、無意味に膨れ上がった貯蓄を、自分の余生につぎ込むつもりだった。まるで過不足がない。これほど合理的な生き様はないだろうと考えたのだ。
名の知れた画家の貯蓄がどれほどか、想像するに難くない。それでも弟は、自分が払うと言って聞かなかった。見返りに相続権を独り占めしたいのかといえば、そういうわけではないらしい。思えば、幼い頃から欲がない男だった。兄が兄なら弟も弟である。
それでは、何か。しばらく考えてみたが、とうとう春喜には理由が分からなかった。理由がない行動などない。そしてその理由は、家族という名の陶酔であってはいけない。人は、人々が考える以上に合理的な生き物なのだ。彼はそう確信していた。
春喜は一度尋ねようとして、すぐにやめた。聞けば弟の表情が歪むのは、火を見るより明らかだった。そして、この件に関して考え続けるのは不毛だと気付いたのだ。前者の気配りが先に出るあたり、兄弟間の距離がいかほどか窺い知れる。どちらも口には出さないが、尊重しあっていることは確かなようだ。
レンジが電子音を上げた。ドアを開けると、柔らかな湯気が一瞬にして通り抜けた。鼻腔をくすぐるいい香りに、空腹を感じないでもない。病魔と惰性に冒され、麻痺した内臓をも揺り動かす冷凍食品。聞こえは悪いが事実である。弟が選んだ料理人の腕は確かだった。
「ん……」
少し高めの声がした。ベッドを見ると、子どもが身じろぎをしていた。しばらく待つと、目が開いた。細い腕で体を起こし、目元をこする。
――料理のにおいは、落としても起きなかった子どもさえ叩き起こすか。
子どもは、床に視線を落とし呆けている。寝起きはよくないらしい。栄養失調で、体の機能がいろいろと低下している可能性もある。
温めたばかりの料理を見やる。
「ねえ」
子どもが頭を振り上げた。見開かれた丸い目が、ようやく春喜を映し出す。
「これ、食べる?」
香りにつられて起きるくらいだから、食欲はあるはずだ。これらの料理は春喜のために作られている。基本的に柔らかく喉通りがいいから、与えてもよさそうだと判断した。試しにすすめてみると、子どもの意識よりも腹の虫がいち早く反応する。
「あ、う」
頬を引きつらせ、言葉を失う子ども。春喜からすれば、もう少し照れるなり、恥ずかしがるなり、年相応のリアクションがほしかったところだ。
「立てる?」
「あ……はい」
「じゃあ、こっち。そこに座って」
ベッドから一番近い椅子を指す。その前に料理を置いた。子どもがおそるおそる椅子を引く頃、春喜もスケッチブックと鉛筆を持って、同じく食卓机の席に着いた。
見られていては食べづらいだろうし、手持ち無沙汰では急かすようで気分が悪い。早々に手を動かし始めたのは、そうした春喜なりの気遣いである。現にこれといって題材はなく、ただ暇潰しのために描いている。彼にしてはとても稀な行動だった。
子どもがちらりと春喜を見る。様子を伺っているらしい。気付かないふりをした。とても子どもに対する気の遣い方ではないけれど、彼の中では先ほどの反応が引っかかっていた。行き倒れていたことや、痩せ細った体のこともある。ただの子どもとして扱うべきではない。
しばらくすると、子どもは了承の意を感じ取ったのか、そっと手を合わせて「いただきます」と呟いた。食事をする音は控えめで、ほとんど聞こえなかった。躾がよく行き届いている。こうなると、もう何かある――あるいは何かあった――子どもで決定だ。
「……あなたは、食べないのですか」
「……ああ、うん。後でね」
「……」
「……ちゃんとあるから。気にしないで。食べれるだけ食べたら、また寝るといい」
子どもは頷いた。そしてまた、音を立てずに食べ始める。
――ただの子どもならよかったのに。
そうすれば割り切ってしまえた。距離を測りかねることも、厄介な期待を持ち続けることもなかった。子どもになりきれない子どもなど、大人よりよほどたちが悪い。扱いに困る。
「おいしい、です」
「……そう」
動くに任せた右手が描いたものは、小さな天使だった。
少女っていうか幼女っていうか子ども。
見辛いかなあ。改行増やすか?