箱庭の鬼神と、贄の少女の『おままごと』
冷たい、ひどく冷たい雨の夜だった。
ぬかるんだ泥道を、裸足のまま歩かされる。足の裏が鋭い石や木の枝で切れて血を流していても、痛いと泣くことは許されなかった。少しでも立ち止まれば、背後から無慈悲な棒の打撃が飛んでくるからだ。
「さっさと歩け、この穀潰しが」
「今年の凶作は、全部この忌み子のせいだ。山の鬼神様に喰ってもらえば、少しは村の役にも立つだろう」
私を棒で小突いているのは、見知らぬ村人ではない。私を産んだ実の父親と、血の繋がった兄だった。
私は『サチ』という名を与えられていたが、その名に反して、生まれた時から幸福とは無縁だった。物心ついた時から家の土間で寝かされ、残飯を与えられ、親や兄の機嫌が悪い時にはサンドバッグ代わりに殴られ、蹴られるのが日常だった。
私の身体には常に新しい青痣と切り傷が絶えず、ぼろぼろの麻の着物からは、痩せこけた痛々しい腕が覗いていた。
そして今夜。
不作の続く村を救うためという大義名分のもと、私は山の奥深くに棲むという恐ろしい『鬼神』への生贄として選ばれた。誰も、実の娘を差し出すことに反対しなかった。むしろ、厄介払いができて清々しているようだった。
「……ここらでいいだろう。縛り付けろ」
鬱蒼と生い茂る大木の根元に私を引き倒すと、父親は太い縄で私の身体を木に縛り付けた。
「いいか、絶対に声を出して逃げるなよ。大人しく鬼神に喰われろ。それがお前の、唯一の親孝行だ」
父親は最後にそう吐き捨てると、逃げるように山を下っていった。提灯の灯りが闇の中に消え、後には激しい雨音と、震える私だけが残された。
(……やっと、死ねるんだ)
恐怖はなかった。
鬼神に生きたまま手足を食いちぎられる痛みは、想像するだけで恐ろしい。けれど、毎日毎日理由もなく殴られ、飢えに苦しみ、誰からも愛されない現実を生き続けるよりは、一瞬の激痛で全てが終わる方が、ずっとマシだと思えた。
『――こんなところに、小さなゴミが落ちているな』
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に、頭上から地鳴りのような低い声が降ってきた。
雨の音が、ピタリと止んだ。
いや、止んだのではない。私の上に、巨大な『何か』が覆い被さり、雨を遮っているのだ。
恐る恐る顔を上げると、そこには、暗闇よりもさらに深い漆黒の巨体がそびえ立っていた。
頭部には天を突くような二本の太い角。全身から立ち上るどす黒い瘴気。そして、らんらんと血のように輝く、巨大な赤い瞳が、足元の私を見下ろしていた。
(あ、あ……っ)
本能的な恐怖で、声が出なかった。
これが、村人たちが恐れる山の主。命を喰らう鬼神。
私はギュッと目を閉じ、縄に縛られたまま身体を強張らせて、鋭い牙が私の首を噛みちぎる瞬間を待った。
しかし。
『……ひどい傷だ。これでは、食うところもない』
鬼神の声は、恐ろしい外見とは裏腹に、どこか悲痛に歪んでいた。
直後、私の身体を縛っていた太い縄が、音もなくパラリと解け落ちた。
そして、巨大で鋭い爪を持つ鬼神の手が、私を握り潰すのではなく、まるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、そっと、ふわりと、私を冷たい泥の地面からすくい上げたのだ。
「え……?」
私が驚いて目を開けると、鬼神の姿は、いつの間にか巨大な獣の形から、人間に近い姿――天を衝くほどの長身で、白銀の長い髪と、額に二本の黒い角を持った、恐ろしいほどに美しい男の姿へと変わっていた。
『よく頑張ったな、小さな娘よ。……もう、痛い思いはしなくていい』
彼は、血と泥にまみれた私を、自らの豪華な着物の胸元に抱き寄せた。
驚くほど温かかった。人間の父親からは一度も与えられたことのない、絶対的な安心感と熱が、冷え切っていた私の身体にじんわりと染み込んでいく。
「あなたは……私を、食べないの……?」
震える声で尋ねると、鬼神は赤い瞳を細め、ひどく優しく、そしてどこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
『食べるはずがなかろう。……今日から、お前は俺の愛しい娘だ。俺の箱庭で、永遠に守ってやろう』
彼がそう言って私を強く抱きしめた瞬間、周囲の冷たい雨の風景が、ぐにゃりと歪み、真っ白な光に包まれていった。
私はその温かさと安心感に抗うことができず、深く、泥のような眠りへと落ちていった。
*****
小鳥のさえずりと、甘い花の香りで目を覚ました。
「……ここ、は」
身体を起こすと、私はふかふかの絹の布団の上に寝かされていた。
見回すと、そこは信じられないほど広く、豪奢な和室だった。柱は磨き上げられ、襖には美しい金箔で花鳥風月が描かれている。
開け放たれた縁側の外には、見渡す限りの見事な日本庭園が広がっていた。満開の桜の木が幾本も立ち並び、ぽかぽかとした春の陽射しが降り注いでいる。
「目が覚めたか、サチ」
縁側に腰掛けていた鬼神――彼が、静かに振り返った。
白銀の髪に黒い角。赤い瞳。
昨夜の恐ろしい記憶の通りなのに、不思議と恐怖は感じなかった。
「ここは……天国、ですか?」
「ここは、俺とお前の家だ。……どうだ、腹は減っていないか? お前の好きそうなものを用意させた」
鬼神がパンッと手を叩くと、どこからともなく、お盆に乗った温かい食事が運ばれてきた。
白く輝くお米、湯気を立てるお味噌汁、甘そうな卵焼き、そして、私がずっと夢見ていたけれど一度も食べたことのなかった、苺の乗ったお菓子。
「これ……全部、私が食べていいの?」
「ああ。全部お前のものだ。遠慮はいらない、好きなだけ食べなさい」
鬼神は、私が狼呑虎燕する様子を、まるで世界で一番尊いものを見るかのように、目を細めて見守っていた。
食事が終わり、私はふと、自分の腕を見て息を呑んだ。
「傷が……ない」
昨日まで、私の痩せ細った腕には、父親に殴られた青痣や、刃物でつけられた切り傷がびっしりと残っていたはずだ。
それが今、私の肌はまるで白磁のように滑らかで、傷一つ、痣一つない完璧な状態になっていたのだ。それどころか、泥だらけだった髪はサラサラに梳かれ、着ている服も、美しい桜色の着物に変わっていた。
「俺の家には、傷も、痛みも、飢えも存在しない」
鬼神は私のそばに歩み寄り、大きな手で私の頭を優しく撫でた。
「お前を傷つける人間は、ここには誰も入ってこれない。……サチ。これからはずっと、俺が父親としてお前を育ててやろう。お前はただ、ここで幸せに笑っていればいいんだ」
それは、私がずっとずっと、夢に見続けてきた言葉だった。
私を守ってくれる存在。私を愛してくれる存在。温かいご飯と、綺麗な着物。
私は涙をこぼしながら、鬼神の大きな胸に飛び込んだ。
「お父様……ッ」
私がそう呼ぶと、鬼神は心底嬉しそうに私を抱きしめ返してくれた。
それから、私と鬼神の『おままごと』のような生活が始まった。
箱庭での毎日は、恐ろしいほどに完璧で、平和だった。
朝起きると、鬼神が私の髪を梳かし、美しい着物を選んでくれる。庭で蝶を追いかけ、疲れたら彼のお腹を枕にしてお昼寝をする。三食必ず甘くて美味しいご飯が出てきて、夜は絵本を読んでもらいながら眠りにつく。
鬼神は、私に対して異常なほど過保護だった。
私が庭の石で少しつまづきそうになっただけで、血相を変えて飛んできて私を抱き上げ、「怪我はないか!? 石は全て砕いて捨てろ!!」と、庭の石を跡形もなく消し去ってしまったこともある。
幸せだった。
でも、その『完璧すぎる幸せ』の中で、私は時折、奇妙な違和感を覚えるようになっていた。
例えば、縁側の外にある見事な桜の木。
私がここに来てから、もう何度も眠って起きている(少なくとも数ヶ月は経っているはずだ)のに、その桜は常に『満開』のままで、一枚の羽すら散ることがないのだ。
空は常に春のうららかな陽気で、雨が降ることも、夜が来ることも、実は一度もなかったことに気がついた。私が「夜だ」と思って眠りについていたのは、ただ鬼神に「もう寝る時間だ」と言われて布団に入っていただけだった。
それに。
「……痛くない」
ある日、私は庭の茂みに隠れて、こっそりと自分の腕を木の枝で強く引っ掻いてみた。
赤い線が引かれた。しかし、血は一滴も出ず、痛みすら全く感じない。そして、その赤い線は数秒後にはスーッと消えて、元の完璧な白い肌に戻ってしまったのだ。
(ここは、本当にお父様の家なのかな)
(私……本当は、もう死んでるんじゃ……)
私は立ち上がり、庭のずっと奥、桜の木々の向こう側にある『白い霧』に向かって歩き出した。
このお屋敷の周囲は、常に分厚い白い霧に覆われている。鬼神からは「あの霧の向こうには恐ろしい化け物がいるから、絶対に近づいてはいけない」と固く禁じられていた場所だ。
でも、確かめたかった。
あの霧の向こうに、私の知っている『村』は本当にあるのだろうか。
父親や兄の顔を思い出すと、頭の奥がズキズキと痛み始める。
(お父様、お兄ちゃん……。痛い、叩かないで……)
私が霧に手を伸ばそうとした、その瞬間。
「――サチッ!!!」
背後から、空間を切り裂くような鬼神の怒号が響いた。
振り返る間もなく、私は背後から強い力で抱きすくめられた。
「ダメだと言っただろう!! あの霧の向こうには、決していってはならないと!!」
鬼神の赤い瞳は、見たこともないほどに見開かれ、強烈な焦燥と……隠しきれない『恐怖』に満ちていた。
私を抱きしめる彼の腕が、ガタガタと震えている。
「ごめんなさい、お父様……。でも、私、確かめたくて。あの霧の向こうに、私のいた村があるのか……私の、本当のお父さんたちが……」
私がそう口にした瞬間。
鬼神の表情が、スッと抜け落ちたように無感情なものに変わった。
周囲の桜の木が、ザワザワと不気味な音を立てて揺れ始める。
「……思い出すな」
鬼神の冷たい手が、私の両目をそっと覆った。
「外の世界には、醜い虫と、お前を傷つける汚物しかいない。……お前が思い出す必要のある現実は、何一つないんだ」
「でも、頭が痛いの……っ! 私、ここでずっと……あれ?」
私の抗議の声は、次第に小さくなっていった。
鬼神の冷たい手が目を覆うと同時に、私の頭を悩ませていたズキズキとした痛みや、村での惨惨たる記憶が、まるでホワイトボードの文字を黒板消しで拭き取るように、スーッと消え去っていくのを感じた。
「そうだな。頭が痛いなら、少し眠るといい。……起きれば、また美味しいお菓子を用意しておこう」
「……うん。おやすみなさい、お父様」
私は抗うことなく、彼の温かい腕の中で、再び深く、心地よい眠りへと落ちていった。
私が眠りにつく直前、鬼神が、何かをひどく憎むような、それでいて泣き出しそうな声で「……誰にも、邪魔はさせない。お前の心は、俺が守り抜く」と呟いたのが、微かに聞こえた気がした。
*****
次に目を覚ました時も、世界は完璧な春の朝だった。
「おはよう、サチ。よく眠れたか?」
ふかふかの絹の布団から身を起こすと、枕元にはいつものように、白銀の髪を持った美しい鬼神が優しく微笑んで座っていた。
その大きな手が私の頭を撫でる。温かくて、とても安心する感触。
私はふにゃりと笑って、「おはよう、お父様」と答えた。
……あれ?
一瞬、胸の奥にチクリとした違和感が走った。
私はどうして、ここが『いつものように』春の朝だと思ったのだろう。昨日眠る前、私は何を考えていたんだっけ。
何かとても大切なことを確かめようとして、霧の方へ行って……そこから先が、すっぽりと抜け落ちている。まるで、本を読んでいて、一番重要なページだけが綺麗に破り捨てられているような感覚。
「どうした? ぼんやりして。どこか痛むのか?」
鬼神が、サッと顔色を変えて私の顔を覗き込んできた。その赤い瞳には、過剰なほどの心配と、焦りが浮かんでいる。
「ううん、なんでもないよ。ちょっと寝ぼけちゃっただけ」
「そうか。ならいい。さあ、顔を洗って着替えよう。今日の朝餉は、お前が好きだと言っていた甘い卵焼きをたくさん用意させたぞ」
鬼神に抱き上げられ、私は縁側へと運ばれる。
目の前に広がるのは、一枚の羽も散ることのない、永遠に満開の桜の木々。
私は出された朝食を口に運んだ。
甘い。とても甘くて、美味しい。でも、なんだか今日は、その甘さがひどく平坦で、まるで『味のついた紙』を噛んでいるように感じられた。
(おかしいな。お父様のご飯は、いつも世界一美味しいのに)
私はその違和感を隠すように、無理をして卵焼きを全部飲み込んだ。
鬼神はそれを見て、ホッと安堵の吐息を漏らし、満足そうに私の頭を撫で続けた。
それから数日(この箱庭には夜がないので、私が眠って起きた回数で数えるしかないのだが)、箱庭の様子が、少しずつおかしくなり始めていた。
『ピッ…………ピッ…………ピッ…………』
最初、それは耳鳴りかと思った。
縁側で鬼神の膝を枕にしてお昼寝をしていた時、遠くの空から、ひどく規則的で、無機質な音が聞こえてきたのだ。
それは、鳥の声でも、風の音でもない。私が今まで生きてきた『村』の生活の中では、一度も聞いたことのないような、冷たい金属的な音。
「お父様……今の音、なに?」
私が身を起こして空を見上げると、鬼神はビクリと肩を震わせた。
「……なんでもない。ただの、遠雷だ。山の向こうで嵐が来ているのだろう。サチが気にする必要はない」
「でも、雷の音には聞こえないよ。もっと……」
『ピッ…………ピッ…………』
「聞くなッ!!」
突如、鬼神が私の両耳を、大きな手で強く塞いだ。
その力は今までになく乱暴で、私は思わず「痛いっ」と声を上げてしまった。
「あ……」
鬼神はハッとして手を離し、自らの手を震えながら見つめた。
「すまない、サチ。痛かったな……違うんだ、俺は、お前を傷つけるつもりは……ッ」
彼が激しく狼狽しているのが分かった。
私を何よりも大切に、過保護に扱ってきた彼が、私に痛みを与えてしまったことに激しいショックを受けている。
「大丈夫だよ、お父様。ちょっとびっくりしただけだから」
私は彼の大きな手を両手で包み込み、笑って見せた。
しかし、その時。私は鬼神の手の甲に、信じられないものを見た。
彼の白く滑らかな肌の表面に、ピキッ、ピキピキッ、と、まるで陶器が割れるような黒い亀裂が走っていたのだ。
「お父様、これ……手が、割れてる……っ!」
「……気にするな。少し、外の害虫どもを追い払うのに、力を使っているだけだ」
鬼神はバツが悪そうに手を隠し、立ち上がった。
「俺は少し、結界の修復に行ってくる。サチはここで、大人しく待っているんだぞ」
「お父様……!」
鬼神は私の制止を聞かず、庭の奥、あの白い霧の立ち込める方向へと足早に消えていってしまった。
一人残された縁側で、私は空を見上げた。
『ピッ…………ピッ…………』という音は、鬼神がいなくなっても、いや、いなくなったからこそ、より鮮明に空から降り注いでくる。
ふと、青空の一部が、パラパラと剥がれ落ちるのが見えた。
文字通り、「空の絵」が剥がれ落ちたのだ。
剥がれた青空の奥に見えたのは、果てしない暗闇。そして、その暗闇の奥から、今度は別の音が聞こえてきた。
『……チちゃん。……聞こえ……サチちゃん……』
女の人の声だ。
村のお母さんの声じゃない。もっと高く、はっきりとした、聞いたことのないような響きの声。
『……圧低下……血圧を上げる薬を……』
『……しっかりして……もう少しで……』
頭が、割れるように痛い。
何かが、私の頭の奥底に流れ込んでこようとしている。
私は頭を抱え、畳の上でのたうち回った。
(痛い……痛いよ、やめて。私には、お父様がいるのに。ここは、痛みなんてない世界のはずなのに!)
私は、鬼神の姿を探して庭に転がり出た。
彼なら、この痛みを消してくれる。また私の目を覆って、嫌な記憶を全部消して、温かい布団で寝かしつけてくれる。
だから、彼を呼ばなきゃ。
「お父様……っ! お父様、どこ……っ!」
私は、彼が向かった庭の奥、白い霧の立ち込める境界線へと向かって、ふらつく足で走り出した。
永遠に散らないはずの桜の木々が、今は激しい風に煽られ、狂ったように花びらを散らしている。
空はひび割れ、そこから無機質な機械音と、知らない大人たちの緊迫した声が絶え間なく降り注ぐ。
完璧だった箱庭が、音を立てて崩壊しようとしていた。
「お父様!!」
霧の境界線に辿り着いた私は、そこで信じられない光景を目撃した。
白い霧の向こう側から、巨大な『黒い腕』のようなものが無数に伸び、箱庭の結界をこじ開けようとしていた。
そして鬼神は、たった一人でその黒い腕の群れに立ち向かい、自らの爪と牙で必死にそれを引き裂き、喰いちぎっていたのだ。
「来るなァァッ!! この子は俺が守る! 俺の箱庭から出て行けェェッ!!」
鬼神の咆哮が、世界を震わせる。
しかし、彼の身体はすでにボロボロだった。
あの美しい白銀の髪は汚れ、肌には無数の黒い亀裂が走り、そこから血の代わりに、ドロドロとした黒い泥のようなものが溢れ出している。
彼が黒い腕を一本引き裂くたびに、彼自身の身体も砕け、悲鳴を上げているのが分かった。
「お父様……やめて! もうやめて!!」
私は叫びながら、鬼神の背中に駆け寄り、すがりついた。
「サチ!? なぜここに来た、見るなと言っただろう!!」
鬼神が血走った赤い瞳で振り返る。
その顔の半分はすでに砕け散り、黒い虚無が覗いていた。
「あなたが死んじゃう! お願いだから、もう戦わないで!」
「ダメだ……。こいつらを入れれば……お前が、お前が壊れてしまう……ッ」
鬼神は、私をかばうように背中に回し、再び黒い腕に向かって立ち上がろうとした。
でも、私は気がついてしまったのだ。
霧の向こうから伸びてくる黒い腕。それが、鬼神を攻撃しているのではないということに。
黒い腕は、ただ『霧を晴らそうと』しているだけ。光を届けようとしているだけだ。
そして、その光を「外敵」と見なし、狂信的なまでに拒絶し、箱庭に閉じこもろうとしているのは――鬼神の方なのだと。
(あの霧の向こうに、何があるの……?)
『ピッ…………ピッ…………』
『……サチちゃん、頑張って……!』
声が、どんどん大きくなる。
私は、鬼神の腕をすり抜け、彼が必死に隠そうとしている『霧の向こう側』へと、自ら手を伸ばした。
「やめろ、サチィィィッ!! それ以上は、思い出すなァッ!!!」
鬼神の悲痛な叫び声と同時に。
私の指先が、白い霧に触れた。
パァァァンッ!!!
強烈な閃光が視界を白く染め上げ、ガラスが粉々に砕け散るような轟音と共に、箱庭の結界が完全に決壊した。
そして、怒涛のように、せき止められていた『現実の記憶』が、私の脳髄を直接殴りつけるように雪崩れ込んできたのだ。
*****
――冷たい、コンクリートの床。
血の匂いと、カビの臭い。
『サチ!』という名前は同じだが、私は昔話に出てくるような村の生贄などではなかった。
私は、現代の、どこにでもある薄汚れたアパートの一室に住む、ただの小学生だった。
村の着物なんて着たことはない。着ていたのは、洗ってもらえずに黄ばんだ、キャラクター物の古着のTシャツ。
私を殴っていたのは、村人ではない。
酒に酔った現実の父親と、ストレスの捌け口に私を蹴り飛ばす、高校生の兄だ。
『どうして生きてるんだ、お前なんか』
『お前のせいで、母さんは出て行ったんだぞ』
鈍い衝撃。
何度も、何度も、何度も。
バールのような鉄の棒が、私の細い足の骨を砕き、肋骨を折り、内臓を破裂させる感触。
痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛いッ!!
あの日。
限界を超えた暴力の果てに、私の身体は完全に壊れた。
薄れゆく意識の中で、誰かが通報したのか、サイレンの音が近づいてくるのを聞いた。
『ひどい……児童虐待です! 意識レベル低下、すぐに救急車を!』
『脈が弱くなっています、急いで!』
赤いサイレンの光。
見知らぬ大人たちの怒号。
救急車のストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを当てられた時。
私の心は、あまりの苦痛と絶望に耐えきれず、完全に『シャットダウン』したのだ。
(痛い……もう、嫌だ……)
(こんな世界、なくなっちゃえばいい。私を傷つける奴らなんか、全員……死んでしまえ!!)
その強烈な自己防衛本能と、世界に対するすさまじい憎悪、そして「誰かに優しく守られたい」という幼児のような切実な願いが混ざり合い、私の精神の奥底で、一つの形を成した。
それが、全てを破壊する力と、私だけを溺愛する優しさを併せ持つ、箱庭の『鬼神』だったのだ。
私が村の生贄だと思い込んでいたのは、現実の虐待から目を背けるため、昔読んだ絵本の設定を借りて作り上げた『設定』に過ぎなかった。
鬼神が私に与えてくれた完璧な春の日は、昏睡状態の私が見ていた、終わらない夢。
『ピッ…………ピッ…………』という音は、病院の集中治療室(ICU)で、私の命を繋いでいる心電図モニターの音。
『サチちゃん、頑張って』と呼びかけていたのは、現実世界で私を看病し、目覚めさせようとしてくれている看護師さんや、お医者さんの声だったのだ。
「あ、あぁぁぁぁぁっ!!」
フラッシュバックする全身の激痛と、絶望的な現実の記憶に、私は頭を抱えて絶叫した。
夢の中でさえ、私の身体は現実の痛みを錯覚し、ガタガタと痙攣し始める。
息ができない。折れた肋骨が肺に刺さるような激痛。
「サチッ!! だから見るなと言ったのだッ!!」
ボロボロに砕け散りかけた鬼神が、私を強く、その胸に抱きしめた。
「俺は、お前をこんな現実に帰したくなかった……! お前が目覚めれば、待っているのは地獄の苦痛だけだ! 身体の痛みだけではない、親に愛されず、殺されかけたという絶望が、お前の心を完全に壊してしまう!!」
鬼神の赤い瞳から、血の涙がこぼれ落ちていた。
彼は、私の心そのものだ。
彼が私を箱庭に閉じ込めていたのは、私を支配するためではない。
残酷な現実から私を守り、死の淵に立たされた私の精神が崩壊するのを、たった一人で防ぎ続けてくれていたのだ。
「……お父様……。ううん、あなたは……私、なんだね」
私は、激痛に顔を歪めながらも、鬼神の崩れかけた頬にそっと手を伸ばした。
「俺は、お前の『怒り』だ。お前を傷つけた世界への『憎悪』だ。……そして、誰かに守られたかったという、お前の『弱さ』の結晶だ」
鬼神は、子どものようにしゃくり上げながら、私のおでこに自らの額をすり合わせた。
「サチ……お願いだ。目を覚まさないでくれ。外の世界の連中の声など聞くな。……俺が、お前の痛みを全部食ってやる。お前の絶望を全部隠してやる。だから……このまま、俺と一緒に、永遠にこの箱庭で『おままごと』を続けよう。……俺がお前の父親になって、一生、愛してやるから……ッ」
それは、甘く、恐ろしい誘惑だった。
現実に戻れば、私は集中治療室のベッドの上で、チューブに繋がれ、生き地獄のような痛みと向き合わなければならない。
親に殺されかけたという事実を抱えて、独りぼっちで生きていかなければならない。
ここで彼の腕の中で目を閉じれば、永遠に痛みのない、優しい春の夢の中で微睡んでいられるのだ。
心電図の音が、次第にゆっくりと、弱くなっていくのが聞こえた。
現実世界の私の心臓が、生きることを諦め、止まろうとしているのだ。
私は、鬼神の胸に顔を埋めた。
温かい。本当に、このままここで溶けてしまいたい。
でも。
『……サチちゃん、負けないで! あなたは悪くない! 生きて、ちゃんと幸せになる権利があるのよ!!』
霧の向こうから聞こえてきた、名前も知らない看護師さんの声が、私の胸の奥を強くノックした。
(私は……悪くない……?)
そうだ。
私は、殴られるために生まれてきたんじゃない。
私が、現実から逃げてここで死んでしまったら、あの残酷な父親や兄が「あいつは勝手に死んだ」と笑って終わるだけだ。
それは、絶対に嫌だ。
私は、ゆっくりと、しかしはっきりとした力で、私を抱きしめる鬼神の腕を押し返した。
「サチ……?」
「ありがとう。……私のために、ずっと怒ってくれて。私を守るために、箱庭を作ってくれて」
私は、ボロボロになった私の『防衛本能(鬼神)』に向かって、真っ直ぐに微笑んだ。
「でも、もう大丈夫だよ。……私は、目を覚ます」
「ダメだ! お前が死んでしまう!! あの激痛に、お前の小さな心が耐えられるはずがないッ!!」
鬼神は必死に私を引き留めようとした。
「耐えられるよ。だって、私の中には……あなたがいてくれるから」
私は、鬼神の大きな手を両手で握りしめた。
「あなたは、私の怒りで、私の憎悪で、私自身なんでしょ? だったら……この箱庭に閉じこもるんじゃなくて、私と一緒に現実に行ってよ」
「現実へ……?」
「うん。私、もう泣き寝入りしない。現実の痛みに負けない。……私を傷つけた奴らを絶対に許さないし、私の人生を、私自身の足で取り戻す。……そのためには、あなたのその『強さ(怒り)』が必要なの」
逃げるための防衛本能じゃない。
立ち向かい、生き抜くための力として。
私の中にある強烈な怒りと憎悪を、私は否定せず、自分のものとして受け入れると決めたのだ。
私の言葉に、鬼神は目を見開き、やがて、その赤い瞳から大粒の涙をこぼして、深く、深く頷いた。
「……ああ。お前がそれを望むなら。俺は、お前の箱庭の父親ではなく……お前自身の『魂の牙』となって、永遠に共にあろう」
鬼神の巨大な身体が、眩い白銀の光となって弾け飛んだ。
光は温かい奔流となって、私の胸の奥、心臓の中心へと吸い込まれていく。
私の中に、今まで感じたことのないような、熱く、力強い命の鼓動が満ち溢れていくのが分かった。
そして、世界を覆っていた白い霧が、完全に晴れ渡った。
『ピッ…………ピッ…………ピッ、ピッ、ピッ!!』
徐々に弱まっていた心電図の音が、力強く、速いテンポで鳴り響き始める。
(帰ろう。私の、本当の人生に)
私は、光の中で、しっかりと前を見据えて、現実への扉を開いた。
重く、ひどく重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、永遠に散らない桜の木々ではなく、無機質で真っ白な天井だった。
ツンとする消毒液の匂い。そして、耳元で規則的に鳴り響く『ピッ、ピッ、ピッ』という電子音。
「……あ、」
声を出そうとして、喉がカラカラに乾いていることに気がついた。
同時に、全身を恐ろしいほどの激痛が駆け巡った。
頭から足の先まで、まるで無数の焼け火箸を突き立てられているかのような生き地獄の痛み。折れた肋骨が軋み、砕かれた足の骨が悲鳴を上げている。麻酔や鎮痛剤が効いていてもなお、現実の肉体の損傷は、容赦なく私に牙を剥いてきた。
(痛い……ッ!)
私はシーツの中で歯を食いしばり、顔を歪めた。
以前の私なら、この痛みに耐えきれずに再び意識を手放し、あの箱庭の奥深くへと逃げ込んでいただろう。
でも、今は違う。
激痛に苛まれる胸の奥底で、トクン、トクンと、私の心臓とは別の、もう一つの力強い鼓動が脈打っているのを感じた。
温かく、絶対に折れない鋼のような意志。私と共に現実を生き抜くと誓ってくれた、私の『魂の牙』。
(大丈夫。……私は、生きてる)
「あ……先生ッ! サチちゃんが、サチちゃんが目を覚ましました!!」
不意に、ベッドの傍らから弾んだ声が上がった。
視線を向けると、一人の若い看護師さんが、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら私を見下ろしていた。
あの箱庭の霧の向こうから、私を現実へと呼び戻し続けてくれた、あの声の主だった。
バタバタと足音が近づき、白衣を着た医師たちが数人、血相を変えてベッドを囲み込んだ。
「信じられない……。あれほどの外傷と臓器の損傷で、心停止まで起こしていたというのに。……サチちゃん、私の声が聞こえるかい? ここがどこだか分かる?」
医師がペンライトで私の瞳孔を確認しながら、優しく、しかしひどく緊張した声で問いかけてきた。
私は、かすれる声で、ゆっくりと答えた。
「びょういん……。わたし、生きて、る……」
「そうだ、病院だよ。君はよく頑張った。本当に、よく戻ってきてくれた……!」
医師は安堵の息を吐き出し、看護師さんは私の無事な方の左手を両手で包み込み、ボロボロと泣き崩れた。
その手の温かさは、箱庭の鬼神の手とは違う、生身の人間の、不器用だけれど本物の温もりだった。
私は、酸素マスクの下で、ほんの少しだけ微笑んだ。
現実の世界は痛くて、冷たくて、残酷だけれど。
でも、こんな風に私のために泣いてくれる人がいる。私を助けようと必死になってくれる人がいる。
ここからが、私の本当の人生の始まりなんだ。
*****
それから数週間。
私の回復力は、担当の医師たちを心底驚かせるほどに劇的だった。
「医学の常識では考えられない」と彼らは首を傾げていたが、私には理由が分かっていた。私の中に溶け込んだあの鬼神の力が、私の折れた心と体を、内側から凄まじい生命力で繋ぎ合わせてくれているのだ。
一般病棟に移れるほどに回復したある日。
私の病室に、二人のスーツを着た男女が訪れた。警察の刑事と、児童相談所の職員だった。
「サチちゃん。体調のつらい時にごめんね。……今日、君に少しだけ、お話を聞かせてもらえないかな」
女性の児童福祉司が、私のベッドの横の丸椅子に座り、ひどく慎重に言葉を選びながら語りかけてきた。
「君がこんな大怪我をした理由について、なんだ。……君のお父さんは、『サチが勝手に階段から落ちた』と言っているんだけど……本当に、そうだったのかな?」
刑事の男性が、痛ましそうに私を見る。
彼らは皆、私が虐待を受けていたと確信している。だが、私が親の報復を恐れて「自分で転んだ」と嘘をついてしまうのではないかと、深く懸念しているのだ。
かつての私なら、そうしていた。父親の怒鳴り声が恐ろしくて、殴られるのが恐くて、ただ震えながら沈黙し、全てを自分のせいにして逃げていた。
でも、今の私は違う。
私は、上半身を起こし、彼らの目を真っ直ぐに見据えた。
怯えも、迷いもなかった。
「階段から落ちたのではありません。……お父さんに、鉄の棒で殴られました。お兄ちゃんには、お腹を蹴られました」
はっきりと、冷たい声で私は告げた。
その瞬間、刑事と児童福祉司の息を呑む音が聞こえた。彼らは、十歳の少女が、実の親の虐待をこれほどまでに理路整然と、涙一つこぼさずに告発するとは思っていなかったのだろう。
「あの日だけじゃありません。私は物心ついた時から、毎日殴られ、ご飯も三日に一回しか食べさせてもらえませんでした。……傷の場所、殴られた時のこと、全部覚えています。全部、お話しします」
私の中にいる鬼神が、熱く脈打つ。
これは、私を不当に傷つけてきた世界に対する、正当な『怒り』だ。
私は彼らに、今まで父親と兄から受けてきた地獄のような日々の全てを、淀みなく、一つ残らず証言した。
話を聞き終える頃には、児童福祉司の女性は耐えきれずにハンカチで顔を覆って泣き出し、恰幅の良いベテランの刑事は、怒りで拳を震わせていた。
「……よく話してくれたね、サチちゃん。辛かっただろうに、本当に勇気のある子だ」
刑事が、充血した目で私を見た。
「約束する。君をあんな目に遭わせた奴らを、絶対に許さない。君の安全は、我々が必ず守り抜く」
「よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。
自分の身を守るためには、他人の力に頼ることも必要なのだと、私はもう知っている。
しかし、事態は思わぬ方向へと転がった。
その日の夕方。
病室のドアが、突然バンッ!と乱暴に開け放たれたのだ。
「サチ!! お前、警察になんてこと吹き込みやがった!!」
怒鳴り込んできたのは、血走った目をした私の父親だった。
彼は警察の取り調べの隙を突いて病院に押し入り、無理やり私の病室までやってきたらしい。背後から、慌てて追いかけてきた看護師や警備員の制止の声が聞こえる。
「お前が勝手に階段から落ちたんだろうが!! 俺は何もやってない、全部このクソガキの嘘だ!!」
父親は、警備員を突き飛ばし、鬼の形相で私のベッドへと歩み寄ってきた。
その手には、以前私を殴る時に使っていたのと同じ、金属製の短い棒が握り締められている。逆上して、本気で私の口を封じに来たのだ。
「やめなさい! 警察を呼びますよ!!」
看護師さんが悲鳴を上げる。
父親が、私に向かって金属の棒を振り上げた。
「俺の人生を邪魔しやがって!! お前なんか、生まれてこなきゃよかったんだよ!!」
その言葉は、かつての私の心を最も深く抉り、絶望の底へと突き落としていた呪いの言葉だった。
でも。
(生まれてこなきゃよかった?……違う)
私は、ベッドの上で微動だにしなかった。
恐怖で目を閉じることも、怯えて身をすくめることもなかった。
ただ、静かに、氷のように冷たい視線で、私を殺そうと振り下ろされる父親の顔を、真っ直ぐに見据えた。
その瞬間。
私の中の『鬼神』が、完全に顕現した。
物理的な姿が外に出たわけではない。
しかし、私と視線が交差した瞬間、父親は私の背後に――病室の天井を突き破るほどの巨大な、漆黒の鬼神の幻影を『視た』のだ。
らんらんと輝く、血のような赤い瞳。怒りと憎悪の瘴気を纏った、絶対的な捕食者の姿。
私の小さな瞳の奥底に宿る、圧倒的な『魂の格の違い』。
「……ひっ!?」
父親の動きが、空中で完全に停止した。
彼は、信じられないものを見るように目をひん剥き、ガタガタと全身を激しく痙攣させ始めた。
私の目から放たれる、純粋で強烈な『怒りの圧力』が、彼のちっぽけで卑小な魂を、一瞬にしてすり潰したのだ。
「あ、あぁぁ……ッ、ば、化け物……ッ」
カラン、と。
父親の手から金属の棒が滑り落ち、床に転がった。
彼は腰から砕け落ちるように床にへたり込み、そのまま恐怖のあまり失禁して、ボロボロと情けない涙と鼻水を流し始めたのだ。
先ほどまでの傲慢な態度は跡形もなく消え去り、ただ怯えるだけの惨めな肉塊がそこに転がっていた。
私は、ベッドの上から、そんな父親を冷ややかに見下ろした。
かつては絶対的な恐怖の対象だったこの男が、今ではただの哀れで愚かな弱者にしか見えなかった。
「……お父さん」
私の静かな声に、父親は「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて肩をすくめた。
「もう二度と、私の前に現れないで。……次私の視界に入ったら、その時は本当に、食い殺すから」
私がそう言い放った直後、駆けつけてきた警察官たちによって、父親は床に這いつくばったまま取り押さえられ、手錠をかけられた。彼は抵抗する気力すらなく、ただ「化け物だ、食われる、助けてくれ」とうわ言のように繰り返しながら引きずられていった。
後日聞いた話では、兄もまた、警察の厳しい追及の末に全ての虐待の事実を自供し、二人揃って重い実刑判決を受けたという。
嵐は、完全に去った。
私の心の中に作られていた箱庭の結界が壊れたように、私を縛り付けていた現実の呪縛もまた、跡形もなく打ち砕かれたのだ。
*****
それから、一年後。
春の柔らかな陽射しが降り注ぐ、児童養護施設の広大なグラウンド。
私は、新しいスニーカーの紐をギュッと結び直し、大きく深呼吸をした。
「サチちゃん! こっちこっち! 早くドッジボールしよう!」
「今行くー!」
私を呼ぶ同年代の友達の声に向かって、私は駆け出した。
足の骨折の後遺症で少しだけびっこを引いているけれど、走ることに痛みはもうない。
ここは、私を保護してくれた新しい家だ。職員の人たちは皆優しくて、ご飯は毎日三食、温かくて美味しいものをお腹いっぱい食べられる。殴られることも、理不尽に怒鳴られることもない。
私は、ふと足を止め、グラウンドの隅に咲く見事な桜の木を見上げた。
花びらが、風に吹かれてハラハラと舞い散っている。
あの箱庭にあった、永遠に散らない偽物の桜ではない。散って、葉桜になって、冬を越えて、また次の春に美しく咲き誇る、本物の、命のある桜だ。
(……綺麗だね)
心の中でそっと呟くと、胸の奥底で、トクンと温かい鼓動が返ってきた気がした。
私の中にいる彼は、もう二度と私の前に姿を現すことはない。
でも、彼は私自身として、私の生命力として、この胸の奥でずっと私を守り続けてくれている。
誰かを憎むためではなく、私が私として、強く、誇り高く生きていくための力として。
「サチちゃん、早くー!」
「あはは、待ってよ!」
私は桜の木に小さく手を振ると、光に満ちたグラウンドの中心へと、力強く駆け出していった。
もう、悲しい夢を見る必要はない。
おままごとは、これで終わり。
ここから始まるのは、私が私自身の足で歩いていく、たった一つの、私の大切な物語だ。




