第3話:肖像画の裏に潜む悲しい真実
【シーン1:有力者の依頼】
港街エテルナの朝は、パン屋『陽だまりベーカリー』から届く焼きたてのパンの香りで始まります。ロゼッタたちはすっかりそのパンの虜になり、今では毎朝の楽しみとなっていました。
探偵事務所の評判も少しずつ広がり、この日、事務所のドアを叩いたのは、街でも指折りの有力者、貿易商のグスタフ・フォン・ヴァイスマンでした。
「こちらが、リーベンベルク探偵事務所殿でございますか? 噂には聞いておりましたが、このような趣のある場所に…」
ヴァイスマンは、上質な服を身につけ、その顔には深い疲労と困惑の色が浮かんでいました。ロゼッタは立ち上がり、にこやかに迎え入れます。
「はい、そうでございます! リーベンベルク探偵事務所へようこそ! わたくしが探偵のロゼッタ・フォン・リーベンベルクでございます。ヴァイスマン様、本日はどのようなご用件でいらっしゃいましたか? どうぞ、お楽になさってくださいませ」
リリアはすぐにヴァイスマンに最高級の紅茶を淹れ、温かい湯気が立ち上るカップを差し出しました。オスカーは手帳を広げ、その姿勢はいつになく真剣でした。有力者の依頼は、事務所にとって大きな意味を持ちます。
「ああ、これはご丁寧に。わたくし、グスタフ・フォン・ヴァイスマンと申します。実は、まことに恥ずかしいお話なのですが…」
ヴァイスマンはそう言うと、深くため息をつき、カップを両手で包み込みました。
「わたくしの屋敷に飾ってある、大切な肖像画が何者かに傷つけられてしまいましてな。それも、顔の部分を、まるで悪意を持って切り裂いたかのように…見るも無残な姿でございます」
ヴァイスマンの声は震え、その目には怒りよりも、深い悲しみが宿っているようでした。ロゼッタは、彼の言葉から、肖像画への深い愛情と、傷つけられたことへの痛みがじんわりと伝わってくるのを感じました。
「肖像画が…それは大変でございますわね。ヴァイスマン様にとって、どれほど大切なものであったか、お察しいたします。どなたか、心当たりのある方は?」
ロゼッタは優しく問いかけます。
「それが…全く。わたくしには、そのような恨みを買う覚えはございません。商売敵はおりますが、このような陰湿な真似をする者ではございませんし…。しかし、これほどの悪意を持って傷つけられたとなると…わたくしには、もうどうすれば良いか…」
ヴァイスマンは言葉を詰まらせ、頭を抱えました。ティムがロゼッタの肩で、興味深そうにヴァイスマンを見つめています。
「ふん、悪意ねぇ。人間ってのは、すぐにそうやって決めつけるんだよな。もっと複雑なもんだろ、人間の感情ってのは」
ティムがぶっきらぼうに呟くと、オスカーが眼鏡をクイッと上げました。
「ティム殿、依頼人の心情を理解することは、探偵の基本です。しかし、悪意の有無を判断するには、客観的な証拠と、冷静な分析が必要となります。感情論だけでは、真実にはたどり着けません」
「へいへい、学者様は理屈っぽいこと。もっと直感を信じろってんだ」
ティムは呆れたように肩をすくめました。リリアはそんなティムの言葉が聞こえないため、ロゼッタとオスカーが虚空に向かって話しているように見え、少し不思議そうな顔をしていました。
「お嬢様、オスカー。わたくしに、何かお手伝いできることはございませんか? ヴァイスマン様の悲しみが、わたくしにも伝わってまいります」
リリアが心配そうに尋ねます。
「ええ、リリア。ありがとう存じます。まずは、ヴァイスマン様から、肖像画について詳しくお話を伺いましょう。その肖像画は、いつ頃、どなたが描かれたものなのでしょうか? そして、どなたの肖像画でございますか?」
ロゼッタはヴァイスマンに優しく問いかけました。ヴァイスマンは頷き、肖像画が亡き妻が特に気に入っていた、親友の画家によって描かれた、自分自身の肖像画であることを説明し始めました。
【シーン2:肖像画の共感覚】
翌日、ロゼッタ、リリア、オスカーの三人は、ヴァイスマンの屋敷を訪れました。屋敷は豪華絢爛で、リーベンベルク家の屋敷を思い出させるほどです。肖像画は広間の壁に飾られており、顔の部分が大きく切り裂かれていました。
「これが、傷つけられた肖像画でございます…わたくしの妻が、最も大切にしていた絵で…」
ヴァイスマンは悲しげに肖像画を指差しました。ロゼッタは、その絵にそっと指先を触れました。
「この絵からは…『後悔』と『悲しみ』の感情が強く伝わってきますわ…まるで、心臓を掴まれるような…そして、微かな『許しを請う』ような…そんな切ない想いも…」
ロゼッタが共感覚で感じ取ったことを口にすると、オスカーはすぐに手帳に書き留めました。
「なるほど、悪意ではなく、後悔と悲しみ…これは、犯人の動機が、我々の想像とは異なる可能性を示唆しています。ヴァイスマン様、この絵に描かれているのは、ヴァイスマン様ご自身でいらっしゃいますね?」
オスカーはそう言うと、肖像画の切り裂かれた部分や、周囲の状況を注意深く観察していきます。
「リリア、この絵の素材や、使われている絵の具について、何か分かることはございますか? 鋭利な刃物と仰っていましたが、もう少し詳しく…」
ロゼッタの言葉に、リリアは肖像画に近づき、細部を調べました。
「かしこまりました、お嬢様。絵の具の質は非常に高く、描かれた年代もかなり古いもののようです。熟練の画家が、時間をかけて描いたものと見受けられます。切り裂かれた跡は、鋭利な刃物によるものかと存じます。おそらく、ナイフのような…」
リリアはそう報告しました。ヴァイスマンは首を傾げます。
「後悔と悲しみ…? 許しを請う…? しかし、一体誰が、そのような感情でわたくしの肖像画を…? わたくしには、全く心当たりがございません…」
「ヴァイスマン様、この絵に込められた感情は、犯人の心境を表している可能性が高いです。悪意ではないということは、何らかの誤解や、悲しい出来事が背景にあるのかもしれません。私たちは、その真実を突き止めたいと存じます」
オスカーが断言しました。ロゼッタも深く頷きます。
「ええ、この絵は、まるで誰かに許しを求めているようですわ。ティム、あなたも何か感じることはありますか? この絵から、もっと何か…」
ティムがロゼッタの肩で、腕組みをしながら絵を見つめました。
「ふん、人間ってのは、複雑な感情を持つもんだな。この絵からは、確かに『悲しい嘘』の匂いがするぜ。描かれた本人も、描いた奴も、どっちも嘘つきって感じだな」
ティムがぶっきらぼうに呟くと、ロゼッタはティムの言葉に、くすりと笑いました。ヴァイスマンはロゼッタとティムのやり取りを不思議そうに見ていましたが、ロゼッタの真剣な眼差しに、期待の眼差しを向けました。
【シーン3:オスカーの推理】
事務所に戻ったロゼッタは、オスカーに共感覚で得た情報を伝えました。
「オスカーさん、あの絵からは、とても深い悲しみと、何かを悔いているような感情が伝わってきましたわ。悪意ではなかったように思います。そしてティムは、『悲しい嘘』と言っていました」
「なるほど…悪意ではない、と。しかし、肖像画を傷つけるという行為は、通常、強い恨みから来るもの。この矛盾を解き明かす必要がありますね。ティム殿の『悲しい嘘』という言葉も、非常に示唆に富んでいます」
オスカーは眼鏡をクイッと上げ、思考を巡らせます。
「ヴァイスマン様の過去の事業について、もう少し詳しく調べてみましょう。特に、親友の画家との関係性について、何か手がかりがあるかもしれません。肖像画が親友の画家によって描かれたという事実も、見過ごせません」
オスカーはそう言うと、リーベンベルク家の古文書や、街の商業記録を調べ始めました。数時間後、オスカーは一枚の古い書類を手に、興奮した様子でロゼッタとリリアに報告しました。
「ロゼッタ様、リリアさん! 見つけました! ヴァイスマン様と、彼の親友であった画家、そしてもう一人の商人との間で、過去に大規模な共同事業が行われていた記録です!」
オスカーの声には、確かな発見の喜びがこもっていました。
「共同事業でございますか? それが、今回の事件とどう繋がるのでしょうか?」
リリアが首を傾げます。
「ええ。しかし、この事業は最終的に失敗に終わり、大きな損失を出しています。そして、その失敗の責任を巡って、ヴァイスマン様と画家の親友の間で、激しい口論があったと記されています」
オスカーはそう言うと、さらに顔を近づけて書類を読み込みました。
「そして…その口論の後、画家の親友は、この街から姿を消したと…その数年後、遠い地で病に倒れ、亡くなったと記録されています」
ロゼッタの心に、肖像画から感じた「後悔」と「悲しみ」の感情が、より鮮明に蘇ってきました。
「つまり、ヴァイスマン様は、その事業の失敗と、親友との仲違いを悔いている、ということなのでしょうか…? だから、絵が『許しを請う』ように感じられたのですね…」
ロゼッタが問いかけると、オスカーは深く頷きました。
「その可能性が高いです。そして、肖像画を傷つけた犯人は、その親友、あるいはその関係者である可能性が浮上します。彼らの間に、何らかの誤解が生じていたのかもしれません」
ティムがロゼッタの肩で、腕組みをして言いました。
「へぇ、人間ってのは、過去のしがらみに縛られるもんだな。面倒くせー。仲良くすればいいだけなのに」
「ティム殿、人間関係は複雑なものです。特に、金銭や名誉が絡むと、感情は容易にこじれてしまいます。しかし、その複雑さの中にこそ、真実が隠されているのです。そして、それを解きほぐすのが、我々探偵の使命です」
オスカーが真面目な顔でティムに反論すると、ティムは呆れたように肩をすくめました。
【シーン4:リリアの聞き込みと真相】
オスカーの推理を受け、リリアは街の酒場へと向かいました。酒場は街の噂話が集まる場所です。リリアは、ヴァイスマン家の元使用人や、画家の親友を知る者たちから、慎重に聞き込みを行いました。
「あの…少しお伺いしてもよろしいでしょうか? ヴァイスマン様の屋敷で、以前お仕えになられていたと伺いましたが…」
リリアが優しく声をかけると、元使用人は警戒しながらも、リリアの丁寧な態度に少しずつ心を開いていきました。
「ああ、ヴァイスマン様ねぇ。昔は気前の良い方だったんだが、あの事業の失敗以来、すっかり変わっちまったよ。特に、あの画家さんとの仲違いは、見ていて辛かったねぇ…」
元使用人はそう言うと、遠い目をしました。
リリアはさらに聞き込みを進め、ついに決定的な情報を手に入れました。画家の親友には息子がおり、その息子は、父親が事業の失敗で苦しんだのはヴァイスマンのせいだと信じ込んでいたというのです。父親が亡くなった後も、その恨みを募らせていたと。
「つまり、肖像画を傷つけたのは、その息子さん…ということなのでしょうか? その息子さんは、今もこの街に?」
リリアが尋ねると、元使用人は悲しげに頷きました。
「ああ、あの息子さんは、父親が亡くなった後も、ずっとヴァイスマン様を恨んでいましたからねぇ…まさか、あんなことをするとは…今も、街の片隅で細々と絵を描いていると聞いていますよ」
事務所に戻ったリリアは、ロゼッタとオスカーに、聞き込みで得た情報を報告しました。
「お嬢様、オスカー。肖像画を傷つけたのは、ヴァイスマン様の親友であった画家の息子さんで間違いありません。彼は、父親が事業の失敗で苦しんだのはヴァイスマン様のせいだと、深く誤解していたようです。その恨みが、今回の行動に繋がったかと」
リリアが報告すると、ロゼッタは悲しげな表情を浮かべました。
「やはり、そうでしたか…誤解から生まれた、悲しい出来事だったのですね。お父様を思う気持ちが、彼をそうさせてしまったのですね…」
オスカーは手帳に情報を書き込みながら、深く頷きました。
「これで全てのピースが揃いました。ヴァイスマン様の肖像画から感じた『後悔』と『悲しみ』、そして息子さんの『恨み』。全ては、誤解から生じた悲劇だったのです。我々は、この誤解を解き、真実を伝える必要があります」
ティムがロゼッタの肩で、腕組みをして言いました。
「ふん、人間ってのは、ホント面倒くせーな。もっと素直になればいいのに、意地張って拗らせるんだから」
「ティム殿、そう簡単なことではございません。感情は時に、真実を覆い隠してしまうものです。しかし、私たちには、その複雑な感情を解きほぐし、真実へと導く使命があるのです」
オスカーが真面目な顔でティムに反論すると、ティムは呆れたように肩をすくめました。
【シーン5:解決と新たな依頼】
ロゼッタたちは、ヴァイスマンと画家の息子を事務所に呼び、全ての真相を説明しました。ロゼッタは共感覚で感じ取った、ヴァイスマンの心からの後悔と、息子が抱える父親への愛情を伝えました。
「ヴァイスマン様は、事業の失敗で親友を苦しめてしまったことを、心から悔いていらっしゃいます。そして、息子さん、あなたのお父様も、ヴァイスマン様との友情を、最後まで大切に思っていらっしゃいましたわ。
お父様は、決してヴァイスマン様を恨んではいなかった。ただ、事業の失敗で、ご自身の夢が潰えてしまったことを悲しんでいらっしゃっただけなのです」
ロゼッタが優しく語りかけると、ヴァイスマンは目に涙を浮かべ、息子に深々と頭を下げました。
「息子よ…わたくしは、あの時の過ちを、ずっと悔いておりました。お父上を苦しめてしまったこと、本当に申し訳なかった。わたくしが、もっと早く、真実を話すべきだった…」
息子もまた、父親の死の真相と、ヴァイスマンの心からの謝罪を知り、長年のわだかまりが解け、涙を流しながら和解しました。
「ロゼッタ様…本当に、本当に感謝いたします。わたくしどもの長年のわだかまりを、貴女様が解いてくださった…貴女様のお力は、まさに奇跡でございます」
ヴァイスマンは心から感謝の言葉を述べました。事務所の評判はさらに高まり、ロゼッタの共感覚の力は、街の人々の間で静かに語り継がれるようになりました。
その日の夕食時、リリアが作った温かいシチューを囲むロゼッタたち。
「お嬢様、本日のご依頼も無事に解決いたしましたね。ヴァイスマン様と息子さんの和解、わたくしも胸が温かくなりました。お嬢様のお力は、本当に素晴らしいですわ」
リリアがにこやかに言いました。
「ええ、リリア。本当に良かったですわ。人の心は複雑ですが、こうして理解し合える瞬間は、何よりも尊いものですね。皆が協力してくださったおかげですわ」
ロゼッタは満足そうに頷きました。
「私の分析によれば、今回のケースは、感情的な側面が非常に大きく、ロゼッタ様の共感覚がなければ解決は困難だったでしょう。改めて、その能力の重要性を認識いたしました。しかし、私の論理的な推理も、決して無駄ではなかったと自負しております」
オスカーが真面目な顔で言いました。
「ふん、俺がいなきゃ、お前ら何もできねーくせに。俺の存在を忘れるなよ、学者様」
ティムがロゼッタの肩で得意げに鼻を鳴らしました。
「ティムったら。でも、本当に皆のおかげですわ。リリアの聞き込みも、オスカーさんの推理も、ジンさんの情報も、ティムの助けも、全てがなければ解決できませんでしたもの。ありがとう」
ロゼッタが微笑むと、リリアとオスカーは顔を見合わせ、照れくさそうに目を逸らしました。
しかし、その夜遅く、探偵事務所の窓の外を、黒いローブをまとった人影が静かに通り過ぎていきました。彼らは、ロゼッタの能力に、静かな、そして深い興味を抱いているようでした。
ロゼッタたちの探偵事務所に、新たな影が忍び寄り始めていることを、まだ誰も知りませんでした。