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第2話:小さな事件と絆の始まり

【シーン1:パン屋さんの悩み】


リーベンベルク探偵事務所が正式に開業して数日。相変わらず依頼は多くありませんでしたが、ロゼッタたちは毎日、小さな事務所で来るべき依頼を心待ちにしていました。


そんなある日の午後、事務所のドアが控えめに開かれました。


「あの…こちらが、何でも屋…いや、探偵事務所さんでございますか?」


入ってきたのは、ふっくらとした体格の、人の良さそうな男性でした。小麦粉の白い粉がエプロンに付着しており、焼きたてのパンのような優しい香りが男性から漂ってきます。ロゼッタはすぐに、彼が街で評判のパン屋の店主だと気づきました。


「はい、そうでございます! リーベンベルク探偵事務所へようこそ! わたくしが探偵のロゼッタ・フォン・リーベンベルクでございます。何かお困りごとでしょうか?」


ロゼッタは立ち上がり、にこやかに迎え入れます。リリアはすぐに男性にお茶を差し出し、オスカーは手帳を広げて依頼内容を記録する準備を整えました。


「ああ、これはご丁寧に。わたくし、街のパン屋『陽だまりベーカリー』の店主でございます。本日は、まことに恐縮なのですが…」


男性はそう言うと、困ったように眉を下げ、深くため息をつきました。


「実は、最近どうにもパンの味が落ちてしまいましてな…。どんなに腕を振るっても、以前のようなふっくらとした焼き上がりにならず、香ばしさも足りない。お客さんからも『最近、味が変わったね』と言われる始末で…」


店主の声は、聞いているだけで胸が締め付けられるほど、悲しみに満ちていました。ロゼッタは店主の言葉に、彼の心に渦巻く「焦り」と「悲しみ」の感情が、じんわりと伝わってくるのを感じました。同時に、パン生地の「冷たさ」のような、漠然とした感覚も心に浮かびます。


「パンの味が…それは大変でございますわね。店主様は、毎日心を込めてパンを焼いていらっしゃるのに…」


ロゼッタは店主の心情に寄り添うように、そっと手を握りました。


「ご安心ください、店主様。わたくしが必ず、原因を突き止めさせていただきます! 私たちにお任せくださいませ」


「本当でございますか!? ああ、探偵様…いえ、ロゼッタ様! どうか、どうかお願いいたします!」


店主は目に涙を浮かべ、ロゼッタの手を強く握り返しました。ティムがロゼッタの肩で、興味深そうに店主を見つめています。


「ふん、パンの味か。そんなもん、美味けりゃいいんだろ? 大げさな奴だな」


ティムがぶっきらぼうに呟くと、オスカーが眼鏡をクイッと上げました。


「ティム殿、パンの味は、その店の評判、ひいては店主の生計に関わる重大な問題です。街の人々の食卓を支える大切な仕事。決して軽んじてはなりません」


「へいへい、学者様は真面目だねぇ。お堅いこと」


ティムは呆れたように肩をすくめました。リリアはそんなティムの言葉が聞こえないため、ロゼッタとオスカーが虚空に向かって話しているように見え、少し不思議そうな顔をしていました。


「お嬢様、オスカー。何か、わたくしにできることはございませんか?」


リリアが心配そうに尋ねます。


「ええ、リリア。まずは、店主様から詳しいお話を伺いましょう。パンを焼く際の、何か特別なこだわりなどはございますか?」


ロゼッタは店主に優しく問いかけました。店主は頷き、熱心にパン作りの工程を説明し始めました。


【シーン2:工房での調査】


翌日、ロゼッタ、リリア、オスカーの三人は、パン屋『陽だまりベーカリー』の工房を訪れました。工房は、焼きたてのパンの甘く香ばしい匂いが充満しており、ロゼッタは思わず深呼吸しました。


「うわぁ…! とても良い香りがいたしますわ! ここが、美味しいパンが生まれる場所なのですね!」


ロゼッタは目を輝かせ、工房の隅々まで見渡しました。


「こちらが、わたくしの工房でございます。どうぞ、ご自由にご覧ください。何なりとお申し付けくださいませ」


店主の案内で、ロゼッタは工房の中をゆっくりと見て回ります。ロゼッタは、パンを作るための道具や材料に、そっと指先で触れていきました。


「この小麦粉からは…『疲労』の感情がしますわ。なんだか、遠い場所から運ばれてきたような…そして、この発酵機からは…『冷たさ』が…まるで、震えているかのように…」


ロゼッタが共感覚で感じ取ったことを口にすると、オスカーはすぐに手帳に書き留めました。


「なるほど、小麦粉の疲労感…これは、保存状態か、あるいは輸送中に何らかの問題があった可能性を示唆しています。そして発酵機の冷たさ。これは温度管理に問題があるのかもしれませんね」


オスカーはそう言うと、工房の隅々まで目を凝らし、温度計や湿度計を注意深く確認していきます。


「リリア、そこの窓枠を調べていただけますか? 何だか、微かに冷たい風を感じるのです。私の共感覚が、そう囁いていますわ」


ロゼッタの言葉に、リリアはすぐに窓辺に近づきました。


「かしこまりました、お嬢様」


リリアが窓枠に触れると、わずかな隙間から冷たい空気が漏れていることに気づきます。


「お嬢様、確かにここから冷気が入ってきているようです。これでは、パン生地の発酵に影響が出るかもしれません。よくお気づきになられましたね」


リリアはそう報告しました。店主は首を傾げます。


「まさか、こんな小さな隙間が…? 毎日掃除はしているのですが、まさかそこから冷気が入っているとは…」


「店主様、この隙間から入る冷気が、パン生地の発酵を妨げ、味が落ちる原因となっている可能性が高いです。科学的にも、温度は発酵に極めて重要な要素ですから」


オスカーが断言しました。ロゼッタも深く頷きます。


「ええ、パン生地が『冷たい』と感じたのは、きっとこのせいだったのですね! オスカーさんの知識と、リリアの観察力、本当に頼りになりますわ!」


ティムがロゼッタの肩で、得意げに言いました。


「ほら見ろ、俺の言った通りだろ? お前ら人間は、五感に頼りすぎなんだよ。もっと俺の言葉に耳を傾けろってんだ」


ロゼッタはティムの言葉に、くすりと笑いました。


【シーン3:解決とリリアの活躍】


パン屋の工房の隙間風が原因だと判明すると、リリアはすぐに動き出しました。


「店主様、わたくしがすぐにこの窓枠を修理いたします。お嬢様、オスカー、少し離れていてくださいませ。工具は…ええ、ここにございますね」


リリアはそう言うと、どこからともなく小さな工具を取り出し、手際よく窓枠の歪みを直し始めました。その手つきは、メイドというよりも、まるで熟練の職人のようです。


ロゼッタとオスカーは、リリアの意外な一面に目を丸くしました。


「リリアは、こんなことまでできるのですね!? まさに、万能メイドさんですわ!」


ロゼッタが驚きの声を上げると、オスカーも感心したように頷きました。


「リリアさんは、リーベンベルク家の護衛として、あらゆる状況に対応できるよう訓練を受けています。修理技術もその一つなのでしょう。私も、この技術を学んでおくべきだったと、今更ながら後悔しています」


「ふん、メイドのくせに、なかなかやるじゃねーか。オスカー、お前も見習えよ」


ティムが感心したように呟きました。リリアはティムの言葉が聞こえないため、ロゼッタとオスカーが何か話しているように見えましたが、気にせず作業に集中します。


数分後、リリアは額にうっすらと汗を浮かべながらも、完璧に窓枠の修理を終えました。冷たい隙間風はぴたりと止まり、工房の温度は安定しました。


「これで、もう大丈夫でございます、店主様。これでパン生地も安心して発酵できるかと存じます」


リリアはにこやかに言いました。


「おお…! 素晴らしい! まさか、こんなに早く解決していただけるとは…! 本当に、本当にありがとうございます!」


店主は感動したように、リリアの手を握り、深く頭を下げました。


「これでまた、美味しいパンが焼けます! ロゼッタ様、リリア様、オスカー様、本当に感謝いたします!」


翌日、ロゼッタたちは、店主が焼いたばかりのパンを事務所で試食しました。焼きたてのパンからは、以前のような香ばしい匂いが立ち上り、一口食べると、ふっくらとした生地の優しい甘みが口いっぱいに広がります。


「美味しいですわ! 店主様のパンが、元に戻りましたわね! この香ばしさ、この甘み…感動でございます!」


ロゼッタは満面の笑みで言いました。リリアも満足そうに頷き、オスカーも静かにパンを味わっていました。


「ええ、完璧な焼き上がりでございます、お嬢様。わたくしも、店主様の笑顔を見ることができて、大変嬉しく存じます」


リリアが優雅に微笑みます。


「この発酵具合…まさしく理想的です。私の理論が正しかったことを証明する、極めて重要なデータとなります」


オスカーが眼鏡をクイッと上げ、満足そうに言いました。


「ロゼッタお嬢様のお力と、オスカーの知識、そしてわたくしの手があれば、どんな問題でも解決できますわね!」


リリアが誇らしげに胸を張ると、オスカーが眼鏡をクイッと上げました。


「いえ、リリアさん。あくまでロゼッタ様の共感覚が主軸であり、我々はそれを補佐しているに過ぎません。それに、修理技術は私の知識とは異なる分野です。専門外の領域で、そこまで誇らしげにされても…」


「なんですと! わたくしの技術も、お嬢様のお力の一部でございますわ! あなた様は、お嬢様のお役に立てばそれで良いとおっしゃるのですか!?」


二人がまた言い争いを始めると、ロゼッタはくすくす笑いました。パン屋の悩みは解決し、ロゼッタたちの探偵事務所の評判は、また一つ上がったのでした。


【シーン4:ジンとの出会い】


その日の午後、リリアは事務所で使う日用品の買い出しのため、港の倉庫街へ向かっていました。活気あふれる市場とは異なり、倉庫街は薄暗く、人通りもまばらです。


「ふむ…この辺りで、良質な保存食が手に入ると聞いたのですが…もう少し奥のようですわね」


リリアが地図を片手にきょろきょろしていると、不意に背後から声がしました。


「おい、そこのメイドさん。こんなところで何してんだ? 迷子か? 物騒な場所だぜ、ここは」


振り返ると、そこにいたのは、無造作な黒髪の少年でした。動きやすい服を身につけ、灰色の瞳はどこか警戒心を抱いているようです。街の裏事情に詳しいという、情報屋のジンです。


「いいえ、迷子ではございません。買い出しでございます。あなた様は? わたくしに何か御用でしょうか?」


リリアが冷静に問いかけると、ジンはニヤリと笑いました。


「俺はジン。この辺じゃ、知らない奴はいねぇ。あんた、リーベンベルク探偵事務所のメイドさんだろ? 最近、評判になってるぜ。特に、あのちっこい妖精が見えるって噂の…」


ジンの言葉に、リリアはわずかに目を見開きました。


「妖精…? あなた様には、ティムが見えるのですか!?」


リリアはティムの姿が見えないため、ロゼッタやオスカーがティムと話しているのを見て、不思議に思っていました。しかし、ジンがティムの存在を認識していることに、驚きを隠せません。


「ああ、見えるぜ。ちっこくて生意気な妖精だろ? ロゼッタお嬢さんの肩にいつも乗ってる。よく文句ばっか言ってやがる」


ジンはそう言うと、リリアの肩越しに、事務所にいるはずのティムの方向をちらりと見ました。リリアは、ジンがティムの姿を認識できることに、改めて驚きを感じました。


「まさか…あなた様も、共感覚の…?」


「共感覚? なんかよくわかんねーけど、俺は昔から、そういうのが見えるんだよ。あんたのお嬢さんの能力と、なんか関係あんのか? 最近、変な奴らが街をうろついてるって噂もあるしな」


ジンはぶっきらぼうに尋ねました。リリアは、ジンがティムの姿を認識できることに、ロゼッタの探偵業に役立つ新たな情報網としての可能性を感じました。


「ええ、ございます。もしよろしければ、わたくしたちの探偵事務所にご協力いただけませんか? あなた様の情報網は、きっとお嬢様のお力になるはずです。もちろん、それ相応の報酬はお支払いいたします」


リリアの申し出に、ジンは少し驚いた顔をしましたが、すぐにニヤリと笑いました。


「面白い。いいぜ、協力してやるよ。ただし、タダじゃねぇぞ。俺は腹が減ってちゃ動けねぇからな」


「もちろんでございます。では、今後ともよろしくお願いいたします」


こうして、リーベンベルク探偵事務所に、新たな協力者ジンが加わったのでした。


【シーン5:探偵事務所の日常】


依頼を終え、事務所に戻ったロゼッタたち。オスカーは今後の依頼の進め方について真面目に語り、リリアは皆のために紅茶を入れています。ティムは窓から外を眺めながら、街の小さな変化をロゼッタに話していました。


「ロゼッタお嬢様、ジン殿の情報網は非常に有用かと存じます。裏社会の情報は、我々だけではなかなか手に入りませんから。彼の情報は、今後の調査において極めて重要となるでしょう」


オスカーが真面目な顔で言いました。リリアも頷きます。


「ええ、わたくしもそう思います。彼がティムを認識できるというのも、驚きでございました。お嬢様のお傍に、また一人、理解者が増えましたわね」


「へへ、俺が見える奴は、そうそういねーからな。お前ら、もっと俺を敬えよ。特にリリ、お前はもっと俺に感謝しろ」


ティムがロゼッタの肩で得意げに胸を張ります。ロゼッタはくすくす笑いました。


「ティムったら。でも、ジンさんも、ティムが見えるなんて、なんだか不思議なご縁を感じますわ。これでティムも、寂しくないでしょう?」


リリアはティムの姿が見えないため、ロゼッタとオスカー、ジンがティムについて話しているのを聞いて、少し羨ましそうな顔をしています。


「わたくしも、いつかティムの姿を認識できるようになるのでしょうか…? お嬢様やオスカーのように、ティムと直接お話してみたいですわ」


リリアがそっと呟くと、オスカーが眼鏡をクイッと上げました。


「リリアさんには、お嬢様を守るという重要な使命がございます。ティム殿の認識は、あくまで副次的なものです。それに、私の知識によれば、妖精の認識能力は個人の資質に大きく左右されます。それよりも、今後の探偵事務所の運営について、もう少し議論を…」


「オスカー! わたくしの個人的な感情に、口出しなさらないでください! あなた様には、わたくしのお嬢様への愛が、まだ足りていないのではありませんか!?」


リリアがプンプンと頬を膨らませると、オスカーはたじろぎました。


「な、何を仰るのですか、リリアさん! 私のロゼッタ様への忠誠心は、誰にも劣りません! むしろ、リリアさんのその感情的な態度は、探偵事務所の運営において、非効率的であると断言できます!」


「なんですと!? 非効率的ですって!? お嬢様への愛に、効率などございませんわ!」


二人がロゼッタへの奉仕を巡って些細な言い争いを始めると、ロゼッタはそんな二人のやり取りを微笑ましく見守ります。


「ふふ、でも、皆でこうして一緒にいられることが、わたくしは一番嬉しいですわ。こんなに賑やかな食卓は、本当に久しぶりですもの」


ロゼッタの言葉に、リリアとオスカーはぴたりと口論をやめ、ロゼッタの笑顔に顔を見合わせてから、照れくさそうにそれぞれの皿に目を落としました。


「お嬢様がそうおっしゃるなら、わたくしは…」とリリア。


「ロゼッタ様がご満足されているのなら、何よりです」とオスカー。


港街エテルナの夜の帳が降り、アパートの窓からは、小さな探偵事務所の温かい光が漏れています。ロゼッタたちの、ほのぼのとした新たな日常が、今、始まったばかりです。


そして、パン屋の店主との交流も、この日からロゼッタたちの日常に欠かせないものとなりました。焼きたてのパンの香りが、探偵事務所の温かい光と共に、街の路地裏に優しく広がるのでした。

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