憂鬱な死神の業務日誌(仮題)
いつか書いてみたいと思い続けている物語の第一話のプロトタイプです。もう書けないかもしれないのでこれだけでも投下。
もし本編を書き出せたらこれは消すかもしれないし消さないかもしれない。
pixivにも投稿しています。
*
長い長い暗闇が続いたあと、ほんの一瞬、光を見た気がした。
それが何の光だったのか、そもそもあの暗闇は何だったのか、よく覚えていない。
ただ、気が付くと、恵美はベッドの傍らに立っていた。目の前には、光を反射して輝いてすら見える真っ白なベッドがあった。
──その中に、変わり果てた私の顔があった。
両目のまぶたは固く閉じられ、口はわずかに開いて中に暗闇が見えている。妙に鼻の穴が目立って見え、顔の肌はまるで石膏のように硬質な白さだった。
なんで私はベッドのそばに立っていて、目の前に私の顔があるのだろう?
記憶をまさぐる。子どもを産んだこと。旦那が両手に抱えた贈り物。掴まり立ちしようとする我が子。ぐつぐつ音を立てていそうなビーフシチューで満たされた鍋。子どもが修学旅行に遅刻しかけて──そう、あれは高校生の頃だったはず……それで、それから?
ふと、何かを理解して、あっと小さく声が出た。
「そっか。私、死んだんだ」
石膏のような自分の顔から、視線を向こうに投げる。看護師らしき女性と、白衣を着た壮年の男性がいた。
「2月21日17時35分」
医師と思しき男性は、小さなペンのようなものを白衣の胸ポケットに戻しながら、手短にそう唱えた。
それから、ふわりと記憶が蘇った。そうだ、彼は私がお世話になった主治医じゃないか。隣にいる女性は、私に何かと世話を焼いて世間話にまで付き合ってくれた看護師さんだ。
トイプードルを飼っていて、いつも散歩に行く前にスーパーボールみたいに飛び跳ねて大変なんですよ、と楽しそうに話してくれた。私も楽しかった。
2人とも沈痛な表情をしていたが、そそくさと部屋から出ていった。たぶん、これから私の死体の処理などがあるだろうから、そのために人を呼びに行ったのだろう。
たったひとり、自分の死体と一緒に部屋に残された恵美は、ぼんやりと病室に立っていた。
どれくらい時間が経ったか、それともまだほとんど時が流れてなかったか、ふいに背後で声がした。
「新巻恵美さんですね」
やわらかで暗さのある男性の声だった。弾かれたように振り返る。
恵美の後ろには、小さな鼻眼鏡をかけ、真っ黒な髪を長く伸ばした人が立っていた。男性──女性?きれいな髪でうらやましい。
「遅くなって申し訳ございません。僕はヨミと申します。あなたを、ご案内に参りました」
眉毛を困ったような八の字にしながら、彼は柔和な微笑みを浮かべて言った。何をそんなに困ってるんだろう?
「じゃあやっぱり、私は死んだんですか」
ヨミと名乗った男の顔を見つめていると、彼の眉が八の字から動かない。その表情のまま、ヨミは答えた。
「はい。あなたは今しがた亡くなりました。これから、あなたをあの世へご案内致します。一緒についてきていただけますか」
恵美は初めて少し狼狽した。彼から目線を落とし、片手を顎に当てる。
本当に私は死んだのか。本当に?だって、生きているような感覚はある。光も見えるし声も聞こえる。
何より……あの世なんて行ったら、いよいよ私が本当に死んでしまうような気がして、ここから動きたくなかった。
ずっとここにいたかった。もう生きていないのなら、せめて、死にもせず永遠にここに留まりたかった。
「受け入れがたいお気持ちは分かります。
しかし、ここにずっといるよりも、あの世に行った方がきっと楽しいと思います。
ここにいたら、誰とも話せませんから」
恵美の感情の動きを見透かしたように、彼は優しい声色で促してきた。
「誰とも話せないんですか」
「はい……死んだ人間は、生きた人間と話すことは出来ません。
僕たちの世界と、いま生きている人たちの世界は、完全に隔絶されているんです。
なので、みなさんあの世に行きます。あっちもこっちと同じように、賑やかですよ」
よく見ると、ヨミの顔は紙のように真っ白だった。私の死体の無機質な白さとよく似ている。八の字の困り眉と、日本人でも珍しいほどの闇夜のような黒い目と相まって、ひどく陰鬱な風貌だった。
だが、少しよれた白いシャツに、カーキ色のズボンとサスペンダーを履いていた。生気の無い顔はまさに死神だが、服装はおおよそ死神らしくない。
「あの……貴方は本当に死神なんですか。死神ってどこの宗教の……?」
思わず尋ねると、ヨミがくすぐったそうに笑った。
「そうですね。死神らしくないってよく言われます」
服装をまじまじと見つめていたのがばれていたのか、自分のシャツに手を当てる。
「僕は元人間なんです。
僕もあなたと同じように死に、魂を作り変えられて死神になりました。
死んだあとすぐは記憶が思い出せなかったり、混乱していたりして、死んだことがよくわからない方は多いです。
まして、いきなりあの世に行けと言われても道がわかりませんから……なので、僕たち死神がみなさんをご案内しに参上するんです。
大丈夫ですよ。あの世はこの世にいた人たちがつくった、この世とよく似た世界ですから」
あの世はこの世にいた人たちがつくった、この世とよく似た世界。
そこまで聞いて、恵美は、本当に自分が死んだのだという実感が、冷たい水のように心に染み渡っていくのを感じた。
それから、自分自身にも思いがけず、何かふつふつとたぎる感情が腹の底から湧き出し始めた。
なんで……なんで死ななきゃならないの。なんで私は死んでしまったの。
だって──
振り返る。目の前には白いベッド。永遠に眠り続ける私の死体。
他には、誰もいなかった。ベッドの傍らに、生きた人間は、誰も寄り添ってくれていなかった。
遠かった記憶が黒い波になって襲い来る。
誰も寄り添わないはずだ。父と母は毎日のようにひどい暴力をふるい続けたのち、幼かった私を養護施設に捨てた。施設の支援を受けながら高校にあがって、その時出会った少年はやがて旦那になった。
優しく思いやりのある人だと思っていた。実際、デートのたびに贈り物をしてくれた。だが、息子が独り立ちをした後、私の末期ガンが発覚すると、旦那はあっさり私から離れていった。
手塩と愛情をかけて育てたはずの一人息子は、成長するごとに私に冷たくなり、やがて社会人になって家を出てから二度と顔を見せなかった。
私は捨てられた。両親にも旦那にも、息子にも。
私のどこかが悪かったのなら、ひとことでも教えてくれたらよかったのに、みんな黙って私から離れていった。ベッドの傍らで私の死を泣いて嘆いてくれる人はいなかった。
そんな人生を歩んだ人間でも、たった40年で生涯を閉じなければならないのか。
これから幸せになることすら許されないのか。
声がする。聞かなければいいのに、耳を塞げばいいのに、記憶の中からその声をたぐり寄せる。
『悪いが、付き合ってられない。離婚しよう』
抗がん剤の吐き気に苦しめられ、洗面器にしがみついてこれ以上吐くものがないまま嗚咽している私に、彼は氷のような声で告げた。
その時は何も答えられなかった。答えた瞬間、嘔吐しそうだったからだ。
その後も何度も何度も、彼は繰り返し離婚を告げた。打診ではなく、宣告だった。告げる顔が回数を重ねるたびに、うんざりという表情に歪んでいくのを見て、私は離婚届に判を押した。
旦那はそれから一切顔を出さなくなった。離れて暮らす息子には、メールやチャットアプリで事あるごとに話しかけたが、返信は独り立ちしてから一度も来なかった。
私が死ぬ時、誰も寄り添わないだろうと思っていた。抗がん剤の苦しみ、手術後の痛み、日増しに凶暴になっていく腫瘍と浮腫の痛み、それらに襲われるたびにそう自分に言い聞かせた。どれだけ苦しんでも誰も寄り添ってはくれないと。
「なんで死ななきゃならないんですか。私、そんなに罪深い人ですか?
こんなに苦しんだのに、死ぬなんて結末まで受け入れなきゃならないんですか?
もっと死ぬべき人はいるはずなのに──」
そこまでまくし立てて、恵美は唇を噛みしめた。
そんなこと、この人に言って何になる。
彼は相変わらず困り眉だった。本当に困っているのか、それとも常にこの眉毛なのか、分からなかった。
だが、彼の真っ黒な目が、ゆっくりと伏せられた。
目線を下げたまま、思案しているようだった。
硬いガラスのような時間が流れる。彼は返答を掴みあぐねている。
やがて、ヨミは顔を上げた。さっきと同じ、やわらかな表情だったが、笑みは消えていた。
「……新巻さん。あなたの無念は、僕が受け止めます。僕にいくらでも聞かせてください。
あなたの人生には、きっとそれだけの苦難があったのだと思います。それを、不平等なことだと思うのは当然です。
いちばん不平等なのは、死です。死は誰にでも訪れますが、そのタイミングは人それぞれです。善い人も、罪人も、関係なくそれぞれのタイミングで理不尽に死にます。だから、あなたがそう感じるのも当然なんです。
道すがら、聞かせてください。あなたがどんな人生を歩んだのか。どんな酷い目にあったのか。
あるいは、どんな楽しいことがあったのか。
僕には、あなたのこれまでの人生を変える力は無いですけど、あなたのお話を受け入れて寄り添うことは出来ると思います」
最後は、少し微笑んでいた。それが、恵美を安心させるためのものだとようやく気がついた。
2月21日17時35分。
私は死んだ。
以前から聞いていた通り、魂は身体から抜け出して、私はあの世に行くらしかった。
生きている間にやりたいことはたくさんあった。叶えたいこと、無かったことにしたいことも山ほどあった。
だけど、それは叶わないまま、私は死んでこの世から切り離された。
その無念と後悔を、私はどれだけあの死体に置いていけるだろうか。
あるいは、置いていかなくてもいいのだろうか。
この優しげに微笑する死神と、あの世という新たな世界に、受け入れてもらえるのだろうか。
今度こそ、受け入れてもらえるのだろうか。
(憂鬱な死神の業務日誌(仮題)
第一頁 受容する世界)