soave
「今日はありがと、またね」
「うん、またね」
玄関まで見送ると、冷えた空気が肌を突き刺す。冬の寒さすら溶けちゃいそうな笑顔、ちょっとドキってしちゃう。
姿が見えなくなってから扉を閉めて、また、スタジオに戻る。夜のお楽しみ、ちょっと増えちゃった。振り返りのためにって録音のデータを残させてくれてるけど、それだけが理由じゃない。むしろ、こっちが本命で、……こんなことがバレたら、『またね』って言ってもらえなくなっちゃうかも。だから、これは私だけの秘密。USBのメモリを持って部屋に戻ろうとしたとこで、お母さんに声をかけられる。
「また聞き直すの?本当に熱心ね」
「だってなりたいもん、お母さんとか千百合ちゃんみたいに」
「そう?……頑張ってね」
お母さんは心配性だから、わたしが声優さんになりたいって言ってもあんまりいい顔しなかったのに。最近は、ちょっと応援してくれるようになった。いろいろな苦労を知ってる人と、毎週のように練習するようになったからかな。今すぐ堪能したいけど、やることは全部済ましとかないと。妄想の世界に飛び立っちゃって帰ってこれなくなっちゃう。とりあえず、データだけ落としちゃおう。
「千百合ちゃんだって、キレイで……優しいのにな」
見たことがあるアニメで聞き覚えがある声で、苦手だけど演技はすごいとは思ってたけど、初めて、生の声を聞いてキュンってなっちゃった。一目惚れじゃなくて、一耳惚れっていうのかな、そんな言葉があればだけど。そんな人と一緒に練習できて、好きなシーンの、好きなキャラの声をわたしのためだけに演じてくれる。恵まれてるなって思うけど、こんな素敵なとこを知ってるの、わたしだけ。そんなの、もったいないよね。
「どうしたら、みんな気づいてくれるのかな……っ」
普段は演じないような、優しい声。こんな声も出せるんだって羨ましくなっちゃうし、今はまだダメだけど、イヤホンで聞くと、まるで耳元でささやかれてるみたいでゾクゾクしちゃう。……ちょっとヘンタイさんっぽいから誰にも言ってないけど、こういうシチュエーション、どうしたって好きになる。……毎日、耳元で『おはよう、朝だよ』なんてささやかれたい、……できれば、誰のことも演じてない千百合ちゃんに。そんなことまで考えちゃうの、ちょっと変かな。
「……独り占めできてるのに、嬉しくなんてなれないよ」
見つけてあげたいな、なんて、何様なんだって感じだけど、……もっと、いろんなとこを見せられる場所。
今日の分、取り込み終わっちゃった。頭の中で考えだけ寝かせて、教科書とノートを向き合うことにしよう。