CYBER ROSE
水嶋彩音、当時16歳。職業編曲家の父とジャズピアニストの母を持ち、幼い頃から音楽や楽器に慣れ親しんできた。漠然とではあるが、自分も将来は音楽関係の仕事に就くのだろう、と思っていた。
だが彼女は、身体的に恵まれなかった。
生まれつき手指が小さく、ピアノの一オクターブが届かない。これはピアニストとしては絶望的な短所で、指の股を手術で切るか、ピアニストの道を諦めるかのどちらかしか道はなかった。
その事実を受け入れた彼女は、ピアニストへの道を諦め、普通の人生を歩もうと決めた。
そんなある日の、冬の寒い日のこと。学校から帰ると、編曲家である父親、浩二の元に、一人の金髪の青年が訪ねてきた。その青年の名は桐嶋九十九。とあるロックバンドのギタリストで、メジャーデビュー曲の編曲を浩二に是非頼みたい、と頭を下げていた。
彩音はお茶を用意して、九十九に出す。九十九は微笑みを浮かべながら「ありがとう」と言ってお茶を受け取る。
それから九十九は自前のノートパソコンを取り出して、テーブルに広げる。音楽編集ソフトDAWを起動させて、簡単に録音してきた楽曲を浩二に聴かせる。重めのロック調の曲だった。
キッチンに漏れ聞こえてくるその曲を聞いて、彩音は全身に電流が奔るような、そんな感覚を覚えた。今まで母親の影響でジャズやクラシックしか聴いてこなかった彩音が耳にしたロックというジャンルの音楽。完成度もかなり高く、そのままでも十分に世間に通用するような、そんな楽曲。
ピアノを諦めて普通に生きようと思っていた彩音の心が動いた。
九十九が帰ったその晩、彩音は浩二に訊ねた。
「お父さん、昼間来てた人は?」
「ああ、仕事の依頼人だよ。なんでも来年メジャーデビューするバンドのギタリストでな。デビュー曲の編曲を頼みたいと言ってきた」
彩音はふーんとうなずいて、
「何てバンド? あの人の名前は?」
「確か……『パニックフィールド』の桐嶋九十九って言ってたな。なんだ、興味があるのか?」
「うん。昼間聴いた曲、すっごくかっこよかったから」
浩二は「そうか」と返事して、
「お前が気に入ったんなら、あの仕事、請けるとしようか」
彩音は身体的には音楽家に向いていない。が、その感性は父親も認めていて、仕事に詰まると彩音に助言を仰いだことも何度かあった。だから彩音が気に入ったと聞いて、正直断るつもりだった九十九の依頼を請けることにした。
それから数日が経った頃。
彩音が街で友人らと歩いていると、人波の中に見覚えのある顔を見付けた。
金色の長髪が特徴的な、長身の男性。桐嶋九十九だ。
彩音は友人に断って九十九に近付くと、
「あの……桐嶋さん、ですよね?」
声をかけられた九十九は数瞬考える風をしてから手槌を打って、
「あ、水島先生の娘さん?」
「はい。彩音って言います。何してるんですか? こんなところで」
「曲作りの参考になりそうなCDを探して、中古屋を回ってたところです」
その言葉通り、九十九の手には中古CDショップの袋がぶら下がっていた。
「彩音さんはここで何を? 学校帰りですか?」
「はい。ついでに友達とウインドウショッピングを」
「いいですね、女学生は華々しくて」
「あはは。若さが取り柄ですからね」
お茶目に笑って返す彩音。すると九十九は窺うような視線を彩音に向けて、
「ところで……水嶋先生のお仕事の方は順調ですか……?」
依頼した仕事の件が気になって訊ねてみた。
「ええ、順調みたいですよ。こないだちょっと聴かせてもらいましたけど、原曲のイメージを残したまますごくいい感じにアレンジされてました」
「そうですか……よかった」
九十九は胸を撫で下ろす。自分が精魂込めて作った作品なのだ、編曲の進捗が気になるのは仕方ない。
そんな九十九をみて、彩音はふわりとした笑みを浮かべた。
「あの曲、発売されたらあたし買います」
「えっ? 本当ですか?」
「はい。すごくかっこよかったし、ギターもお上手ですし」
彩音がそう言うと、九十九はぶんぶんと手を振って、
「いや、僕なんかまだまだですよ。もっと上手い人なんて山ほど居ますから。――彩音さんは、やっぱりお母さんの影響でピアノをやってたりするんですか?」
問われた彩音は微苦笑交じりに応える。
「ちょっとかじったんですけど……どうも手が小さくて、ピアノに向いてないみたいで辞めちゃいました」
「もったいない……お父さんやお母さんの才能を引き継いでるかも知れないのに」
九十九は真面目な顔でそう言った。しかし、彩音はかぶりを振る。
「いえ、あたしに才能なんて……。でも桐嶋さんの曲を聞いて、ギターに興味がわいてきました」
その言葉に、九十九は驚きと嬉しさを混ぜたような表情を浮かべ、照れ笑う。
「あはは……なんか、嬉しいような恥ずかしいような気分ですね。――そうだ、だったらギターを一本、譲りますよ」
真面目な顔に戻って九十九が言う。彩音は驚きの表情で返す。
「え!? でも……」
「お世話になってる水嶋先生の娘さんなんですから。いいですよ、ギターの一本や二本。それに、興味があるうちに始めた方が上達も早いですし」
「でも、タダで貰うっていうのはちょっと……悪いですよ……」
まだ首を縦に振らない彩音に、九十九は手槌を打って、
「じゃあ、貸すってことでどうです? 返却期限なしで。もし彩音さんがギターにハマって、新しいギターを買ったら返してもらうっていうのはどうです?」
その提案に、彩音は少し考えて、
「そこまで言うんなら……じゃあ、お借りします」
ようやく首を縦に振った。それを確認した九十九は嬉しそうに微笑んで、
「じゃあ、今度先生のところに伺う時に持って行きますね」
「はい。楽しみにしてます」
彩音も微笑を浮かべた。
それから連絡先を交換して、そろそろ友人を待たせていることに気付いた彩音は「それじゃ、また」と言って手を振って、九十九と別れた。
それから数日後。編曲作業を終えた楽曲の楽譜と音源を受け取りに、九十九が水嶋家を訪れた。左手には手土産の和菓子、右手にはケースに入ったギターを持って。
浩二から楽譜一式を受け取った九十九はギターを差し出して、
「すみません、これを娘さんに渡してもらえますか?」
「? なんです、このギターは」
訊ねる浩二に九十九は薄い笑みを浮かべて、
「こないだ町で偶然お会いして。それでギターに興味がわいたって言ったから、じゃあ貸してあげるよって話になりまして」
「それはそれは……娘がご迷惑を」
「いえ、全然そんな、迷惑じゃないですよ。むしろ嬉しいんです。僕の曲を聞いて、ギターに興味を持ってくれたのが」
あらゆる楽器をすこしだけ触れる浩二には、九十九のその気持ちがよく分かった。彩音が小さい頃にピアノに興味を持ち出した時は、大層喜んだものだ。
浩二は礼を言ってギターを預かり、
「レコーディングの日が決まったら教えてください。立ち合いますんで」
「はい。宜しくお願いします」
そう言って、九十九は水嶋家を後にした。
年が明けしばらくして、いよいよパニックフィールドのデビューシングルの発売日がやってきた。
彩音は友人らの誘いを断って学校を出て、一目散にCDショップに向かった。邦楽コーナーでパニックフィールドのCDを探す。「は」行の棚を見回すこと数分、ようやく目的のCDを見付け、すぐさまレジへと直行した。
家に帰り、早速聴いてみる。以前聴いた時よりも音圧が増しており、父の仕事の成果が抜群に出ていた。
しかしそれよりも、彩音は九十九のギターテクニックに聴き惚れていた。
重めの音色でバッキングを弾き、かと思えば流れるようなギターソロを奏でる。変幻自在にギターを奏でるその腕は、確かなものだと彩音は思った。
そして、九十九が父に預けた日からずっと練習してきたギターを抱え、CDに合わせて弾いてみる。拙いが、なんとか音を拾って、自分のギターでも同じ音を出そうと試みる。
最初は上手くいかなかったが、何回も、何日も繰り返すうちに、彩音はその曲の完コピに成功した。元々ピアノをやっていたので、音を拾うのには慣れていたというのもあるが、これは彼女が一日もギターの練習を怠らなかったこと、その努力の成果と言える。
曲が弾けたことに満足した彩音は、自分で自分用のギターを購入した。
彩音は九十九を近所の公園に呼び出し、借りていたギターを返す。
九十九は驚いて、訊ねた。
「ってことは……もしかして?」
「うん。ギター買ったよ」
その言葉に、九十九は嬉しそうに破顔した。
「そっか、ついに買っちゃったか。これで彩音も一人前のギタリストだね」
「あはは。あたしなんかまだまだだよ」
「でも、将来っていう可能性はあるじゃん」
「そうだね。いつかキュウちゃんを追い越してみせるよ」
「お、言うねえ。じゃあ僕も、負けないように頑張らないとね」
言って顔を見合わせ笑う二人。
――これが、彩音がギターを始めたきっかけだった。
それからすぐに彩音はゆーた、青と出会い、THEAMを結成して瞬く間に頭角を現し、メジャーデビューするまでに至った。
――彩音の話を聞いた時哉は、あることに気付いた。彩音の顔にうっすらと朱が差していて、その表情はまるで恋に恋する乙女のように柔らかい微笑を浮かべていることに。
(ああ……彩音さんはその人のことが……)
そう考えた瞬間、何故か、時哉の胸にいばらの棘が刺さったような痛みが走った。
時哉にはその痛みの正体が分からなくて――気にしないようにすることにした。
スタバを出て、彩音が時哉に訊ねる。
「時哉は何で通学してるの? 歩き?」
「いや、自転車です」
「ああ、そういえば初めて会ったときも自転車だったね。じゃ、ここでお別れだね」
どこか名残惜しそうに言う彩音に、時哉の胸がまたしても痛んだ。その痛みが表情に出てしまったのか、彩音が心配そうに訊ねてくる。
「? どうかした?」
「い、いえ……」
視線を伏せて答える時哉。すると彩音は悪戯っぽくにやりと笑って、
「あー、もしかして、あたしと別れるのが寂しかったり?」
時哉の胸板を人差し指でつんつんと突く。その行為がくすぐったくて恥ずかしくて、時哉は顔を背けながら言った。
「そんなわけないじゃないですか!」
自分で思っていたよりもずっと語気が強くなってしまった。これではまるで怒っているみたいだ。彩音は指を引っ込めて、しおれた花のようにしゅんとなって、床を見ながら悲しげにつぶやく。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん……」
その表情はとても悲しそうで寂しそうで。また時哉の胸が痛んだ。
「す、すみません……そういうつもりじゃ……あれは、その……」
あわててフォローしようとするも、言葉が浮かんでこない。彩音は瞳を潤ませて下唇を噛んでいる。ヤバい、泣かれる……
だが時哉には、何て言えばいいのかが全く分からなかった。今まで女の子と付き合ったこともない女性経験ゼロの時哉には、泣きそうな女性を優しくなだめることなどできっこない。
あたふたと慌てながら言葉を考えていると、急に彩音がぷふっと笑いを吹き出した。それからあははーっ! と声を出し、
「わーい引っかかった! 泣くわけないじゃん、こんなことぐらいで!」
時哉を指差し、腹を抱えて高らかに笑った。
「えぇー、ウソ泣き……?」
「あははー。時哉ってけっこうかわいいね。もしかして童貞?」
「…………悪いですか……?」
むすっと唇を尖らせる時哉。すると彩音はくすくすと笑って、
「悪くないよ。スレてなくてかわいいじゃん」
いい子いい子といいながら、腕を伸ばして時哉の頭を撫でる。完全にバカにされている。
それでも、頭に伝わる彩音の温もりに、時哉は怒る気になれなかった。
怒る代わりに頭を振って彩音の手を振り払うと、
「やめてください、人が見てます。恋人同士だと思われたらどうするんですか?」
嘆息交じりに言いながら彩音を横目で見た。
彩音は意味深な瞳でうっすらと笑みを浮かべ、
「あ、それいいかもね。恋人になっちゃおっか?」
時哉の腕に抱き着いて身体を密着させる。色々と柔らかい部分が当たって、とても気持ちよかった。
が。ここは市内随一のショッピングモール、ベルシティ。横を通り過ぎる他の客の数も半端じゃない。しかも夕方とあって、学校帰りの学生や夕飯の買い物に来た主婦らが、生暖かい視線を向けてくる。
時哉は顔を真っ赤に染めて、出来るだけ目立たないように叫んだ。
「そういう冗談はやめてください! あんた芸能人でしょうに!」
「あー、うちの事務所恋愛オッケーだから大丈夫」
笑顔で言う彩音に時哉が再び叫ぶ。
「そういう問題じゃないです! はい、離れる!」
本当は腕をブンブンと振り回したかったが、そんなことをしたら彩音の柔らかい部分がもっと密着してしまう。そうなると、多分、理性が利かなくなると思った。だから反対の腕で彩音の肩を押して、無理矢理に引きはがした。
彩音は唇を尖らせながら時哉を睨む。
「もう、時哉のけちー。けちんぼー」
「けちとかそういう問題じゃないです。こういうのはもっと、その……大切な人とするものでしょう……」
大切な人と。例えば、そう、彩音の語った九十九という男とか。
そう考えると、時哉の心の中にむずむずとした嫌な感情が湧き上がってきた。よくは分からないが、彩音が憧れた男なんだと思うと気分が沈んでくる。
――その感情が嫉妬だと時哉が気付くのは、もう少し後の話だ――
時哉がそう言いながら視線を逸らすと、彩音は真面目な声音で言った。
「時哉はあたしにとって、大切な人だよ?」
と。
思わず時哉は彩音の瞳を見詰めた。その瞳には嘘やからかうような様子はなく、誠実で、とてもまっすぐで。
でも、と時哉は視線を逸らした。
所詮自分は大勢のファンの内の一人。大切だと言ったのも、ファンとして大切だという程度だろう、と。自分の心のなかでそう結論付けて、時哉は勝手にちょっと傷付いた。そして出た言葉は、
「もう、そういうのはいいですから……」
という、拒絶とも諦めとも取れる言葉だった。
その言葉を聞いた彩音はふいと小さく嘆息して、
「ごめん。時哉がかわいいから、ついいじめたくなっちゃうんだよねー」
敢えて。敢えてそんな軽口を叩いた。
「かわいくないですよ、俺なんて」
時哉はぶすっと拗ねながら返す。と、彩音はあははーといつものように笑って、
「じゃあ、あたし帰るね。時哉も気を付けて帰って」
小さく時哉に手を振る。時哉もそれに応えて手を振って、
「はい。気を付けます」
そうして二人は別れた。