不適切な表現こそ、率先して守ろう
燃えるように暑い灼熱の気候続く昨今にあるが、燃えているのは太陽や火山島や体育館裏倉庫や花の都巴里といったリアル世界の現実のみにとどまらず、空想世界に於いてもそうらしい。──なんでも、人気作品が燃えておるとのこと。
その作品の名は『無職転生』──読んだことはなくとも名前くらいは聞いたことがある人が大多数と思われる。かく云うわしもそのひとり。漫画版の広告で鼻をほじりながら文句をたれているコマを見たのと、なにやら定期的に燃やされているという印象をもっているほどには。
さて定期的に燃やされていると云ったが、そのほとんどは理不尽な云いがかり、やくざ者や不良少年の難癖に等しきものに他ならなかった。──或いは、悪い姑のごときと呼ぶべきか。いづれにせよ、重箱の隅を突つきまわった挙句ほじくり返すようなものにすぎぬ。
では此度はどうであろうか?──内容を知らぬため読んだ記事の内容でしか言及せぬが、それによると“作中で主人公が奴隷を買った” というものであった。それについて海外で批判が起きているというものである。
だから、なんだ?
だから、なんだと云うのだ?
批判の内容とは、“奴隷を買うのは許されない行い” というが主であり、“海外に於ける奴隷制度への忌避感はすさまじいものであり、それに対する配慮が足りない” というが背景にあるという。
SO WHAT?
SO FUCKING WHAT?
まこと、耳を貸すべきではない意見。「そんなこと、俺が知るか」で片づけるべきものに相違ない。──しかしながら、そうした取るに足らぬ意見に同調する者が本邦にもいるというが、極めて頭の痛いことである。
曰く、“海外ではセンシティヴな問題故に配慮すべし” じゃの、“そうした問題をよく知りもせんと軽々しく触れるな” じゃの──果ては、“倫理観に照らし合わせ現実にはまずい行為を作中世界に出すな” などと云うを公言する者までいたという。
脳が──お悪いのか?
そもそもが、フィクションの世界。加え、リアル現実世界に存在する地球のいづれとも異なるまったくの別世界が舞台のお話に、こちら現実リアル世界の価値観を当てはめようとするのが初手から間違っている。──時代劇に喩えてみればすぐわかる。刀を持って街をうろつく浪人たちの描写をみて「銃刀法違反だおかしい」などと云う者がまともか?──そやつの脳髄のほうがよほどおかしいと云うものである。
まあ、そのような文句をつけているは極めて極少数にて、大多数の者は真っ当な、冷静にして的確な判断をしているというは大きな救いである。まだまだこの世も捨てたものではないと云えよう。
しかしながら、幾らかの言にはそうした救いすらもなくしてしまうにつながる恐るべきものがあったも、また事実。──それも、自らの手によって手放すという最悪の手段をもって。
さてこうした件に於いてしばしば言及される『表現の自由』というものであるが、これはこの世に人類が誕生し文明が築かれた時にはすでに当たり前のように存在していたものでは──断じてない。長く続く歴史に於いて、血の滲む或いは血を流した末に勝ち取られたものなのである。
手放せば簡単に消えてしまいかねぬ──
──すこし、昔話をしよう。今では髪に白いものが混じりはじめた齢となったこのわしが未だ若さに満ち溢れていた頃──今現在より数えてだいたい、20年かそれをいかばかりか遡った頃の話である。
唐突であるが、わしは映画が好きだ。しかし初手から映画を観るような熱心な子供ではなく、その入口は特撮作品であった。──おそらくはメタルダーが最初の入口なのであろうが──映画へのツリールートを開いたはやはりウルトラマンであったと云えよう。──今でも初代ウルトラマンの輝きは何ら色褪せるものがないほどに。
ところが、わしがいよいよの子供であった頃にはウルトラシリーズは定期的に放映されていないという、いわゆる『穴』の時期であった。80からティガまでの空白期間。──故に、その視聴はもっぱらレンタルビデオか、或いは夏休み限定の放送くらいしか、なかったのである。
うちは決して裕福ではなく、故にビデオを全部借りて全話観るなど夢物語。かと申してテレビ放映も、すべて観られるわけでもなし。──当時はチャンネル権争いというものが存在していたのであるから。──わしは飢えていた。そして夢見た。必ずやウルトラマンを全話観るのだと。──同時に、ウルトラシリーズ以外の特撮にも深い興味を抱いた。怪獣図鑑を穴が開くまで擦り切れるまで読んだ。──これも必ずやすべて観るのだと、幼き心に誓ったのである。
やがて年月が経ち、高校生となったわしは夢を実行に移した。バイトで稼いだ端金を握り、ビデオを借りに行った。──デッキにビデオを入れて再生がはじまった瞬間のわくわくと感動たるや、それはそれはすさまじいものであったを、今でも覚えている──
さて、高校生ともなれば子供の頃には見えなかったものが見え、気づかなかったものに気づくようになっておるもの。──わしは気づいてしまった。
時折、音声が途切れることに。
最初は、テープの劣化かしかたないなと思っていた。ビデオにも注釈が書かれていた。“一部音声に途切れがありますがこれは原盤に含まれていたものです” と。
はじめは、「まんまと」それに騙されていた。
しかしその真実に気づく時が来た。──忘れもせぬ。それは『帰ってきたウルトラマン』の㐧23話、かに座怪獣の出てくる話である。──作中、かに座の星が消える度に苦しむ少女が出てくるのであるが、その際のやりとりが、
「あの娘は星が消える度に、まるで【無音】のようになってしまったんだ」
「【無音】のように?」
と、いうものであり、その後、少女の部屋へ向かった隊員たちが見たものは、
「ヴァアアアアアアーーッ!」
と、寝台の上に寝っ転がり転げまわり狂乱病患者のごとくに叫びまわる少女の姿であった。
「なんぞこれ!『気違い』やんけ!」
左様! 音声の途切れは『不適切な表現』とされた台詞を消したがためのことに相違なかった!“原盤に含まれていた” なぞは嘘、嘘、大嘘! 八分目でご麺しか作れない女ァァ!──わしはまんまと騙されていたことにそこで気づいたのである!
いち度気づいた後は理解がはやかった。ウルトラQのケムール人の話でも『気違い』は消されまくっており、ウルトラセブンのメトロン星人の話でも「まるで気違い病院だ」の名台詞が消されていた! なんと云う冒瀆であろうか! 許されぬ大罪!
──信じられぬやもしれぬが、実際にこんなことが当たり前のようにまかり通っていたのである! これは気違いへの配慮のみに非ず。──ウルトラセブン12話が原爆被害者への『配慮』にて話そのものが消されているは有名にあるが、前作ウルトラマンにてもそうした配慮は存在していた。㐧4話、巨大ラゴンの話にて、「音楽好きなラゴンがどうして音楽を聴くと暴れるようになったのか」と云うイデ隊員の問いに対し、
「 【 無 音 】 」
と云うキャップの反応がなされていたのだ。──なお本来の返答は、
「放射能の影響で音楽好きな本能もなにも狂ってしまったのだろう」
と、云うもの! ふざけんな配慮! 配慮なんてくそくらえだ!
こんな、こんなくそみてぇな配慮がなにになると云うのか? 言葉を消せば、作品を消せば偏見や差別が消えてなくなるとでも云うのであろうか?
ならない! 断言する! むしろ気づいたときに反動でものすごい怨みと憎しみを買う! 喜んで差別主義者の汚名を着ようというほどには! 怨みはパワー! 復讐はやる気! A×C×(アメリカのバンド)の曲にも書いてある!
A×C×の名前が出たが、ここでロックにも言及しよう。──批判意見の中には、「アニメだから」と無意識に安心しているようなものがみられたが、アニメではないからと云って安心はできぬ。一切できぬ。この世に安全な場所などないのだ! 何故ならばロックも、こうした表現規制に晒されてきたのだから!
たとえば『マトリックス』1作目の主題歌、マリリンマンソンの『ロックイズデッド』であるが、このシングル盤は『FUCK』じゃの『SHIT』じゃのが消されているのである。アルバム『メカニカルアニマルズ』に収録されているものと聴きくらべてみるとすぐわかる。
消されるは音声のみに非ず。ジャケの差し替えなぞよくある話である。中でもスコーピオンズなぞ、ほぼすべてのジャケが毎回差し替え措置を受けて当たり障りのないメンバー写真に変えられていたりする。──ついに本邦も例外ではなくなり、『狂熱の蠍団』のジャケが差し替えられるに至った……くそったれ。
さて批判意見を述べている者の中には、「低俗なるもの批判されてしかるべき、もっと高尚たれ」などと権威主義に満ちた言を述べているも見受けられた。──なるほど一見もっともなれど──甘い! とろけそうなほど甘い! 当時世界中のロックを塗り替えた、かのニルヴァーナさえも、『レイプ・ミー』のMTVに於ける演奏禁止命令、並びにウォルマート販売に於いて『ウェイフ・ミー』への曲名変更を余儀なくされているのである! あのニルヴァーナでさえこれなのである。権威や格の高さなぞ──何らの意味も持たぬ!
このようなことがかつては公然と行われていたのである。──かつては行われていた。
そう、今現在に於いては、こうしたもののいくらかは過去のものとなっているのである。──DVD化に際し、冒頭やパッケージ裏に注釈をつけることにより、「規制される前のオリジナル音声、オリジナル表現のまま」発売されるに至ったのである!
これは、先人たちが戦いの末に勝ち取ったもの。──わしはその経緯を見てきた。この歪み曇った眼で! その眼の曇りが晴れてゆくを、ありありと感じ取った!
「一平くんまぁたそんな気違いの書いた本なんて読んでェ」
「めくら! ドメクラ! 座頭市だか座頭2だか知らねェが俺に百両稼がせろ、コラァ!」
「神宮寺大佐、あなたは戦争気違いだ」
「朝鮮は支那の属国か! それとも独立国か!」
「姫はこれより啞になりなされ」
よみがえった! いち度は消された台詞の数々がよみがえったのである! 台詞のみではない。消す箇所が多すぎて再販されず絶版となっていた作品たちもがここに帰ってきたのである!
──とは申せ、すべてではない。まだまだ帰ってこないものが多すぎる。獣人雪男、めくらのお市……このように、未だ完全にもとに戻ったわけではない。未だ道は途上なのである。
しかし、ああ、そんな道の途上にもかかわらずそれを妨害せんばかりか、こうした先人たちの努力をも無にしかねぬ言説が、かくも上がってこようとは! それも正義の顔をして、良識派ぶって!──うぬらは正義に非ず。自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪だ! 地獄への道は善意で舗装されているとは、よくぞ云ったものである。
何ゆえにわしが(たとえ弱く見えようとも)このような強い言葉を使うのか? それは先に述べたように──いち度規制を許すと簡単にすべて燃えてしまうをその身で知り、この眼で見てきたからである。──もうあんなのは、2度と御免だ。決して対岸の火事ではない。“オゲレツ作品だから俺には関係ない” などと油断していては、あっと云う間に火は川の上を走ってうぬらを燃やすのである。灰になるまで! その時になって悔やんでももう遅いのである。
火はちいさなうちに消し止めねばならぬ。燃え上がる大火を前にして個人は無力なのである。
PUT OUT THE FIRE!
まだちいさなうちに、手がつけられなくなるほど燃え広がる前に。──その時必要なのは良識派ぶったきれいな従属の態度に非ず。たとえオゲレツで下品な唾棄すべき最低人間の汚名を着てでも、1歩も退かぬ毅然とした対応なのである。
志、叶うまで──悪役を演じよう!
暴れてゆくよ、ターバンを巻いてサーベルを振りかざして──
「どれだけその表現で繊細がすぎる者が傷つこうと知ったことがあるか! その曲つくったヤツが名前も顔も知らんヤツの尻の穴を掘ってようが人間ブチ殺してようが、知るか! わしの好きな作品を燃やすな! 好きでもない作品も燃やすな! 次は貴様らの番だぞ!」