人間椅子
戦斧が鋭く風を切り裂き、しなやかな黒豹の如き肢体が舞う。
豪快にして華麗な殺陣を演じているのは、シャーリー=ディアニス。ここハリウッドを代表する人気女優の一人だ。
アクションシーンのドライリハーサルは滞りなく終わり、この映画の主演である褐色の肌の美女は、タオルで汗を拭きながら、共演者の私に気さくに話しかけてきた。
「アナ、次はいよいよ例のシーンの撮影ね」
「ええ……」
彼女に他意がないことはわかっているのだが、正直気が滅入る。
この後に控えている本番の撮影を前に、私は覚悟を決めるべく、目をつむって深呼吸した。
『政治的正しさ』の機運の高まりにより、映画の登場人物にも多様性が求められるようになってきた。
しかし、それは時に行き過ぎて、本来ヨーロッパ系をイメージしているはずのキャラクターにまでアフリカ系の俳優を起用したりして、物議を醸すこともしばしばだった。
モデル出身のシャーリー=ディアニスは、以前娯楽大作『プロミスト・ネバーランド』で主役のピーターパンを演じ、その類稀な肉体美と、繊細な演技力と、スタントを使わずに自らアクションシーンも演じ切る身体能力で、たちまちにして人気女優への階段を駆け上がった。
しかしその一方で、アフリカ系女性がピーターパン役を演じたことに対し、原作に対する冒涜だといった厳しい批判も相次いだ。
そこで、ハリウッドの映画人たちは考えた。ならば、元々アフリカ人のキャラクターをアフリカ系俳優に演じさせたら文句は無かろう、と。
あ、いや、彼らが本当にそんなことを考えたのかどうか、私は知らない。
が、いずれにせよ、シャーリーを主演に据えて、歴史大作『叛逆の女王(The Rebel Queen)』が制作されることとなった。
シャーリーが演じる本作の主人公は、「ンジンガ=ムバンデ」。十七世紀にアフリカのアンゴラあたりを支配したンドンゴ王国の女王で、ポルトガルによる植民地支配に対する抵抗を繰り広げた人物なのだそうだ。
そして、私、下積み女優のアナ=リドリーは、女王の付き人役を演じる。
言い遅れたが、私自身ももちろんアフリカ系だ。
ンジンガはンドンゴの王が奴隷の女性に産ませた娘ながら、幼い頃から父親に目を掛けられ、政治軍事のABCを学ぶとともに、部族の伝統的武器である戦斧の扱いにも長けていたという。しかし、父の死後王位に就いた異母兄からは数々の虐待を受けていた。
その異母兄ムバンディ王は、植民地支配を強めようとするポルトガルの圧力に悩まされており、打開策として、子供の頃からポルトガル人宣教師よりポルトガル語やヨーロッパの学問も学んでいたンジンガに、かの国との外交交渉を任せる。
そして、ンジンガは当時ポルトガルの大使館が置かれていた現アンゴラの首都ルアンダに赴く。
これから撮影するのはその外交交渉の場面。本作における見せ場の一つであり、私にとっては試練の場となる。
舞台はルアンダのポルトガル大使館。ポルトガルの植民地総督ジョアン=コレイア=デ=ソウザと会見するにあたり、ンジンガは、部族の伝統的衣装を身に纏い、随員たちにも同様の格好をさせた。ヨーロッパ風の服を着たのでは、彼らに屈服したと見做されると考えたからだ。
均整の取れた長身に色鮮やかな民族衣装を纏い、そこかしこを宝石や熱帯産の鳥の羽(もちろんレプリカだ。今はワシントン条約が厳しいからな)で飾ったシャーリーは、まさしく女王の風格を漂わせていた。やっぱりオーラがあるなぁ。
会見の場で、ベテラン俳優カルロス=ドミンゴス演じるジョアン総督は、でっぷり太った体で豪奢な椅子にふんぞり返っていた。そして一方、ンジンガのための椅子は用意されていない。
お前たちは敷物の上に直に座って、立場の違いを弁えろ、という意思表示だ。
このエピソードは史実であるらしいのだが、そこでンジンガはどうしたかというと――。
「おや、私の椅子が無いようですね。ああ、いえいえ、ご用意いただくには及びません。スングラ」
そう言って、傍らに侍る私に目を向ける。「スングラ」とは私演じるンジンガの付き人の名前。スワヒリ語で兎のことだそうだ。
「はい、姫様」
恭しく頷き、私は四つん這いになる。その背中に、シャーリーの弾力あるお尻が乗っかった。
ンジンガは、付き人を椅子代わりにして、ポルトガルとの交渉に臨んだという。
その時のポルトガル総督の顔は、さぞや見ものだったろう。
さて、私をお尻に敷いた状態で、シャーリー演じるンジンガと、カルロス演じるジョアン総督との、丁々発止の交渉が繰り広げられる。その間、私はずっと椅子に徹しなくてはならない。
舞台演劇ではなく映画の撮影なのだから、シーンの間中ずっと、本当に椅子をやる必要もなさそうなものなのだが、マイケル=ハミルトン監督の趣味、もとい方針で、カメラに映らない部分でもリアリティを追求するのだそうだ。まあこれも試練だと思って耐えるしかない。
そして、名バイプレイヤーとしてあちこちの現場で引っ張りだこなカルロスのスケジュールの都合上、今日ここでばっちり決めないと、後の撮影スケジュールが大変なことになってしまう。
プレッシャーと、シャーリーのお尻の重み――本人には言えないが、長身で筋肉質なのだから、女性とはいえ重いのは当然だ――とで、押し潰されてしまいそうだった。
一方、私の上のシャーリーはというと。今や人気女優の一人ではあるものの、まだまだ役者として場数を踏んでいるとは言えないはずなのに、すごく堂々としている。本当に、女王様そのものだ。
年齢的には一つ年下の彼女だけれど、私にとっては憧れの人だ。
モデル業の傍ら、演技やアクション、歌にダンスまで、レッスンにレッスンを重ね、ついに掴んだ主演の座。そこで演技と無関係な批判、さらには個人的な誹謗中傷にまで晒されても、決して挫けなかった彼女。共演者やスタッフに対しても、明るく気さくで感謝の念を持った態度を崩さない彼女。本当にかっこいい。
ああ、誤解のない様に言っておくけれど、私は別に同性愛者ではないからね。
ついでに言うと、彼女も違う。ボーイフレンドはNBAのスタープレイヤーで、絵に描いたようなセレブカップルだけれど、実はハイスクール時代からの付き合いで、お互いに芽が出ない時期も支え合った仲だという。何なんだこの好感度ポイントの塊は。
――などと、とりとめもないことを考えていたけれど、これはきつい体勢に耐えるためで。決して演技に集中していないわけではないので、誤解の無きよう。
人の背中を椅子にして、外交交渉を繰り広げる女王様、というのはかなりシュールな状況だし、その場面を大まじめに撮影しているのも、かなりシュールだ。
何だか、日本人の友人ミチコに見せてもらった日本のバラエティ番組のDVD、笑ってはいけない何とやらを連想してしまう。
いかん、また思考が逸れた。
いや、ちゃんとカメラの動きは目で追っているから。ちょうど今、私の表情をアップで抜こうとしている。
事前にマイケル監督とも話し合った演技プランに従って、私は表情を作る。
この場面でにやけるなんていうのはもちろん論外としても、辛いのを懸命に堪えている表情では、その状況を強いているンジンガにヘイトが向いてしまいかねない。
敬愛する姫様のご命令ならば喜んで、という路線が、部下を心酔させるンジンガのカリスマ性も演出できるだろう、という結論に至った。
しかし、あまりに恍惚とした表情では、ちょっとニュアンスが変わってしまう。というか、ヤバいニュアンスになってしまう。
匙加減を間違えないよう、私の女優魂の見せ所だ。
そしてカメラは引いていき、場面はンジンガと総督の交渉場面に戻る。
ムバンディ王が敵対したことを詰るポルトガルに対し、あれは異母兄の若気の至りでして、としれっと言い放つンジンガ。
いや、演じるシャーリーが二十代前半なものだから騙されそうになるけど、史実だとこの当時ンジンガは三十代後半。それより年上の異母兄をつかまえて、若気の至りなどとはよく言ったものだ。
総督の毒気を抜かれたような表情を、カルロスがばっちり演じているであろうことは、見なくてもわかる。
「もちろん、今後貴国に敵対はいたしません。それに、貴国から逃亡してきた奴隷も、すべて返還いたします」
ンジンガ側の交渉カードはこの二点。そして、ポルトガルに突き付けた要求は、
「その代わり、今後私どもから貴国に対して貢納を献じるのは取り止めとさせていただきます。それと、私どもの領内での砦の建設も、中止していただきたいと存じます」
明らかに釣り合いが取れてないんだよなぁ。武力で上回り、アフリカを見下しているポルトガルが、そんな要求を飲んでくれるわけがない。
「いや、中々面白い冗談を聞かせてもらった。はるばる海を渡って来た甲斐があったというものだろう」
ジョアン総督が鼻で笑い飛ばす。
交渉決裂か、と思われたが、ここでンジンガが新たなカードを切る。
「なるほど。ところで、あなた方が海の向こうからいらした目的は、何でしたでしょうか?」
意表を突かれた総督。しかし余裕は崩さず、
「決まっている。暗闇をさまよう君たちに、主イエス=キリストの教えを広めるためだ」
「はい。そのように聞き及んでおります。では、私もその尊い教えに帰依したいと存じますが、よろしいでしょうか」
思わず葉巻を取り落とすジョアン総督。
あんたたちの一番の目的を果たさせてやるから、そっちもちょっとは妥協しろよ、ということだ。
総督は考え込む。王族の一人で、西洋の事情にも明るいらしいこの女性を改宗させることが出来れば、この地での布教が一気に進む可能性が高まる。それに、中々利用価値がありそうだ。ここは思い切って妥協してみるか。
そんなわけで、ンジンガはキリスト教の洗礼を受けることとなった。洗礼名は「アナ」。奇しくも、私のファーストネームと同じだ。
で、無事交渉がまとまり、ようやく私も立ち上がることを許される。
とは言え、ここで思いっきり伸びをしたり腰をほぐしたりしては、完全にギャグシーンになってしまう。
何事もなかったように立ち上がり、姫様に付き従って退出する私を、総督は珍奇な生物を見るような眼差しで見送った。
ちなみに、ンジンガに関して、この時彼女は「王族たるもの、同じ椅子には二度と座らない」などと言って、付き人をそのまま放置しただとか、斬って捨てただとかいう話も伝わっているらしい。
が、マイケル監督曰く、
「きっと俗説だよ。部下を大切にしないような人物が、大事を成せるわけないだろ」
というわけで、その説は不採用となった。脚本会議では私を斬り捨てる案も出てはいたらしいので、監督に感謝だ。
この場面の後、ンジンガは、ジョアンに代わるポルトガルの新たな総督を相手に戦を繰り広げ、西洋の銃火器に苦しめられながらも、ついに独立を守り抜く。
もっとも――、映画の中ではぼかされているが、ンジンガは自らも奴隷貿易を行っていたらしい。アフリカ人は奴隷貿易の一方的な犠牲者、というのは一面的な見方で、奴隷を出荷することで繁栄した現地国家も多数あったのだとか。
もしかすると、私やシャーリーの先祖を出荷したのは――、いや、これくらいにしておこう。
「カット! よーし、上出来だ!」
マイケル監督の声が弾む。
豪華な民族衣装姿のシャーリーが、握り拳を突き出し、私もそれに合わせる。
カルロスからも、いやぁお疲れ様、と声を掛けてもらった。
このシーン以外では、私はそれほど重要な役どころではない。肩の荷が下りた気分を味わいつつ、主役としてまだまだこれから多くのシーンの撮影を残しているシャーリーに思いを馳せた。
その後二ヶ月の撮影期間を経て無事クランクアップし、公開が始まった『叛逆の女王』は、やたらと金がかかる割りにコケる確率が高いと言われる歴史大作物のジンクスどおり、あまり快調な滑り出しとはならなかった。
しかし、シャーリーの名演は徐々に口コミで評判を得て、じわじわと上映館数を増やしていき、最終的には世界的なロングランヒットとなった。
戦斧を揮ってのアクションシーン、CGっぽさを感じさせない迫力の戦争シーン、さらには異母兄に対する凄惨な復讐シーンなど、本当に盛沢山な本作の中で、それらのシーンを抑えて特に話題となったのは、例の外交交渉シーンだった。
いや、試写会で観てみても、ポルトガルに対して一歩も引かないンジンガの姿は、本当に格好良かった。
そして、そのおこぼれなのかどうかはわからないが、私も少しずつ重要な役どころのキャラクターを演じさせてもらえるようになってきた。
もちろん、シャーリーの背中はまだ遥か彼方なのだが。
それにしても、だ。
私の名前で検索を掛けてみると、「アナ=リドリー うらやましい」だとか、「アナ=リドリー そこ代われ」などと出て来るのは、一体どういうことなのか――。
――Fin